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第1話 灰の報告書

 安宿の二階は、昼でも薄暗かった。


 窓枠は反り、板戸の合わせ目から痩せた光が斜めに差し込む。寝台は軋み、卓は片脚が短い。壁際には前の客がこぼした干し草が残り、水差しの縁には白い曇りがこびりついていた。金を払って借りる部屋というより、雨風を避けるための箱に近い。


 ユーク・フェルドは、その卓の上で紙束を三つに分けていた。


 売り物になる紙。焚き付けにしかならない紙。そして、本来なら廃棄に回す前に誰かがもう一度目を通すべき紙。


 今の彼に回ってくるのは、質屋や紙問屋の下請けが投げてよこす、払い下げの記録や写しの整理ばかりだった。紐を掛け直して重さを揃えれば終わる仕事だ。だが、どうしても手が止まる紙がある。日付の並びが悪いもの。記録欄の空き方が妙なもの。誰かが雑に「済」とだけ書いて投げたくせに、数字の方がそれを認めていないもの。


 そういうものを見ると、仕分けの手が遅くなる。


 監督院を追われて三月と少し。くたびれた外套はまだ手元に残っているが、肩書きはもうどこにもない。王立迷宮監督院、保全運用部、生態維持課。名乗ればそれなりに聞こえる役職だったはずだが、いまや安宿の薄暗い部屋で廃棄記録を拾い読みする男でしかなかった。


 それでも記録の読み方だけは抜けない。


 封を裂かれた古封筒の中から、一枚の調査票が滑り出た。端が湿気で波打ち、角に払い下げ印が押されている。何の気なしに日付を追い、案件名を見たところで、ユークの指が止まった。


 未登録野良ダンジョン灰環迷宮グレイサーク


 かつて何度か調査票だけは回ってきた、見捨てられた放棄案件だ。危険のわりに採集価値が低い。入口導線が安定しない。鉱脈と水脈の癖が中途半端に噛み合って、事故だけが増える。維持費に対して利が薄く、深く手を入れるほど損が膨らむ。そういう理屈で最後には「再調査優先度最低」に落とされ、記録の端へ追いやられた。


 ユークは票を脇へ置かず、封筒を逆さにした。閉鎖勧告の写し。外縁事故の簡報。湿度観測の抜粋。巡回報告の断片。どれも整っていない。整っていないからこそ、投げ捨てられたのだろう。


 まず目についたのは閉鎖記録だった。


 維持費不相応。損失超過。危険につき立入非推奨。文面は短く、逃げ足だけが早い。正式封鎖というより、もう手を引いたと示すための紙だ。コア停止相当、魔力帰還実測ほぼゼロ。そこまではいい。


 だが、その後ろに重なっていた湿度観測の抜粋が妙だった。


 閉鎖処理の後日付になっている。しかも外縁観測井の数値が、完全停止した施設の周辺とは思えない揺れ方をしていた。死んだ迷宮の近辺なら、変化はもっと痩せる。水気は抜け、温度差は鈍り、空気は澱む。ところがこの記録では、明け方だけ湿度が戻る日がある。弱い。だが断続的だ。


 別の紙を重ねる。事故簡報。街道脇で起きた小規模陥没。降雨なし。周辺土壌に過湿傾向。さらに巡回の端紙には、走り書きで「腐臭一辺倒ではない」「風穴に循環臭あり」とあった。書いた人間は深く考えていない。だから逆に、現場で感じた違和感だけがそのまま残っている。


 ユークは紙を並べ替えた。


 完全停止した迷宮は、静かに死ぬ。少なくとも、死に切れないにしても死に方には癖が出る。湿りの抜け方。地盤の痩せ方。臭気の鈍り方。魔力帰還が本当に絶えていたなら、こんな数字にはならない。


 もし、どこか一部だけでもまだ繋がっているなら。


 放置された排水が地下で別区画へ回り込み、監視が死んだまま汚泥だけが逆流する。崩落で空気の流れが変わり、外縁の事故が増える。中で回っているのがただの穴ではなく、生態と循環を抱えた施設なら、死にきれないまま腐り続ける方が厄介だ。


