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第23話 素材漁りの影

 プツン、プツン。

 脳の奥を直接弾くような、シルクスの警戒糸が切断される波長。


 ユーク・フェルドは前砦の小部屋を飛び出し、音を殺して迷宮の入り口へと急いだ。

 時刻は真夜中。月明かりすら灰色の雲に遮られ、外界は深い闇に包まれている。だが、迷宮のアーチをくぐった先には、ルーメが放つ淡い青緑色の光が等間隔に灯り、ユークが整備した「安全導線」を静かに照らし出していた。


 ユークは魔力灯を点けず、ルーメの光だけを頼りに通路を潜行した。

 シルクスの張った糸は、ただのクモの巣ではない。入り口付近の糸が二重に切られたということは、風や小動物の偶然などではなく、明確な質量を持った「人間」が、確固たる意思を持って内部へ踏み込んだ証拠だ。


「……三人、いや四人か」


 入り口から十メートルほど進んだ場所で、ユークは足を止め、青緑の光に照らされた床を観察した。

 泥を避けてグランが固めた平坦な石の床に、生々しい土と泥の足跡が残されている。歩幅はバラバラで、つま先が外を向いたり擦ったりしている。


 一流の冒険者なら、見知らぬダンジョンに入った直後にこんな雑な歩き方は絶対にしない。足音を殺し、罠を警戒し、常に退路を意識するはずだ。


「ダンジョンの恐ろしさを知らない、ただの素人だ。だが……だからこそ厄介極まりない」


 ユークは足跡を追いながら、眉間を深く寄せた。

 さらに数十メートル進んだ先。ユークの足取りがピタリと止まり、その瞳に冷たい怒りの色が宿った。


「……やりやがったな」


 安全導線の脇に設けられていた、モルトのための『泥の処理水路』。

 ユークが腐敗泥の流れる方向を制御し、溢れ出さないように緻密な計算で積み上げていた「石のせき」が、数メートルにわたって無残に蹴り崩されていたのだ。


 理由は容易に想像がつく。

 素人の素材漁り(灰漁り)たちから見れば、通路の端に不自然に並べられた石積みは「誰かが宝や金目のものを隠した跡」に見えたのだろう。


 宝を探そうと石を蹴り飛ばし、中から臭い泥しか出てこなかったことに腹を立てて、さらに周囲の石を乱暴に散らかしていった。そんな浅薄な行動の痕跡がありありと残っていた。


 崩された堰から、ドロドロとした灰色の腐敗泥が安全導線に向かって漏れ出し始めている。


「ここはただの石ころの山じゃないんだぞ……」


 ユークは短剣をしまい、泥まみれになるのも厭わず、崩された石を拾い上げて再び堰を組み直し始めた。

 このまま放置すれば、漏れ出した泥が安全導線を覆い、床を腐らせる。泥に弱いルーメの光が消え、暗闇が戻る。暗闇になれば、安全な足場が分からなくなり、少しの崩落で致命傷を負う。


 堰の石を一つ退かすという「ほんの小さな悪戯」が、迷宮の維持機能全体を死に追いやる。それが複合型ダンジョンの恐ろしさなのだ。


 ユークは泥で汚れた手を布で拭いながら、さらに奥へと進んだ。

 今度は、壁の一部がナイフのようなもので乱暴に削り取られている箇所を見つけた。


 そこは、ルーメの欠片を配置して安全を知らせていた場所だ。彼らは、淡く光るルーメを「高価な魔力石か何か」と勘違いし、削り取って持ち帰ろうとしたのだろう。


『……キュゥ……』


 削られた壁の少し上の窪みで、難を逃れたルーメの欠片が、怯えたように光を弱めて震えている波長がパス越しに伝わってきた。


「大丈夫だ、ルーメ。もう無理に光らなくていい」


 ユークはルーメの欠片を指でそっと回収し、懐にしまった。


 怒りが、ユークの腹の底で静かに、だが確かな熱を持ってとぐろを巻いていた。

 それは、敵対する魔王軍や、自分を侮辱した騎士に向けられるような激昂ではない。


 丹精込めて作り上げた畑を、泥靴で踏み荒らされた農夫の怒り。

 徹夜で書き上げた帳簿に、面白半分でインクをぶちまけられた事務官の怒り。


 現場を、仕事を、そしてそこに息づく「運用」を愚弄された、管理者としての冷徹な怒りだった。


「こいつらは、悪の組織の尖兵でもなんでもない。ただの無知なコソ泥だ。……だが、俺の現場ここでは、無知は最大の罪だ」


 彼らは強いわけではない。ユークが短剣を持って背後から奇襲をかければ、一人か二人は確実に殺せるだろう。

 だが、そんなことをすれば、彼らの血や死骸がこの空間を汚染する。戦闘の音や魔力の乱れが、シルクスの索敵網をノイズで埋め尽くし、グランが固めた地盤に余計な振動を与えてしまう。


