第27話 一日三組
灰環前砦に『利用規則』の木板を掲げた翌日。
試験開放を翌朝に控え、ユーク・フェルドは迷宮内部と砦を往復しながら、慌ただしく準備を進めていた。
「ルールを書き出しただけで、人間がその通りに動いてくれるなら、監督院の保全運用部なんてとっくに解散している」
ユークの呟きには、長年の裏方仕事で培われた、人間という不確定要素に対する諦観と実務的な冷徹さが混ざっていた。
規則を掲げるのは大前提だ。しかし、訪れる冒険者や採集者の中には、文字が読めない者や、読めても自分に都合よく解釈する者が必ずいる。
だからこそ、ルールは言葉だけでなく、現場の『物理的な仕掛け(デザイン)』として実装されなければならない。
ユークはまず、迷宮内部の標識設置から取り掛かった。
ルーメの放つ青緑の光が『安全導線』であり、赤紫の光が『進入禁止』であることは、言葉で説明する。だが、色が見分けづらい者や、足元ばかり見て歩く者のために、視覚的な念押しが必要だ。
瓦礫の中から拾い集めた古い槍の柄や鉄パイプを短く切り、そこにラスティアで買ってきた布を巻きつける。
青い布を巻いた杭を、安全導線の曲がり角や段差の前に打ち込み、「ここは道なり」という物理的な道標にする。
一方で、進入禁止の旧通路や危険地帯の前には、赤い布を巻いた杭を二本、バツ印になるように交差させて打ち込んだ。
さらに、赤い杭の手前の床には、グランに指示して浅い溝を引かせ、「これ以上踏み込むな」という明確な境界線を物理的に設定した。
「これなら、文字が読めなくても『ここからはヤバい』と本能的に分かるはずだ」
次にユークが取り組んだのは、『退避合図』の整備だ。
人間を入れる以上、突発的な事故やイレギュラーな魔獣の襲撃リスクはゼロにはならない。その時、迷宮の奥にいる利用者にどうやって危険を知らせ、撤収させるか。
「ルーメ。もし俺が『退避』のパスを送ったら、安全導線の光をすべて『黄色』に変えて、激しく点滅させろ。それが異常を知らせる第一の合図だ」
ルーメの本体がゼリー状の体を震わせ、了承の光を明滅させた。
だが、光だけでは見落とす可能性がある。
ユークは、迷宮の入り口付近と、第一次安全帯の終点付近の二箇所に、よく響く金属のパイプを吊るした。
そして、そのパイプのすぐ横にシルクスを呼び寄せた。
「シルクス。俺が合図を出したら、お前の糸でこの金属パイプの横に吊るした石を弾いて、鐘のように鳴らせ。カンカンという高い音が鳴ったら、それが『即時撤収』の合図だ」
光の明滅と、甲高い金属音。この二つが合わされば、探索に夢中になっている連中も嫌でも顔を上げるだろう。
迷宮内の安全設計を終えると、ユークは前砦の受付へと戻った。
利用規則の木板の横に、平たい石の台を据え付ける。
「採っていいものを『低位鉱石』と『濾過砂』って文字で書いても、素人にはどれのことか分からない。結果として、壁の魔力石をほじくり出そうとしたりする」
ユークは、昨日ラスティアで換金したのと同じ、表面に赤錆の浮いた低位の鉄鉱石と、小瓶に入れた魔力濾過砂を、その石の台の上にポンと置いた。
「『持ち出しが許可されているのは、この見本と同じものだけ。それ以外は一切禁止』。これで言い逃れはできない」
見本展示という極めて原始的だが確実な方法で、利用者の目的を誘導する。
さらにユークは、砦の前広場に石灰の粉で線を引いた。
入場の手続きを待つための『待機列』の線と、帰還時に報告を行うための『報告エリア』の枠だ。入場者と退場者の動線が交差して混乱しないよう、物理的に人の流れ(フロー)を分けたのだ。
「よし。これで一通りの実装は終わった。……次は、模擬運用だ」
頭で考えた導線が、実際の現場で機能するかどうか。
ユークは自ら受付カウンターの前に立ち、『欲深く、不注意な新米冒険者』のつもりになって、動線をなぞり始めた。
「待機列に並び、受付でルールの説明を受け、見本を見る。ふんふん、なるほど。そして迷宮に入る」
入り口のアーチをくぐり、青緑の光と青い布の杭に従って歩く。
歩きながら、ユークはわざとキョロキョロとよそ見をし、壁の窪みや暗がりを覗き込むように振る舞った。
「おっ、あっちの暗がりの奥に、何か光るものがあるんじゃないか?」
ユークがわざと、安全導線から赤紫の光が灯る進入禁止区画へ足を向けようとした、その時だった。
「……おっと」
踏み出そうとした足が、絶妙に傾斜した岩肌でツルリと滑りかけた。
安全導線側はグランが平らに均しているが、禁止区画への入り口は、自然の崩落のまま放置されているため、ひどく歩きにくい。
ユークはすぐに本来の管理者の顔に戻り、周囲を観察した。