「……雑すぎるだろ」


 声は独り言にしかならなかった。


 下の階からは、鍋を引く音と酔客の笑いが遠く上がってくる。卓の向こうに誰かがいるわけではない。怒鳴ったところで何も返らない。それでも喉の奥に引っかかるものがあった。


 戦果なし。討伐適性なし。保全部の落伍者。


 処分の席で並べられた言葉は忘れていない。大型種を斬り伏せる剣はなかった。新規契約で目立つ才もなかった。だが、崩れかけた導線を前にどちらへ人を逃がすか、汚染が広がる前に何を切るか、壊れた流れをどこまで持ち直せるか、そういう仕事まで無価値だったことにはならない。


 ならないはずなのに、切られた。


 今さら復職したいわけではない。名誉を取り戻したいわけでもない。ただ、完全停止と書いた紙の裏に、死に切っていない癖が残っている。それを見たまま捨てるのが気持ち悪かった。


 職業病だ、とユークは思った。


 厄介だが、今さら治るものでもない。


 必要な数枚だけを抜き取り、外套の内へ差し込む。残りは綴じ直して売り物の束へ戻した。宿代の足しは要る。遠出するならなおさらだ。


 その日のうちに出発はしなかった。手持ちの銀では、とても辺境までは届かない。記録に残る方角を確かめ、通る街道を拾い、安い荷運びの手伝いを探した。途中の宿代を浮かせるために、荷車番の夜番を二度請け、干し草の積み替えもやった。地味で、金にもならない雑務だったが、今のユークにとっては見慣れた手間の延長でしかない。


 旧報告書を懐へ入れてから、灰環迷宮の封鎖圏へ辿り着くまでに二十日近くかかった。


 最初の数日は、人の多い街道を下った。監督院の名残がまだ届くあたりでは、灰環迷宮の名を口にしても首を傾げられるだけだった。知っている者がいても、「昔切られた低価値の穴だろう」としか言わない。記録どおりだ。切られた案件は、関わる価値もないものとして忘れられていく。


 十日を過ぎるころには、道は目に見えて痩せた。荷車の数が減り、街道脇の小屋は修繕の手が止まっている。宿場ごとの品揃えも悪くなり、油は濁り、黒パンはさらに硬くなる。けれどその頃から、道端の小さな異変が目につき始めた。


 沢沿いの石樋に、乾き切らない泥が残っている。雨のあとでもないのに、踏み固められた地面が朝だけ湿る。古い休憩所の水槽に、藻ではなく灰色の膜が薄く張る。どれもそれだけで迷宮由来と決めつけられるほどではない。だが、湿りが戻る時間帯と土の鳴き方に、記録で見た癖と似たものがあった。


 ある夕方、荷車の隊列から外れて一人で歩いていたとき、道脇の崩れた石垣に手を当てた。表は乾いているのに、継ぎ目の奥だけ冷えている。水が死んでいない感触だった。上流の森は痩せ、下草は薄い。なら水はもっと素直に減るはずなのに、どこかで流れが溜まり、押し返されている。


 ユークはそのたびに立ち止まり、懐の紙片を思い出した。たぶん近い。灰環迷宮の不調は、もう外へ滲んでいる。


 十九日目の朝には、まともな街道を外れた。そこから先は、道というより過去の往来の名残だった。荷車の轍は草に半分飲まれ、道端の標識は傾き、誰も立て直していない。かつて資材置き場だったらしい広場には、朽ちた杭がまばらに残っていた。補修用の石材が崩れたまま積まれ、鉄具の箱は空で、蓋だけが風に鳴っている。


 人が完全にいなくなった土地の荒れ方ではなかった。


 逃げるように手を引き、そのあと誰も戻らなかった場所の荒れ方だ。


 道の先に、小屋跡が見えた。屋根板を失い、半分崩れている。だが炉の跡は比較的新しく、つい数年前までは誰かが使っていたように見える。迷宮が死んだから村が消えたのか、村が痩せたから迷宮の維持も切られたのか。たぶん両方だろう。こういう場所は、片方だけが先に壊れることは少ない。


 日が傾くころ、小さな沢沿いの休憩所跡を通った。石の水槽は乾ききっていないが、底の泥が重い色をしている。流れは細く、表面だけが澄んで見えるくせに、棒で触れると下から鈍い濁りが巻いた。上流で何かが詰まり、どこかで余計な圧がかかっている濁り方だった。


