第2話 封鎖札の向こう
灰環迷宮の入り口は、巨大な獣が口を開けたような自然洞窟の形をしている。だが、そこから吐き出される空気は、ただの洞穴のそれとは明確に異なっていた。
ユーク・フェルドは、迷宮の入り口の手前――本来なら『第零層』あるいは『外縁前広場』と呼ばれるべき場所に立ち、目の前に突き刺さっている一本の木の札を見下ろしていた。
風雨に晒され、表面が毛羽立ったその札には、かすれた赤いインクで文字が書かれている。
『危険・立入非推奨』
『王立迷宮監督院 保全運用部』
ユークは短く鼻で笑い、札の縁を指でなぞった。
木材は湿気を吸ってスカスカになり、インクには魔力が微塵も定着していない。ただの安い顔料だ。
王立迷宮監督院が、迷宮を『完全停止・閉鎖』と認定した場合、このようなみすぼらしい木札を立てて終わることは絶対にない。地脈から漏れ出す魔力を完全に遮断するため、術式を刻んだ石碑を打ち込み、物理的な封鎖壁を構築するのが規則だ。
だが、ここにはそれがない。
「……正式な封鎖手続きを踏む予算すら惜しんで、札だけ立てて見捨てたってわけだ。雑な仕事だ」
独り言が、乾いた風に溶けて消える。
書類上では「閉鎖」の判が押されているが、実態は単なる「放棄」だ。面倒だから手を引いた。その証拠が、この広場全体に無惨な形で散らばっていた。
ユークは札から視線を外し、入り口へ続く広場の中へと歩みを進めた。
そこは、かつて迷宮を維持・管理するための前線基地として機能していた場所だ。だが今は、無残な残骸の吹き溜まりと化している。
足元に、赤緑色に変色したソフトボール大の金属球が転がっていた。
表面のガラスレンズが割れたそれは『魔力流定点観測球』だ。迷宮から漏れ出す魔力の濃度を測り、崩落や魔物発生の予兆を捉えるための高価な機材である。それが、台座から蹴り倒されたように泥の中に埋もれている。
さらに歩を進めれば、未開封のまま固まってしまった補修用粘土の樽、打ち込み途中で放置された測量用の鉄杭、そして、作業員が身を守るために設置したはずの簡易防壁の鉄枠が、ひしゃげた状態で赤錆を散らしていた。
これらはどれも、撤収する際に回収、あるいは破棄しなければならないものだ。魔力を帯びた機材を放置すれば、それがノイズとなって迷宮の沈静化を妨げるからである。
だが、現場の人間はそれをしなかった。
「荷車に積む手間も、壊す手間も惜しんで逃げたか。……よほど急いで撤収したか、あるいは、上が『回収費用も出さない』と切り捨てたか」
ユークの脳裏に、安宿で読んだ旧報告書の束がよぎる。
彼は広場の隅、雨風をしのぐように倒れていた鉄枠の陰に、泥にまみれた羊皮紙の束が落ちているのを見つけた。作業用のバインダーに挟まれたまま、誰かが落としていったものらしい。
しゃがみ込み、泥を払って中を開く。
文字の半分以上は滲んで読めなかったが、端に押された赤いスタンプの文字だけは、呪いのようにくっきりと残っていた。
『維持費超過』
『再調査優先度:最低』
それを見た瞬間、ユークの胸の奥で、冷たい苛立ちが小さく燃えた。
監督院の連中は、迷宮を「魔石と素材を産出する鉱山」か「名誉を得るための闘技場」としか見ていない。彼らにとって、利益が出ない迷宮は無価値だ。
だが、迷宮とは本来そういうものではない。
地下の魔力流を循環させ、周辺の生態系を維持し、地盤の安定を担う『巨大な複合施設』だ。動いている機械の電源をいきなり引っこ抜けば壊れるように、迷宮もただ放置すれば、溜まり込んだ魔力と物質が行き場を失い、内側から腐り落ちる。
特に、この灰環迷宮は最悪の性質を持っていた。
ユークは羊皮紙を元の場所へ戻し、ついに迷宮の薄暗い入り口へと足を踏み入れた。
腰のベルトからライトの魔道具を取り出し、魔力をほんの少し流して光を灯す。
