第21話 ラスティアへ運ぶ
灰環迷宮のある山群から街道を半日ほど下ると、風景は荒涼とした岩肌から、人の手が入った活気ある平野部へと変わっていく。
その平野の中心に位置するのが、近隣一帯の迷宮探索と素材流通のハブとなっている迷宮都市・ラスティアだ。
王立迷宮監督院の地方支部も置かれているこの都市は、日中から荷馬車が行き交い、様々な装備に身を包んだ冒険者たちや、彼らから素材を買い叩こうとする商人たちの熱気で溢れかえっている。
ユーク・フェルドが灰色の外套のフードを深く被り、重い背負い籠を揺らして市門をくぐった時も、門兵は彼に大した注意を払わなかった。ラスティアには毎日、一攫千金を夢見てやってくる若者や、逆に夢破れて去っていく薄汚れた男たちが腐るほど出入りしているからだ。
ただし、彼が歩いてきた『北の街道』――灰環迷宮へと続く道からやって来たことに対しては、門兵もすれ違う行商人たちも、奇異の目を向けるか、あるいは完全に無関心だった。
ラスティアの人間にとって、灰環迷宮は数年前に「完全停止」の烙印を押され、資源も魔力も枯渇した『終わった場所』だ。あそこに向かうのはよほどの物好きか、他の迷宮で食い詰めた死にぞこないだけだと思われている。
「……活気はあるが、灰環の話題はどこからも聞こえてこないな」
ユークは市場の喧騒を歩きながら、周囲の会話に耳を済ませた。
聞こえてくるのは、東の『新緑の迷宮』で中層が発見されたという景気のいい話や、西の『竜牙の大穴』でレアな魔力鉱石が採れたという噂ばかりだ。灰環迷宮は、完全に人々の記憶から消え去ろうとしていた。
「それでいい。今はまだ、注目されるわけにはいかない」
ユークは目抜き通りを避け、一本裏に入った路地にある、中堅の素材買取商会へと足を向けた。
表通りにあるような大手商会は、身元のしっかりした冒険者クランからの大口取引しか相手にしない。ユークが背負っているような『石屑』を換金するには、多少足元を見られても、出処を深く詮索しない裏通りの店の方が都合が良かった。
カラン、とくぐもったベルの音を鳴らして店に入ると、埃っぽいカウンターの奥から、片眼鏡をかけた細身の初老の商人が顔を出した。
「いらっしゃい。……見ない顔だな。買取かい?」
商人はユークの使い古された外套と、泥に汚れたブーツを値踏みするように一瞥した。大した物は持っていないだろうという、商人特有の冷ややかな目だ。
「ああ。大した物じゃないが、少しばかり石と砂を持ち込んだ。査定を頼む」
ユークは背負い籠を下ろし、中から粗い麻袋と、厳重に縛った皮袋を取り出してカウンターに置いた。
商人は気乗りしない様子で麻袋の口を開けた。
「……低位の鉄鉱石と、魔力石の欠片か。純度も低いし、数も知れてる。農具の打ち直しか、街灯の着火石くらいにしか使えんな。これで銅貨三十枚ってところだ」
商人の評価は、ユークが事前に見立てていた金額とほぼ一致していた。グランが集めた崩落土砂の副産物は、確かにその程度の価値しかない。
「それは構わない。本命はこちらだ」
ユークは皮袋の紐を解き、中に入っている『魔力濾過砂』を商人の前に差し出した。
商人は面倒くさそうに皮袋の中を覗き込み、そして、ピタリと動きを止めた。
「……なんだ、これは?」
商人は片眼鏡の位置を直し、皮袋の中に指を突っ込んで砂をすくい上げた。
指の隙間から、サラサラと滑り落ちる灰色の砂。腐敗臭は一切なく、不純物が完全に取り除かれた砂粒が、店内の薄暗いランプの光を反射して微かな魔力の粒子を瞬かせている。
「魔力濾過砂、か? だが……妙だな。これほど粒が揃っていて、不純物がないものは珍しい。普通、野良の泥食い種が吐き出した砂は、もっと毒素や骨の欠片が混ざってザラついているもんだが」