 ユークはしゃがみ込み、指先で泥を擦った。腐り切った泥ではない。生き物の匂いが薄いかわりに、石の粉と湿った鉄の気配が混じっている。放置された坑道の泥に近い。鉱脈側の崩れと、水脈側の停滞が一緒に出ると、こういう質になることがある。


 立ち上がって沢の先を見る。細い流れは森へ消え、その向こうに山裾が黒く沈んでいた。


 空気も変わった。


 山に近づくほど、土の匂いに鉄っぽい乾きが混じる。その奥に、ごくかすかな湿り気があった。腐臭と呼ぶには薄く、森の匂いと呼ぶには鈍い。何かが奥で循環しきれず、吐き出せず、抱え込んでいるような空気だ。死んだ穴ならもっと単純に古くさい。これは死臭ではなく、死に損ねた施設の息に近い。


 ユークは歩幅を落とした。


 灰環迷宮は、鉱脈型と水脈型の癖が混じる複合型だ。坑道は乾いた顔をしているくせに、一度流れが崩れると水側の事故が追ってくる。崩落だけ見て手を打てば、別の区画から湿路が噛みつく。逆に水だけ追えば、荷重の逃げ先を失って天井が鳴く。面倒で、収益が薄く、手間だけがかかる。だから切られた。


 だから、放置が危ない。


 夕闇が山肌に沈み始めたころ、迷宮の入口圏が見えた。


 まず目に入ったのは、人のための設備の死に方だった。見張り台だったらしい石組みは半ば崩れ、片脚だけ残った梯子が斜めに空を指している。入口前の広場には測量杭が朽ちたまま残り、錆びた留め具が土から半分顔を出していた。割れた感知器の殻、使われなかった補修材、持ち帰られなかった低位の石材。撤収の途中で諦めたような物ばかりだ。


 正式に閉じた施設の静けさではなかった。


 死んだと判断して手を引いたくせに、きちんと閉じるだけの手間は惜しんだ。そんな放棄の痕が、広場じゅうに残っている。


 入口脇には、風化した封鎖札が傾いて立っていた。表面は削れ、文字の半分は読めない。「危険」「立入」「非推奨」――その程度の断片だけが残っている。正式封鎖の術式刻印も、恒久封鎖の石印も見当たらない。面倒だから札だけ立てて終わらせた、という扱いだ。


 ユークは札の前でしゃがみ込み、端に触れた。木は湿気を吸って柔らかい。だが、足元の石は乾き気味だった。周辺の土も表面だけは軽い。妙な食い違いだった。外でこれなら、中ではもっとズレている。


 耳を澄ます。


 風は弱い。それでも、ただの洞穴よりは奥から息が来る。止まり切った穴の空気ではない。山の冷えと別に、底の方からじわりと押し返す温度差がある。


 目を上げると、入口の闇はただ黒く開いていた。人の手が離れて久しいはずなのに、そこにある空気は静かな死体のものではない。何かがまだ動いている。ごくわずかでも、動いているからこそ外の流れを狂わせている。


 下手に生き残った設備ほど始末が悪い。


 誰にも見られないまま、監視は死に、浄化は痩せ、崩落だけが進む。そうして限界が来たとき、迷宮の中だけでは済まない。街道の陥没、沢の濁り、村の井戸、外縁の魔物の流れ。周りから先に壊れる。


 懐の紙が外套越しに鳴った。


 ここまで来るのに、二十日近くかかった。途中で引き返す理由ならいくらでもあった。金はない。所属もない。見に来たところで、褒める者も雇う者もいない。それでもここに立っているのは、結局、紙の中の違和感が間違っていなかったからだ。


 ユークは立ち上がり、封鎖札の向こうを見た。


 草の擦れる音もしない。鳥も近寄らない。なのに、完全な無音ではない。岩の奥で、何かがきしんでいる。水滴ではない。風鳴りでもない。もっと鈍く、どこかで流れが詰まり続けているような、嫌な沈黙だった。


 彼は誰に聞かせるでもなく、小さく言った。


「止まってるなら、静かなはずだ」

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