第26話 使わせるための規則
灰環前砦の小部屋は、朝の静寂に包まれていた。
入り口の受付カウンター代わりに並べた木箱の上に、ユーク・フェルドは真新しい木板とナイフ、そして記録帳を広げていた。
昨日の朝、元冒険者の運び屋ドーラン・ヘイズが残していった言葉が、ユークの頭の中で何度も反芻されていた。
『死ぬ道を残したまま、無条件で客を入れるな』
迷宮の内部インフラは、シルクスたち五体の契約個体の力で『死なない導線』として機能し始めている。だが、それはあくまで「決められた道を、正しく歩けば」という条件付きの安全だ。
「ルールを知らない人間は、平気で安全導線を外れる。赤い光の奥を覗き込み、支柱を蹴り、モルトの泥水路をせき止める」
二日前の夜、入り込んできた灰漁りたちの行動が、その最悪のシミュレーションをユークに提示してくれていた。
彼らは悪意があったわけではない。ただ、強欲で、無知だっただけだ。だが、ダンジョンという極めて繊細な生態系において、人間の無知は意図的な破壊活動よりも遥かにタチが悪い。
「だからといって、ここを完全に封鎖して俺一人で引き籠もるわけにはいかない」
迷宮は外界と繋がっていなければ、いずれジリ貧で死ぬ。
モルトが泥を浄化しても、その先で生み出された『価値』を外部へ搬出し、新しい資材や資金を運び込まなければ、維持費が尽きて終わる。それに、クルン村の水脈のような「外界との摩擦」を解決するためにも、この迷宮が『管理下にあり、有用な施設である』ということを社会に認知させる必要がある。
「利用と維持。その二つを両立させるための中間線。……それが『規則』だ」
ユークは鉛筆を手に取り、記録帳の白紙のページに向かった。
権威を誇示するためでも、通行料をふんだくるためでもない。迷宮という現場を、人間という不確定要素を含めて「安全に回す」ためのシステム設計。
ユークはまず、これまでの異常や危険箇所、そして契約個体たちの『処理能力の限界』を書き出していった。
「シルクスの索敵網と、フェズの誘導能力。この二つが同時に処理できる『イレギュラー』の数には限界がある。大勢の人間が一度にバラバラの方向へ動けば、警告も誘導も追いつかない」
そこから導き出される最初のルール。
『一、入場は一日三組までとする。一組の人数は最大五名まで』
これなら、迷宮内に同時に存在するのは最大十五人。入り口付近の『外縁区画』に限定すれば、ユークと五体のモンスターの連携で十分に監視し、万が一の逸脱にも対応できるキャパシティだ。
「次だ。どこまで入らせるか」
ユークは自作した外縁区画の地図を見つめた。
安全導線である青緑の光が届いているのは、入り口から数十メートルの範囲だけ。その先は、まだ足場も固まっておらず、何より中枢への影響が強すぎる。
『二、立ち入り許可エリアは「外縁区画」のみとする。青緑色の光の導線から決して外れてはならない』
『三、赤紫の光、黄色の点滅光が灯る区画は「完全進入禁止」とする』
これは絶対の命題だ。赤い光の奥は、毒ガスや崩落が待ち受ける死の罠だ。そこへ立ち入ることは、利用者の死を意味し、同時にユークの『死なせない管理』の敗北を意味する。
「問題は、立ち入った連中が『何をするか』だ」
冒険者や採集者の目的は、迷宮の資源を持ち帰ることだ。だが、今の灰環迷宮には、壁の魔力石一つ、崩落の支柱一本に至るまで「そこになければならない理由」がある。
『四、迷宮の壁、床、天井、および既存の設備(石積み、木材等)の破壊・持ち出しを固く禁ずる』
「だが、何も持ち帰れないなら誰も来ない。今の段階で、採取されても迷宮の機能が死なない『許容範囲』を設定しなければならない」
ユークは数日前に自分がラスティアの町へ持ち込んだ『石屑』を思い出した。
グランが崩した土砂の中に混じる低位の鉄鉱石や、モルトが排泄した魔力濾過砂。あれらは、迷宮の循環の中で自然に排出される『副産物』であり、持ち出されてもインフラにダメージはない。
