第22話 人の目が戻る
夜を徹して北の街道を駆け上がり、ユーク・フェルドが灰環前砦に辿り着いた頃には、東の空が白み始めていた。
重い背負い籠を下ろし、息を整えながら砦の敷地に足を踏み入れたユークは、すぐに微かな違和感に足を止めた。
風の匂いが違う。森の湿気や迷宮の澱んだ空気とは異なる、鼻を突くような焦げ臭さ。
「……煙の匂い?」
ユークは警戒心を高め、腰の短剣に手をかけながら音を立てずに前砦の広場へと進んだ。
昨日、彼が掃除をして綺麗にしたはずの石畳の片隅。そこに、乱雑に石を積んで作られた、真新しい焚き火の跡があった。炭はすでに冷え切っているが、確実に数時間前まで火が焚かれていた痕跡だ。
周囲を観察すると、焚き火の跡だけでなく、無数の足跡が残されていた。
「……冒険者じゃないな」
ユークはしゃがみ込み、泥の足跡を指でなぞった。
深く、歩幅がバラバラだ。プロの探索者なら、足音を殺し、罠や魔獣の奇襲を警戒して体重を分散させる歩き方をする。だが、この足跡の主たちは、まるで自分たちの裏庭でも歩くかのように、ズカズカと無警戒に踏み荒らしている。
加えて、焚き火の位置が素人すぎる。開けた場所の中央で火を焚けば、森中の野良魔獣に「ここに獲物がいます」と宣伝しているようなものだ。
ユークは視線を砦の壁に向けた。
かつて魔力石が埋め込まれていたであろう窪みの周囲に、ナイフか何かで無理やり石をほじくり出そうとしたような、乱暴な削り痕がいくつも残されている。足元には、空になった粗悪な酒瓶と、食い散らかされた骨が放り捨てられていた。
「俺が酒場で話を聞いた連中より、足の早い奴らがいたか。……いや、違うな」
ユークは立ち上がり、周囲の惨状を見渡した。
「クルン村の井戸の水が澄んできた」という噂が広まるより前から、この山周辺をうろついていた底辺の連中だろう。完全停止した迷宮でも、外壁の石や残された鉄屑など、小銭に変えられるゴミは落ちている。そうしたものを掠め取る『灰漁り』と呼ばれる素材漁りたちだ。
彼らは迷宮の変化をいち早く嗅ぎ取り、ここ数日で「泥の匂いが減った」ことに気づいて、砦まで上がり込んできたのだ。
「……人が戻ってきた、か」
ユークの口から、複雑な響きを持った溜息が漏れた。
人が来るということは、灰環迷宮が「ただの死の穴」から、「利用できるかもしれない場所」へと認識が変わり始めたという何よりの証拠だ。ユークが入口層の循環を回復させ、クルン村への水脈の負荷を抜いた『再建の成果』が、外界の人間を引き寄せたのだ。
だが、それは手放しで喜べる状況ではなかった。
むしろ、運用と管理の観点から言えば、今が最も危険な段階だ。
「無秩序な侵入者は、ダンジョンにとってガン細胞と同じだ」
彼らは迷宮の仕組みを知らない。
崩落を防ぐためにグランが残した支柱を「邪魔だ」と言って蹴り倒すかもしれない。
モルトが処理している腐敗泥の沼に、面白半分で石を投げて流れを変えてしまうかもしれない。
見えない安全網であるシルクスの糸を、ただのクモの巣だと思って松明で焼き払うかもしれない。
一つ一つの行動は小さな悪戯や無知によるものだとしても、それが複雑に絡み合った迷宮の生態系に及ぼす影響は計り知れない。
ルールを知らない人間が数人入り込んで好き勝手をするだけで、ユークたちが命懸けで整えた『死なない入口』は、一晩で元の崩壊ダンジョンに逆戻りしてしまう。
「中がどうなっているか、確認するぞ」
ユークは背負い籠を砦の小部屋――自身が拠点として整えた部屋に急いで置き、迷宮の入り口へと向かった。
入り口の壁に打ち付けた「外縁区画の地図」の木板は、幸いにも剥がされてはいなかった。文字が読めなかったのか、ただのゴミだと思って興味を持たなかったのか。
だが、迷宮の入り口のアーチをくぐった瞬間、ユークの顔が険しくなった。
「シルクス」
ユークが呼ぶと、暗がりからシルクスがカサカサと素早く這い出てきて、ユークの足元で不安げに前脚をバタつかせた。
「お前の糸が、切られているな」
入り口付近、ユークが『人間が来たことを感知するため』に張らせておいた第一防衛線の警戒糸。そのうちの数本が、無残に引きちぎられていた。
刃物で鋭く切られた跡ではない。見えない糸に顔や体を引っ掛け、鬱陶しがって手で乱暴に払いのけたような、雑な切断痕だ。
「……奥まで入ったのか?」
ユークがパスを通じて問いかけると、シルクスは首を振るような仕草をした。
『五メートルほど進入。ルーメの赤い光と、奥の暗闇を見て撤退』という情報が、波長として伝わってくる。
「なるほどな」
ユークは少しだけ安堵した。
侵入者たちは入り口から少し入ってみたものの、ルーメが放つ『赤紫の毒沼の光』や『黄色い警告の光』、そしてその奥に広がる絶対的な闇にビビって、それ以上進むのを諦めたのだ。
本職の冒険者なら光の向こうを調べようとするだろうが、短期利益優先の灰漁りたちは、命を懸けるようなリスクは犯さない。入り口付近の糸を壊しただけで、砦に戻って酒盛りを始めたというわけだ。
