第4話 汚泥は上る
瓦礫の山から立ち上る土煙が、ライトの光を乱反射して視界を白く染め上げている。
鼓膜の奥では、先ほどの崩落が残した耳鳴りが、いまだにキーンと高い音を立てていた。
ユーク・フェルドは、旧式の保守用退避窪みの中で、丸めていた身体をゆっくりと解いた。
全身の骨がきしむような感覚があるが、致命的な痛みはない。肺の空気を一度すべて吐き出し、浅く、慎重に深呼吸をしてから、土煙の中へと這い出した。
分厚い外套は細かい岩の破片で何箇所も裂け、髪や顔は灰色の粉塵で真っ白に汚れている。だが、ユークの双眸だけは、暗闇の中で冷たい光を宿したまま、目の前の惨状を正確に測り直していた。
数十秒前まで、迷宮の奥へと続いていたなだらかな下り通路。
それは今や、完全に『終わった道』と化していた。
アーチ状の天井が数十メートルにわたってへし折れ、数トンから数十トンクラスの巨大な岩盤が、複雑に噛み合いながら折り重なっている。隙間からはパラパラと乾いた砂がこぼれ落ち続けており、いまこの瞬間に瓦礫の山へ足を踏み入れれば、わずかな体重移動だけでバランスが崩れ、二次崩落を引き起こすのは火を見るより明らかだった。
「見事な崩れ方だ。坑道区画の天井が、これほど綺麗に落ちるなんてな」
ユークは懐から手ぬぐいを取り出し、口と鼻を覆うように強く結びつけながら、低く独り言をこぼした。
パニックにはならない。彼が王立迷宮監督院の保全運用部で叩き込まれたのは、剣の振り方ではなく、事故現場の冷静な『棚卸し』だ。
何が壊れたのか。何が残っているのか。そして、次に何が起きるのか。
叩き棒の先端で、足元に転がってきた岩の破片を小突く。
岩の裏側にびっしりと張り付いた、水分を吸って黒く変色した苔。それは、この崩落がただの老朽化ではなく、水脈層からの異常な水圧によって内側から押し出された結果であることを示している。
ならば、現象はこれで終わりではない。
ズズ……ズボボボ……。
土煙の向こう、高く積み上がった瓦礫の山のさらに奥から、奇妙な音が這い出してきた。
それは、清らかな地下水が岩肌を打つような音ではない。もっと粘り気があり、重く、そしてどす黒い何かが、岩と岩の隙間を無理やり押し広げながら迫ってくるような、気味の悪い流動音だった。
「……水圧で天井が落ちたなら、当然、その『水』の逃げ道ができるわな」
ユークの予測を裏付けるように、瓦礫の山の最下層、床と岩が接するわずかな隙間から、ブクブクと泡を立てながら『それ』が姿を現した。
灰黒色の、ドロドロとした液体。
一目見ただけで、それが単なる水ではないことが分かる。空気に触れた表面から、緑色がかった気泡が弾け、そのたびに鼻腔を殴りつけるような猛烈な悪臭が放たれた。
古い鉄錆。生物の腐乱死体。そして、行き場を失って発酵した濃密な魔力の残滓。
それらが何年もの間、迷宮の底で混ざり合い、煮詰められた結果生まれた『致死性の汚泥』だ。
「最悪だ。崩落で水脈の隔壁が完全に破れて、下層の死水が逆流してきやがった」
ユークは思わず後退りした。
本来、迷宮という施設において、これらの廃棄物は『下へ下へ』と流れるように設計されている。重力に従って最下層の沈殿池へと集められ、そこに生息する特殊な魔物たちによって長い時間をかけて分解・濾過され、再び無害な魔力として地脈へ還っていく。それが正常なサイクルだ。
だが、今の灰環迷宮は違う。
下層の処理機構が完全に死に絶え、処理しきれなくなった汚泥が溜まりに溜まった結果、物理的な圧力となって上層の岩盤を突き破ったのだ。
汚泥は意思を持っているかのように、ジワジワと入り口層の床を侵食し始めた。