「歩きにくいのはいいが、これだと『故意に逸脱しようとした』のか『足を滑らせて禁止区画に転がり込んだ』のかの区別がつかないな。事故の元だ」
ユークはすぐにグランを呼び寄せた。
「グラン。この分岐の角の岩、少し丸く削ってくれ。逸脱しようとした奴が滑って落ちるんじゃなく、物理的に『壁』だと感じるように、少しだけ段差を急にしてくれ」
グランが顎と爪で岩をゴリゴリと削り、不規則な斜面を「明確な段差」へと変える。これなら、うっかり滑り落ちることはなく、登ろうとすれば明確な『違反の意思』が必要になる。
さらにユークは、ルーメの光の配置も微調整した。
「ルーメ。そこの角の青い光、手前の大きな岩の影になって、入り口側からだと一瞬見失う。光の位置をもう少し高い場所にずらしてくれ」
そして、最も重要なシルクスの索敵網。
「シルクス。お前の警戒糸だが、人間の腰から頭の高さに張るのはやめろ。本職の冒険者はカンが鋭いから、顔に糸が触れれば『罠だ』と思って剣で切り払う。人が歩く高さには一切張らず、足首スレスレの高さか、絶対に手が届かない天井付近だけに張り直せ」
冒険者を監視するためであっても、彼らに干渉していると気づかせてはならない。
シルクスは少し不満そうに前脚を動かしたが、ユークの波長に込められた意図を理解し、素早く糸の再配置に取り掛かった。
最後に、ユークはフェズを呼び出した。
「フェズ。お前は明日、絶対に人間の前に姿を現すな。幻影も、よほどの緊急事態で俺が指示を出さない限り使うな」
フェズのような幻惑獣は、その姿自体が「討伐対象」として冒険者の狩猟本能を刺激してしまう。気配を完全に消し、影から有事の際のバックアップに徹することが、フェズの明日の役割だった。フェズはつまらなそうに幻の尾を揺らし、暗闇へと消えていった。
「……よし。これで、やれることは全部やった」
グランが一箇所を削り、ルーメが照度と位置を変え、シルクスが糸を調整し、フェズが隠れる。
たったそれだけの微修正だが、現場の安全性は模擬運用前と比べて格段に向上していた。
ユークは砦の受付カウンターに戻り、冷たい水で喉を潤した。
空はすでに赤く染まり、夕闇が迫っている。
「あとは、明日、人間たちがルール通りに動いてくれるかどうかだ」
夜が更け、ユークは小部屋の毛布に包まった。
体の疲労はピークに達していたが、頭の芯は冴え渡り、なかなか寝付けなかった。
王立迷宮監督院で保全運用部にいた頃も、迷宮の開放日にはプレッシャーを感じていた。だが、あの時は背後に巨大な組織のバックアップがあり、大勢の職員がいた。
今は違う。
この灰環迷宮の命運も、明日やってくる人間たちの命も、すべてユークという一個人の管理能力と、五体の小さな魔獣たちの双肩にかかっている。
「……失敗はできない。死なせるわけにはいかない」
何度目かの寝返りを打ち、ようやく浅い眠りについたユークを、翌朝、冷たい空気が目覚めさせた。
ついに、試験開放の朝が来た。
ユークは顔を洗い、灰色の外套を羽織って、受付カウンターの所定の位置に立った。
契約個体たちはすでにそれぞれの配置につき、完璧な布陣で静かに待機している。
太陽が山の稜線から顔を出し、砦の広場を明るく照らし始めた頃。
ザク、ザク、ザク。
北の街道を下から登ってくる、複数の足音が聞こえてきた。
灰漁りのようなコソコソとした足音ではない。重いブーツが土を踏みしめる、堂々とした、それでいて油断のない足取り。
ユークの視線の先、砦の入り口に、三組の集団が姿を現した。
使い込まれた剣と盾を装備した、中堅らしき三人組のパーティー。
大きな背負い籠を持ち、分厚い革の服を着た、初老の採集者二人組。
そして、真新しい装備を身につけ、少し落ち着きなく周囲を見回している、若い男女の三人組。
ラスティアの酒場や裏路地で流した「クルンの水が澄んだ」「灰環はルールさえ守れば安全に稼げるらしい」という僅かな噂を嗅ぎつけ、あるいはドーランのような運び屋からの情報を得てやってきた、最初の『客』たちだ。
彼らは、廃墟だと思っていた前砦に、真新しい受付カウンターがあり、一人の管理人が静かに立ち尽くしているのを見て、一様に驚きの表情を浮かべて足を止めた。
「ようこそ、灰環迷宮管理所へ」
ユーク・フェルドは、媚びることもなく、威圧することもなく、極めて実務的な、淡々とした声で彼らを迎え入れた。
「本日は試験開放日です。入場をご希望の方は、こちらの『利用規則』を熟読の上、同意いただける方のみ、受付へお進みください」
冒険の舞台が、管理された現場へと変わる。
その歴史的な第一歩の、幕が開いた。




