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第25話 現場の勘

 灰漁りたちを恐怖のどん底に突き落として追い返した翌朝。

 ユーク・フェルドは、灰環前砦グレイサーク・フロントの入り口に設けた即席の受付カウンターの奥で、木板の地図に新しい情報を書き加えていた。


 昨夜の防衛戦は完璧だった。しかし、あのままでは「気味の悪い化け物穴」という悪名が広まるだけだ。迷宮を維持し、いずれ社会と接続するためには、ここが「誰かの手によって管理された、有用な施設である」という事実を、適切な人間に認知させなければならない。


「……とはいえ、どうやって宣伝したものか」


 ユークが短い鉛筆を動かしながら思案していた、その時だった。


「随分と、こざっぱりした廃墟になったじゃねえか」


 砦の敷地の入り口から、低くしゃがれた声が響いた。

 ユークが顔を上げると、そこに一人の初老の男が立っていた。


 灰漁りのようなコソ泥の雰囲気はない。がっしりとした体格を使い込まれた革鎧で包み、背中には身の丈に合わないほど巨大な背負い袋を背負っている。顔にはいくつもの古い傷跡が刻まれていたが、ユークの目を最も引いたのは、男が右脚を僅かに引きずるようにして歩いていることだった。


「……冒険者、ですか?」


 ユークが警戒を解かずに問うと、男は鼻で笑って首を振った。


「元、だ。この右脚を深層のトラップで持っていかれてからは、ただの運び屋兼、安い用心棒崩れさ。名はドーラン。ドーラン・ヘイズだ」


 ドーランと名乗った男は、受付カウンターに見立てた木箱の前まで歩み寄り、ユークが打ち付けた『注意喚起』の木板と、黒塗りの多い『外縁区画図』を興味深そうに眺めた。


「ラスティアの酒場で、ちょっとした噂になっててな。『クルンの水が澄んだ』だの、『灰環に忍び込んだコソ泥が、泣き喚きながら泥まみれで逃げ帰ってきた』だの。……なるほど、幽霊や新種の魔獣の仕業じゃなく、あんたがここを『仕切って』いるってわけか」


 ドーランの目は、ユークの貧弱な装備と、泥に汚れた手先を値踏みするように観察していた。

「強きを誇る戦士」ではない。だが、迷宮の入り口を塞ぐように天幕を張り、規則書きを掲げるその佇まいには、何者にも媚びない実務者特有の芯の強さがあった。


「仕切っている、というほど大層なものではありません。私はただ、この迷宮の崩壊を食い止め、最低限の安全な導線を維持しているだけです」


「安全な導線ねえ……。この地図の、白い線のことか」


 ドーランは木板の地図を太い指でコンコンと叩いた。


「随分と偉そうな地図だが、黒塗りの方が圧倒的に多いじゃねえか。冒険者ってのは、まだ見ぬ奥や、隠された通路に夢を見るもんだ。こんな『ここしか歩くな』みたいな窮屈な地図じゃ、誰も喜ばねえぞ」


「冒険者を喜ばせるために描いたものではありません」


 ユークは淡々と、だがきっぱりと言い切った。


「私が安全を保証できない場所、あるいは迷宮の維持に不可欠な機能を担っている場所は、最初から『存在しないもの』として黒く塗りつぶしています。ここはもう、運と力任せで資源を奪い合うだけの穴じゃない。ルールに従って利用し、必ず生きて帰るための現場です」


 ユークのその言葉を聞いた瞬間、ドーランの瞳の奥で何かが鋭く光った。

 冒険者の多くは「勝つこと」や「稼ぐこと」を至上とする。だが、この若者は「生きて帰ること」を前提に迷宮を語っている。深層で脚を失い、帰還することの困難さを誰よりも骨身に染みて理解しているドーランにとって、それは極めて異質な、そして興味を惹かれる響きだった。


「……面白い」


 ドーランは背負い袋をドサリと足元に下ろした。


「あんたの言う『生きて帰るための現場』とやらが、ただのハッタリなのかどうか。俺の目で確かめさせてもらえないか? もちろん、武器は抜かねえし、あんたの言う『ルール』には従う」