ひび割れた石板の溝を埋め、ユークが立っている広場全体へと、黒い波紋を広げるように進んでくる。
「ただの水漏れじゃない。こいつは、迷宮の死骸そのものだ」
ユークの脳内で、急速に警鐘が鳴り響く。
この汚泥が広場全体を覆い尽くせばどうなるか。
まず、足場が完全に失われる。泥の深さが足首を越えれば、人間の歩行速度は著しく低下し、もし泥の中に尖った岩や魔物が潜んでいれば対処のしようがない。
だが、それ以上に致命的なのは『気化する毒ガス』だ。
汚泥の表面積が広がれば広がるほど、空気に触れて発する有毒ガスの量も指数関数的に跳ね上がる。現状の手ぬぐい越しの呼吸でも、すでに喉の奥がヒリヒリと痛み始めている。このまま泥が広がりきれば、十分も経たないうちに肺の粘膜が焼け爛れ、窒息死するだろう。
逃げるか。
背後を振り返れば、入り口へ続く道はまだ完全に塞がってはいない。今すぐ走り出せば、汚泥に飲まれる前に外へ出られるかもしれない。
だが、外へ出たところで事態は何も解決しない。
この汚泥は、迷宮の入り口を越えて外界へ溢れ出す。そうなれば、外縁の森は枯れ、クルン村へと続く地下水脈は完全に毒に染まる。迷宮の入り口は「ただの危険な穴」から、「地域一帯を汚染し続ける毒の泉」へと最悪の変貌を遂げるのだ。
「……冗談じゃない。そんな尻拭いまで、誰にも押し付けられてたまるか」
ユークは舌打ちをし、覚悟を決めたように腰から工具袋を引き寄せた。
戦うための武器はない。だが、現場を『回す』ための道具と知識ならある。
「元を塞ぐのは不可能だ。あれだけの瓦礫をどかして水脈の穴を埋めるなんて、軍隊の土木部隊でも連れてこない限り無理だ」
現象を観察し、瞬時に『できないこと』を切り捨てる。
「押し返すのも無理。なら、やるべきは『拡散の遅延』と『表面積の縮小』だ」
ユークは泥に塗れるのも構わず、汚泥の波打ち際から数メートル手前の空間へと飛び出した。
広場には、先ほどの崩落で飛んできた手頃な大きさの瓦礫と、かつて監督院の作業員たちが放置していった補修用の石板が散乱している。
彼は最も分厚く、重い石板に叩き棒をねじ込み、テコの原理で無理やり引き剥がした。
「重てぇ……ッ!」
腕の筋肉が悲鳴を上げ、額から脂汗が噴き出す。
力任せに石板を引きずり、汚泥の進行方向に対して『斜め』になるように立て掛けた。
さらに、その石板の裏側を支えるように、中くらいの大きさの瓦礫を集めて土嚢のように積み上げていく。
泥を『せき止める』ためのダムを作っているのではない。
そんなことをすれば、あっという間に水位が上がり、仮設の壁ごと決壊して一気に広場を呑み込まれるだけだ。
ユークが作っているのは、扇状に広がろうとする汚泥を、広場の端に元々備わっていた排水溝のラインへと強制的に誘導するための『漏斗』だった。
右側から迫る泥の波に対し、瓦礫で斜めの防壁を築く。
泥は壁にぶつかり、せき止められるのではなく、壁に沿って滑るように方向を変え、細い一筋の『川』となって広場の左端へと流れ始めた。
「よし、流路は絞れた。少しでも泥が空気に触れる面積を減らせば、ガスの発生量は抑えられる」
泥にまみれ、息を切らしながらも、ユークは次々と瓦礫を積み重ねていく。
それは、英雄的な剣技でも、奇跡のような魔法でもない。ただひたすらに泥臭く、地味で、過酷な土木作業だ。
だが、この地味な作業の連続こそが、致命的な事故を防ぐための『運用の現場』そのものだった。
十五分後。
ユークの仮設導水壁はなんとか形になり、瓦礫の奥から無限に湧き出す汚泥は、広場全体に広がることを阻まれ、壁際の一本の細い濁流となって、かつての排水溝へと流れ落ちるようになった。