商人の目が、ただのガラクタ持ち込み客を見る目から、プロの査定眼へと鋭く切り替わった。
モルトの胃袋を通過したこの砂は、ユークが『食わせる泥の順番と量』を完璧に管理したことで生み出された、工業製品のように均質な一級品だ。
「これだけの純度なら、錬金術の触媒として上客に流せる。……あんた、どこの迷宮でこれを拾った? これだけ安定した品質の砂がまとまって採れるなら、定期取引をしてもいいぞ」
商人は探るような視線をユークに向けた。
魔力濾過砂は高価な宝石ではないが、消耗品として安定した需要がある。これが継続的に供給されるなら、商人にとっては美味しい商材になるのだ。
「悪いが、採れた場所は教えられない。北の山の方を歩いていて、たまたま古い浅層の抜け穴を見つけただけだ。次があるかどうかも分からない」
ユークは淡々と嘘を交えてはぐらかした。
ここで「灰環迷宮だ」とバカ正直に答えれば、商人は必ず違和感を覚える。「完全に停止したはずの灰環から、なぜこんなに循環の良い新鮮な副産物が出るのか」と。
それは、監督院の耳に入れば余計な調査を招きかねない情報だ。
「そうか……北の山ねえ。灰環の方向だが、あそこはもう完全に干上がってるはずだしな。まあいい、冒険者にはそれぞれの秘密の狩場があるもんだ」
商人はそれ以上深く追及することは諦め、皮袋の重さを天秤で量った。
「鉄鉱石と合わせて、銀貨三枚と銅貨五十枚だ。相場より少し色をつけておいた。次も同じ質のものを持ってきたら、もう少し高く買ってやるよ」
「妥当な線だな。商談成立だ」
ユークは銀貨と銅貨を皮袋に受け取り、店を後にした。
深層で竜の鱗を剥ぎ取ってきたような大金ではない。だが、この数枚の銀貨は、ユークが管理者として初めて現場の運用を外界の『価値(金)』に変換した、記念すべき最初の売上だった。
懐の重みを感じながら、ユークは次なる目的地である市場の生活物資エリアへと向かった。
冒険者たちが群がるような、高価な魔法薬の店や、業物を取り扱う武具屋には目もくれない。彼が足を止めたのは、大工道具を扱う金物屋や、日用雑貨を売る商店だ。
「魔力灯の油を、この大きな樽で一つ。それから、丈夫な補修用の帆布を十ヤード。釘を二袋と、太い麻縄を二十メートル頼む」
ユークの買い物の内容は、完全に土木作業員か現場の管理人のそれだった。
砦の小部屋を補修し、迷宮内の安全導線に手すりや警告のロープを張り、ルーメの光が届かない場所で作業するための油。すべてが「迷宮を維持し、運用する」ための地味なインフラ資材だ。
さらに薬屋で、魔法の回復薬ではなく、すり傷用の軟膏や腹痛止めの粉薬といった「安価で実用的な簡易薬」を大量に購入し、最後に保存食として塩漬け肉と硬パンを数日分買い込んだ。
銀貨三枚と銅貨五十枚は、あっという間に消えてなくなった。
代わりに、ユークの背負い籠には、迷宮の再建をさらに一歩進めるための『現場の血液』がぎっしりと詰め込まれていた。
「……これで、あと一週間は中での作業に集中できる。砦の機能もさらに拡張できるな」
必要な買い物を終えた頃には、ラスティアの空は赤く染まり、夕暮れ時を迎えていた。
ユークは重い籠を背負ったまま、目抜き通りから少し外れた場所にある大衆酒場『赤猪の蹄』亭へと入った。
ここは、下働きの労働者や、低ランクの冒険者、荷運びの御者たちが集まる、安くて騒がしい酒場だ。
ユークは目立たない部屋の隅の席に座り、安いエールと豆の煮込みを注文した。
彼がこの酒場を選んだ理由は、単に飯を食うためだけではない。こういった底辺の人間たちが集まる場所こそが、最も生々しい『現場の情報』を手に入れられるからだ。
ユークはエールで喉を潤しながら、周囲のテーブルで交わされる会話に静かに耳を傾けた。