照らし出された通路の壁面を見て、ユークは目を細めた。
足元から腰の高さまでの壁は、ゴツゴツとした乾いた岩肌だ。だが、そこから上の天井にかけては、滑らかで不自然なほどの丸みを帯び、うっすらと黒い苔の死骸がこびりついている。
「乾いた坑道と、湿った水脈が、同じ通路に同居している……典型的な複合型だ。だから維持費が嵩んだんだ」
迷宮の環境は大きく分けていくつかある。岩石と乾燥した空気が支配する『鉱脈型』。地下水と苔が循環する『水脈型』。これらが別々の階層で分かれているなら管理は楽だ。
だが、灰環迷宮はこの二つが複雑に絡み合っている。
鉱脈型の岩盤は固いが、水気を吸うと脆くなる。逆に水脈型の流路は、乾燥するとひび割れて水漏れを起こす。
一方が不調を起こせば、もう一方が致命的なダメージを負う。常に両方のバランスを調整し続けなければならない、管理の手間ばかりがかかる厄介な施設なのだ。
「水気を逃がすための換気と、岩を支えるための水圧。それが機能して初めて回る場所なのに……完全に死んでるな」
ユークはライトの光を壁の隅へ向けた。
そこには、手のひらほどの大きさの、平べったい虫の死骸がカラカラに乾いて転がっていた。
迷宮の浅い階層に生息する『壁這い苔食い虫』だ。こいつらの「仕事」は、水脈層から伸びてくる苔を食べ、適度な量に保つことだ。苔が増えすぎれば壁が過剰に水気を持ち、岩盤が崩れる。だから、この虫の存在が迷宮の物理的な寿命を延ばしている。
魔物は単なる倒すべき敵ではない。迷宮という施設を維持するための『歯車』であり『従業員』だ。
その苔食い虫が、餌である苔を食えずに餓死している。
それはつまり、迷宮の自浄作用と循環機能が完全に停止し、施設としての「仕事」が回らなくなっている決定的な証拠だった。
ユークはさらに数歩、奥へと進む。
光が届かない暗闇の奥から、冷たい空気が流れ込んでくる。
彼はふと立ち止まり、鼻を鳴らした。
「……臭いな」
完全停止した迷宮なら、空気は乾き切り、ただの埃っぽい古墓の匂いがするはずだ。
だが、いまユークの鼻腔をくすぐっているのは、古い鉄錆と、生ゴミを数日放置したような腐敗臭だった。
空気が死んでいるのではない。どこかで腐った空気が、微弱な圧力によって押し出されてきているのだ。
「循環臭が混じってる。奥のコアは、まだ完全に止まり切っちゃいない。だが、吐き出す先が詰まってる」
見捨てられた施設が、死にきれずに痙攣している。
ユークの職業病とも言える「現場を読む目」が、急速に迷宮の異常を解像度高く捉え始めていた。
その時だった。
――ビィィン……。
足の裏から、微かな、だが明確な振動が伝わってきた。
地震ではない。もっと局所的で、何かがパイプの中で詰まり、圧力が限界に達して軋んでいるような、嫌な微振動だ。
足元の床石は完全に乾いている。だが、振動の質は明らかに「重い液体の流動」を伴っていた。
「……水脈側で、大量の液溜まりが起きてる。それが行き場を失って、鉱脈側の岩盤を下から圧迫してるのか?」
ユークは反射的にライトの光を真上――頭上のアーチ状の天井へと向けた。
複合型迷宮の弱点。乾燥した岩盤は、下からの異常な水圧に弱い。
パラ……パラパラッ……。
光に照らし出された天井の亀裂から、乾いた砂が細い糸のようにこぼれ落ちてきた。
一本、また一本と、砂の滝が増えていく。
ただの劣化による砂落ちではない。岩盤そのものが、下からの見えない力に歪められ、結合を解かれようとしている現象だ。
「マズい。バランスが完全に限界を超えてる……!」
ユークがそう判断し、後方へ飛び退こうとした直後。
奥の暗闇から、巨大な胃袋が裏返ったような、鈍く重い轟音が響き渡った。
――メキョォォォォン……ッ!!
広場全体を揺るがす地鳴り。
それは、見捨てられた迷宮が上げた、致命的な崩壊の産声だった。