ドロドロと流れる泥の川を見下ろしながら、ユークは荒い呼吸を整えた。
完全に解決したわけではない。排水溝の先――未利用の区画へ泥を垂れ流しているだけであり、いわば『ツケを先送り』にしただけだ。いずれ排水溝も詰まり、再び溢れ出すだろう。
だが、少なくとも今すぐ広場が毒の沼に沈み、自分が窒息死する事態だけは回避できた。
ライトの光を、細く絞り込んだ泥の川へ向ける。
ふと、ユークの視線が泥の表面を漂う『何か』に釘付けになった。
それは、半透明の灰色をした、ゼリー状の破片だった。
泥の中で完全に溶けきらず、辛うじて固形を保っているその欠片を見て、ユークは苦々しい顔で呟いた。
「低位粘性獣……泥食い種の死骸か」
破片を叩き棒の先で掬い上げる。
間違いない。迷宮の下層で、腐敗した泥や魔力残滓を体内に取り込み、濾過して生きる『掃除屋』の成れの果てだ。
迷宮の生態系において、彼らは決して目立つ存在ではない。冒険者に狩られることもなく、ただ暗闇の中で黙々と迷宮の排泄物を食べ続ける底辺の魔物。
だが、彼らがいなければ、迷宮の循環は成り立たない。
巨大な動物が内臓を持つのと同じだ。消化と排泄の機能を持つ『胃袋』としての魔物がいるからこそ、迷宮は清潔に保たれる。
「……こいつらが全滅したから、泥が分解されずに溜まり続けたんだ」
死骸の破片は、泥の強い酸性に耐えきれずにドロドロに溶けかけていた。
環境が悪化しすぎた結果、本来なら泥を食うはずの掃除屋すらも生きられなくなり、生態系が完全に崩壊した。その『欠落』の痕跡が、この致死性の汚泥となって押し寄せてきているのだ。
モンスターはただの敵ではない。
それぞれが『仕事』を持ち、噛み合うことで迷宮という装置を回している。
その歯車が一つでも欠ければ、どうなるか。
その答えが、今、ユークの目の前で起きている惨状だった。
ユークは死骸の破片を泥の川へ投げ捨て、立ち上がろうとした。
だが、その瞬間、強烈な目眩が彼を襲った。
「ガッ……ゴホッ、ゲホゲホッ……!」
手ぬぐいで覆っていたはずの口元から、激しい咳が漏れる。
泥の表面積を絞ったとはいえ、流路を整える作業の中で、ユークはあまりにも長く汚泥の近くに留まりすぎた。
空気中に気化した有毒ガスが、確実に彼の肺を蝕み始めていたのだ。
視界が不自然に滲む。
いや、ユークの目が霞んでいるだけではない。入り口層の空気そのものが、薄緑色がかった毒の霧によって濃密に濁り始めているのだ。
手元のライトの光が、数メートル先で霧に乱反射し、まったく先を照らせなくなっている。
さらに悪いことに、ドロドロと流れる汚泥の低い音が広場全体に反響し、他の音をすべてかき消していた。
「マズい……目も、鼻も、耳も、完全に塞がれた」
視界は毒霧に遮られ、鼻は強烈な腐臭で麻痺し、耳は泥の音しか聞こえない。
迷宮において、五感を奪われることは『死』と同義だ。
どこから岩が落ちてくるか分からない。どこに魔物が潜んでいるか分からない。
そして、その恐るべき事実を突きつけるかのように。
ライトの光が届かない数メートル先の毒霧の中で。
カチカチッ、と。
明らかに岩の音とは違う、硬い甲殻がすれ合うような音が、複数、ユークを取り囲むように響き始めた。
汚泥の匂いに引き寄せられたのか、あるいは崩落で住処を追われたのか。
見えない暗がりの中で、狂乱した魔物の群れが、無防備なユークを標的と定めて這い寄ってきていた。
索敵が完全に死んだ層で、ユークは致命的な盲目状態のまま、見えない敵の群れと対峙することになった。