 ユークは少しの間、沈黙した。

 今はまだ、外部の人間を正式に入れる準備は整っていない。だが、ユーク自身も自分以外の『現場を知る者の評価』を欲していたのは事実だった。


 自分の行っている管理が、外の人間から見て本当に安全だと認識されるレベルなのか。独りよがりな主観になっていないか。それを測るには、ドーランのような「生還優先」の元冒険者の視点は、これ以上ない試金石になる。


「……分かりました。ただし、入るのは入り口から数十メートルの『安全帯』だけです。私の指示には絶対に従ってもらいます」


「承知した。案内を頼むぜ、管理人さん」


 ユークはドーランを伴い、迷宮の入り口のアーチをくぐった。

 中に入ると、淡い青緑色の光が等間隔に灯り、暗闇の中に一本の明確な道を浮かび上がらせていた。


 ドーランは感嘆の声を上げることもなく、黙々とその光の道を歩き始めた。

 だが、その視線の動かし方や、足の運び方は、素人の灰漁りたちとは全く違っていた。彼は剣の柄には手をかけず、代わりに持っていた短い杖の先で、床の石をコンコンと叩きながら進んでいく。


「……なるほど。見た目は継ぎ接ぎだらけだが、中が空洞じゃない。抜けない床だ」


 ドーランは、グランが空洞の上の岩盤をぶち抜き、下の地層に直接荷重を預けた区画を歩きながら呟いた。


「それに、この天井の支柱。無骨で不格好だが、岩盤の剪断応力せんだんおうりょくを上手く横の壁に逃がしてる。力任せに下から支えてるだけじゃない。これなら、上で多少魔獣が暴れても崩れてはこないな」


「分かりますか」


「伊達に長く潜ってないんでな。……あんた、冒険者じゃないな? 王立迷宮監督院の、保全や運用をやってた裏方の人間か何かだろ」


 ドーランの鋭い推測に、ユークは肯定も否定もせず、ただ静かに歩みを進めた。

 ドーランは周囲の壁や、泥が流れる水路の配置を一つ一つ吟味していく。魔獣の姿は見えない。シルクスは天井の影に潜み、フェズも気配を消している。だが、ドーランは環境そのものから、ここに介在する「確かな意図」を読み取っていた。


「この青緑の光に沿って歩けば、確かに崩落も泥の沼も避けられる。だが……」


 ドーランは、安全導線から横へ逸れる分岐点の前で立ち止まった。

 そこには、ルーメの欠片が『濁った赤紫色の光』を放ち、その奥は漆黒の闇に包まれている。ユークが昨日、灰漁りたちを追い込んだ旧通路への入り口だ。


「この赤い光と、暗闇の意味は?」


「『封鎖区画』と『未整備区画』です。有毒ガスが滞留しているか、足場が最悪か、あるいは迷宮の循環機能のために人間を入れてはいけない場所です。立ち入りは厳禁としています」


「分かりやすい。だが、冒険者ってのはバカな生き物だぜ」


 ドーランは赤い光を見つめながら、自嘲気味に笑った。


「『入るな』と言われれば、そこに未発見の宝があるんじゃないかと勘違いして、こっそり踏み込もうとする奴が必ず出る。……俺が脚をやられたのも、まさにそういう『立ち入り禁止の旧区画』の奥に、夢を見たからだ」


 ドーランは右脚の太ももをポンと叩いた。


「あの時、誰かが俺の襟首を掴んで止めてくれていれば、今でも俺は剣を振れていたかもしれない。……だが、迷宮ってのは自己責任の世界だ。死にたきゃ死ね、欲をかいた奴から死ぬ、それが常識だった」