『五、採取を許可するのは、安全導線上に自然落下している土砂内の「低位鉱石」、および指定の排出溝にある「濾過砂」のみとする』
そして、最も重要な時間制限。
『六、探索は日没前までに必ず撤収すること。夜間の進入および滞在は一切認めない』
夜は迷宮の魔力が変質し、野良魔獣の動きが活発になる。また、ルーメの光の視認性も昼夜の温度差でわずかにブレる。何より、ユーク自身と契約個体たちにも『休息の時間』が必要だ。二十四時間営業の管理など、一週間で過労死してしまう。
ユークは書き出した六つのルールを読み返し、ふと鉛筆の手を止めた。
「……これだけじゃ足りない」
ルールを破った者に対する『罰則』がない。
王立迷宮監督院の管理下にある正規の迷宮であれば、ルール違反者には重い罰金や、悪質な場合は警備隊による拘束が待っている。
だが、ユークは監督院を追放された身であり、武力で相手を制圧するような私兵も持っていない。
「罰金は取れないし、暴力で従わせることもできない。……なら、どうする?」
ユークの思考は、どこまでも実務的でドライだった。
彼にとって、ルール違反者への最も効果的な対処は「相手を痛めつけること」ではない。「現場から永久に排除すること」だ。
ユークは七つ目の、そして最後のルールを書き加えた。
『七、退場時に必ず「前砦受付」にて状況の報告を行うこと。上記の規則に一つでも違反した者、および危険導線へ逸脱しようとした者は、次回以降の立ち入りを永久に禁ずる』
自己責任という言葉で誤魔化さない。
「ルールを守れないなら、二度とこの安全な道を使わせない」
命の保証という最大のサービスを人質に取る、管理者としての絶対的な線引きだった。
「……よし。これで骨格はできた」
ユークは大きく息を吐き出し、凝り固まった肩を回した。
書き出されたルールは、冒険者の自由を奪う、ひどく窮屈で無愛想なものに見えるかもしれない。だが、これは縛るためではない。この崩壊した迷宮と、そこに踏み込む人間を『死なせないために』必要な、最低限の防波堤なのだ。
ユークはナイフを手に取り、用意していた真新しい木板に向かった。
記録帳に書いたルールを、誰が見ても分かるように、深く、はっきりと板の表面に刻み込んでいく。
木屑が舞い、ナイフの刃が石に擦れるような硬い音が小部屋に響く。
字の美しさなど気にしていない。雨風に晒されても消えないこと、そして『冗談ではない』という管理者の強い意志が伝わることが最優先だ。
小一時間後。
ユークは完成した『灰環迷宮・利用規則』の木板を抱え、砦の入り口――昨日設けた即席の受付カウンターの横へと歩いた。
すでに打ち付けてある『外縁区画図』の隣に、その規則板を並べてしっかりと固定する。
木板を見上げるユークの顔に、迷いはなかった。
「口約束じゃダメだ。知らなかったとは言わせない。ここを通りたければ、必ずこの条件を飲んでもらう」
地図と、規則。
二つの木板が並んだその場所は、もはやただの廃墟の入り口ではなく、明確な意思を持った『管理所の受付』としての威容を備え始めていた。
ユークは砦の敷地から、ラスティアへと続く北の街道を見下ろした。
まだ誰も登ってくる気配はない。灰漁りたちが恐怖をバラ撒いたおかげで、しばらくは悪評が先行して寄り付く者は少ないだろう。
だが、ドーランのような「本物」の目を持つ人間や、噂を聞きつけて一か八か賭けに出るような切羽詰まった採集者たちが、必ずいつか現れる。
「受けて立つさ。俺が作ったこの道が、人間相手にどこまで通用するか」
ユークは受付カウンターの木箱を軽く叩いた。
「試験開放日は……明日だ」
たった一人と五体の魔獣で再生させた崩壊ダンジョンが、再び外界の人間を正規の客として受け入れる。
その小さな、しかし歴史的な第一歩が、明日の朝、この場所から始まる。