 何より、ここで彼らを「殺して」しまえば、後々監督院や町の警備隊が介入する口実を与え、迷宮の運用そのものが破綻する。


「正面からはやらない。傷つけず、血も流させない。……お前たちの望む『宝』を見せて、そのままお引取り願おう」


 ユークは記録帳を取り出し、真っ暗な通路の中で脳内の地図を展開した。

 灰漁りたちの足跡は、青緑の光に沿って、少しずつだが確実に中枢側へと向かっている。彼らの現在位置と進行速度から逆算し、ユークは最適な『迎撃地点』を割り出した。


「フェズ。仕事だ」


 パスを通じて呼びかけると、暗がりからフワリと陽炎のようにフェズが姿を現した。


「昨日、マッドラットを誘導した旧通路の分岐点。あそこにもう一度、奴らを誘い込む。ただし、相手は虫やネズミじゃない、強欲な人間だ。ただの泥食い虫の幻影じゃ釣れないぞ」


 ユークの意図を察し、フェズは揺らめく幻の尾をピンと立てた。

 人間を騙す。それは、フェズのような幻惑獣にとって、最も腕が鳴る、そして知能を要する高度な遊戯だ。


「頼んだぞ。奴らの目を安全導線から引き剥がし、分岐の奥へ釘付けにしろ。シルクス、お前は奴らの位置を常に俺に教えろ。グラン……お前の出番は最後だ。合図を待て」


 契約個体たちに流れるような指示を出し終えると、ユークは足跡を追うのをやめ、知悉している旧保守導線の抜け道を通って、彼らより先へ回り込むルートをとった。


 迷宮の構造を知り尽くした管理者だからこそできる、ショートカット。

 息を潜め、足音を完全に殺して暗闇を駆け抜ける。


 数分後。

 ユークは、安全導線から旧通路へと続く、大きな分岐点の影に身を潜めた。


 ここは昨日、マッドラットの群れを袋小路へと追い込んだのと同じ場所だ。


「ルーメ。この分岐点から先の安全導線の光を、極限まで落とせ。あいつらに『道はここまでだ』と錯覚させるんだ」


 ユークの指示に従い、奥へと続いていた青緑色の光が、まるで蝋燭の火を吹き消すようにフッと消え去った。

 これで、分岐点には「右へ行く真っ暗な道」と、「左へ逸れる、フェズが待ち構える旧通路」の二つの選択肢だけが残された。


 ユークは暗闇の中で呼吸を極限まで浅くし、気配を完全に消した。

 冷たい岩壁に背を預け、短剣の柄に手を添えるが、抜くつもりはない。これは戦闘ではなく、彼らを盤上から退場させるための「作業」だ。


 やがて。

 静まり返った迷宮の奥から、下品な囁き声と、泥を無遠慮に踏みつける足音が近づいてきた。


「……おい、ガロ。本当にこの先に金目のもんがあんのかよ。気味が悪いぜ」


「ビビってんじゃねえよ。見ろ、さっきまで壁に光るルーメが埋まってただろ。誰かが最近まで出入りしてた証拠だ。奥に行けば、死んだ冒険者の荷物か、監督院が残した機材の山があるに決まってる」


「だがよ、さっきの石積みも、蹴っ飛ばしたら臭え泥しか出てこなかったじゃねえか」


 聞こえてきたのは、昨日ラスティアの酒場で耳にした、あの三人組の声だった。

 彼らは手にした松明の光を頼りに、警戒心もなく安全導線を歩いてくる。


 そして、ユークが待ち構える分岐点の手前までやってきた時。

 彼らの足が、ピタリと止まった。


「あ? おい、ここで道が終わってるぞ」


 先頭を歩いていた男が、光の消えた安全導線の奥を松明で照らしながら言った。


「行き止まりか? いや、左に横穴があるぜ」


 彼らが左側の旧通路へ視線を向けた、その瞬間。

 旧通路の薄暗い奥深くで、チカッ、チカッと、黄金色に鈍く反射する『何か』が光った。


「……おい。今、奥で何か光らなかったか?」


「ああ。なんだありゃ……金貨か? いや、金属の箱みたいな……宝箱か!?」


 男たちの声のトーンが、恐怖や警戒から、一気に強欲な興奮へと切り替わった。


 ユークは暗闇の中で、冷たい笑みを浮かべた。

 それはフェズが作り出した、光と魔力の反射による精巧な『錯視』だ。冒険者の落とした金品か、未開封の宝箱に見えるよう、絶妙なぼかしをかけて配置されている。


「お宝だ! やっぱり誰かが隠してやがったんだ!」


 獲物を見つけたハイエナのように、灰漁りたちは何の疑いもなく、ルーメの光もない、地盤も固められていない、泥と死の危険が詰まった旧通路へと足を踏み入れた。


 夜の入口層の暗がりで、強欲に目を濁らせた人間たちの下品な囁き声が、フェズの引いた罠の奥深くへと吸い込まれていった。

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