 二人は、ユークが定めた「第一次安全帯」の終点、モルトが浄化を終えて澄んだ水筋が流れる岩棚の近くまで到達した。

 ここから先は、まだ「要注意」の黄色い光が混じるエリアだ。ユークはここで足を止め、ドーランに向き直った。


「案内はここまでです。これより奥は、まだ完全な安全を保証できません」


「十分だ。見たいものは見せてもらった」


 ドーランは大きく背伸びをし、迷宮の空気を深く吸い込んだ。


「昔、俺がここに来た時は、ひどい腐臭と、いつ崩れるか分からない壁の軋み音ばかりだった。……今は、息がしやすくなってる。土と水が、生き返ろうとしている匂いがする」


 二人は来た道を戻り、再び前砦の敷地へと出た。

 外の光の下で、ドーランはユークに向かって、評価を下すように深く頷いた。


「評価してやるよ、管理人さん。あんたの作ったこの入り口は……完全に安全とは言えねえ。奥はまだ死の穴だろうし、入り口付近だって、ちょっとした油断で死ねる環境には変わりない」


 そこまで言って、ドーランはニヤリと笑った。


「だが、昔の灰環迷宮より、ずっと『帰れそう』な道だ。歩幅、見通し、退路。俺たち現場の人間が一番欲しい『生還の目印』が、確かにここにはある」


「……ありがとうございます」


 ユークの胸の内に、静かな達成感が広がった。

 自分が作ってきたものが、主観的な満足ではなく、厳しい外界の現場感覚に照らし合わせても価値のあるものだと証明されたのだ。


 だが、ドーランはすぐに表情を引き締め、ユークに釘を刺すように言った。


「だがな、あんた。もしこの迷宮を正式に開けて、外の人間を入れるつもりなら、このままじゃダメだ」


「ダメ、とは?」


「さっきも言った通り、冒険者は欲をかく。あんたがどれだけ綺麗な青い光で道を引いても、そのすぐ横に『赤い光の死ぬ道』が口を開けたまま残っている。あそこを覗き込むバカを、あんたはどうやって止めるつもりだ?」


 ドーランの言葉は、ユークが昨夜の灰漁り撃退後に感じていた懸念を、正確に突いていた。


「監視の目がないところで誰かが赤い光の奥に入り、死んだとする。それは『自己責任』だが、迷宮の悪評は確実に広まる。あんたがどれだけ安全な道を作っても、『あそこはやっぱり死人が出るハズレ穴だ』と言われて終わりだ」


 ドーランは背負い袋を担ぎ直した。


「開けるなら、規則ルールと責任の線を先に作れ。一日何人まで入れるのか。何を持ち帰っていいのか。ルートを外れた奴をどう罰するのか。……死ぬ道を残したまま、無条件で客を入れるな。それは管理じゃない、ただの放置の延長だ」


 重く、鋭い助言だった。

 それはユークの目指す「運用」という概念を、迷宮の内部だけでなく、外界の人間という『イレギュラー』にまで拡張しろという要求だった。


「……肝に銘じます。貴重なご意見、感謝します」


「いいさ。俺はただの運び屋だ。いずれここが正式に開いて、安全な荷運びの依頼が出るようになったら、その時は一番に俺を雇ってくれや」


 ドーランは軽く手を上げると、引きずる右脚を庇いながら、ラスティアへと続く街道を下っていった。


 ユークは、ドーランの背中が見えなくなるまで見送り、それから前砦の受付カウンターへと向き直った。


『死ぬ道を残したまま客を入れるな』。


 その言葉が、ユークの脳内で反響している。

 迷宮を開放し、価値を外界と共有するためには、ただ看板を立てるだけでは足りない。


 人間の欲を制御し、逸脱を防ぎ、それでもなお迷宮と人間が共存できる『利用のルール』を設計しなければならない。


「規則を作る。権威のためじゃない。この迷宮と、利用する人間を死なせないための制度を」


 ユークは記録帳の新しいページを開き、真剣な眼差しでペンを走らせ始めた。

 迷宮の内部インフラを整える物理的な作業から、人間社会と接続するための『制度設計』へ。

 落第管理者の次なる戦いが、静かに幕を開けようとしていた。

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