「おい、聞いたか? 最近、北の街道の夜が物騒らしいぜ」
「ああ、マッドラットや地這い虫の群れがよく出るって話だろ? 街道の護衛依頼の相場が少し上がってる」
(野良魔獣の増加か……。俺がフェズを使って迷宮の旧通路へ追い払った連中が、迷宮に居着けずに外へ溢れ出しているのかもしれない。街道の警戒も必要だな)
ユークは豆を口に運びながら、情報のピースを頭の中で組み立てていく。
さらに別のテーブルからは、聞き覚えのある村の名前が聞こえてきた。
「そういや、クルン村の宿場に寄った行商人が言ってたんだがな」
「なんだ? あそこは井戸が泥水になって、もうすぐ廃村になるって噂だったろ」
「それがよ、ここ数日で急に泥が引いて、水が澄み始めたらしいんだよ。『明け方と夕方に水を汲めば平気だ』とかで、村の連中が息を吹き返してるってよ」
「へえ、山の機嫌でも直ったのかね」
(よし。あの応急処置の運用は、ちゃんと機能しているようだな)
ユークは小さく息を吐いた。
村の井戸の濁りが引いたという情報がラスティアまで届いているということは、クルン村の崩壊は免れたということだ。俺のやった『管理』が、確実に外の世界に良い影響として滲み出している。
だが、良い噂ばかりではなかった。
ユークのすぐ斜め後ろのテーブル。酒焼けした赤い顔をした、ガラの悪い三人組の男たちが、声を潜めて話しているのが聞こえてきた。
「……おい、クルンの水が澄んだってことはよ、灰環の山の『泥の詰まり』が抜けたってことじゃねえか?」
その言葉に、ユークはピタリとエールを飲む手を止めた。
「どういうことだ、ガロ?」
「馬鹿野郎、少しは頭を使え。灰環は泥と崩落で完全に死んだって話だったが、水が流れるようになったってことは、迷宮の中の道が少しは開いた可能性があるってことだ」
「だからって、あんな枯れた穴に潜っても、監督院が残したゴミしかねえだろ」
「そのゴミが金になるんだよ! 魔獣がいねえなら安全だし、浅い層に残ってる古い監視器具や、壁の魔力石を引っぺがしてくれば、いい小遣い稼ぎになる。完全に誰もいねえ放置穴なんだから、やり放題だろ」
男たちは、下品な笑い声を漏らして杯を合わせた。
「明日、少し連中を集めて北の山へ行ってみるか。誰もいない穴のゴミ拾いだ、楽な仕事ぜ」
ユークの瞳の奥に、冷たい光が宿った。
彼らは「冒険者」ではない。ダンジョンを攻略し、正当な報酬を得る者たちではなく、放置された施設に忍び込み、使えるものを根こそぎ奪って破壊していく『素材漁り(灰漁り)』と呼ばれる連中だ。
彼らは迷宮の構造も、環境維持の仕組みも理解していない。ただ目先の小銭のために、平気で索敵の糸を切り裂き、水脈を支える壁を壊し、魔力灯の台座を叩き割る。
「……害虫め」
ユークは声に出さずに毒づいた。
俺が命懸けで安全導線を引き、グランが地盤を固め、モルトが浄化し、ルーメが照らした『死なない入口』。
あれは、お前たちのような無知な略奪者が泥棒に入るために綺麗にしたわけではない。
価値が見えた瞬間、余計な人間が寄ってくる。
それは運用と管理において、必ずぶつかる壁だ。
「ルールを教えずに好き勝手させれば、一晩で元の崩壊ダンジョンに逆戻りだ。……そうはさせない」
ユークは残りの豆を一気に平らげ、銅貨をテーブルに置くと、足早に酒場を後にした。
夜のラスティアの冷たい風が、ユークの外套を揺らす。
明日の朝には戻るつもりだったが、予定変更だ。この足で夜通し歩き、砦へ戻る。
「入り口を開ける前に、防衛線と『利用のルール』を敷かなければならない」
ユークの足取りは速かった。
彼が守るべき現場が、新たな脅威――人間の無知と欲望という名の嵐に晒されようとしていた。