「だが、これで味を占めて、次はもっと大勢で、あるいは昼間の明るい時間帯に踏み込んでくるかもしれない。酒場で話していた連中も、今日か明日にでもやってくるはずだ」
ユークは迷宮内に広がる淡い青緑色の安全導線を見渡した。
「開ける前に、守り方を決めなければならない」
ユークは記録帳を取り出し、防衛の優先順位を書き直した。
敵は、殺意を持った魔王軍ではない。無知と強欲で動く人間の小悪党だ。
もしユークが彼らを武力で制圧し、あるいは迷宮の罠にかけて殺してしまえば、今度は「灰環迷宮に殺人鬼がいる」「新種の凶悪な魔獣が出た」という悪評が立ち、監督院の討伐隊が派遣される事態になりかねない。
「殺さず、傷つけず。だが、絶対に中枢やインフラには触れさせない」
ユークは契約個体たちに、新たな防衛ルールのタクトを振るい始めた。
「シルクス。入り口の警戒糸は、一本切られたらすぐに分かるように、二重三重に張り直せ。敵を捕まえる網じゃない、『センサー』としての感度を極限まで上げろ」
「グラン。安全導線から横へ逸れる通路の入り口に、もっと大きな岩を積んで物理的なバリケードを作れ。人間がちょっと押したくらいじゃビクともしない重さだ」
「フェズ、お前の仕事が一番重要だ。もし人間が中に入ってきてしまったら、昨日マッドラットを誘導したのと同じように、幻と音で『安全導線とは違う、何もない旧通路』へ誘導しろ。宝箱の幻影でも、逃げる小動物の幻でもいい。とにかく、俺たちが手を入れた区画から目を逸らせろ」
モンスターたちに迎撃ではなく『遅滞と誘導』の指示を出し終えると、ユークは再び前砦へと戻った。
「迷宮内の防衛はあれでいい。だが、根本的な問題はここだ。入られてから対処するんじゃなく、入る前に『ここは管理されている』と分からせなきゃならない」
ユークは、ラスティアで買ってきたばかりの資材――麻縄と丈夫な帆布を取り出した。
砦の広場。焚き火の跡が残されていた開けた場所に、ユークは木材と縄を使って、簡易的な『仕切り』を作り始めた。
迷宮の入り口へと続く動線を制限し、必ずこの仕切りの前を通らなければ入れないようにする。
さらに、大きな帆布を砦の入り口に天幕のように張り、その下に木箱を並べて、即席の『受付カウンター』を作り上げた。
「ここはただの廃墟じゃない。王立迷宮監督院の……いや、今は関係ないか。『灰環迷宮管理所』だ」
ユークは、昨日打ち付けた地図の隣に、買ってきた新しい木板を掲げた。
そこには、チョークではなく、ナイフで深く文字を刻み込む。
『注意喚起』
『本迷宮は現在、生態系および水脈の再建作業中である。』
『無許可での進入、壁や柱の破壊、魔獣への無用な攻撃を固く禁ずる。』
『ルールを破る者は、安全の保証を一切行わない。』
威圧するような言葉ではない。だが、これを読めば「誰かが明確な意図を持ってここを管理している」ことは嫌でも伝わるはずだ。
「誰でも彼でも自由に入れるようにするつもりはない。利用させるにしても、ルールを守り、維持に協力する者だけだ」
ユークは受付カウンターに見立てた木箱の後ろに立ち、自分が作った簡易的な関所を見渡した。
人を拒絶する壁ではない。人と迷宮を、正しく繋ぐための『フィルター』だ。
作業を終える頃には、日はすっかり落ち、周囲は深い夜の闇に包まれていた。
山には冷たい風が吹き荒れ、木々の枝が不気味な音を立てて揺れている。
ユークは砦の小部屋に戻り、買ってきた油を魔力灯に補充して、ささやかな夕食をとった。塩漬けの肉を齧りながら、記録帳に今日行った防衛配置の図を書き込んでいく。
体力は限界に近かった。昨夜から一睡もせずに歩き、そのまま土木作業と防衛構築をこなしたのだ。
だが、神経は研ぎ澄まされていた。
「来るなら、夜だ」
灰漁りたちは、他の冒険者や監督院の目がある昼間を嫌う。コソコソと動き回る彼らにとって、闇夜こそが活動のゴールデンタイムだ。
ユークは毛布に包まりながらも、意識の半分を常に魔力パスへと繋いでいた。
肩の横の壁には、シルクスが張り直した警戒糸の端末が一本、ピンと張られている。
静寂。
風の音以外、何も聞こえない時間が数時間続いた。
ユークの意識が、疲労の重みに耐えかねて微睡みの底へと沈みかけた、まさにその時だった。
『――ッ』
プツン、と。
脳内に響くような、明確な切断音。
ユークは弾かれたように目を開けた。
壁に張られていたシルクスの糸の張力が、一瞬フワリと緩んだのだ。
「……一本目」
ユークは毛布を跳ね除け、音を立てずに立ち上がった。
そして数秒後。
『――ッ』
プツン。
さらに奥、入り口のアーチの真下に張られていた二重目の警戒糸が切れる波長が伝わってきた。
「二度切れた。……中に入ったな」
ユークは短剣を腰に差し、魔力灯の光を最小限に絞り込んだ。
彼の迷宮が、その価値を取り戻し始めたが故の試練。
無知な人間たちを、傷つけずに追い返す『防衛運用』の実戦が、静かに幕を開けた。




