第20話 使える石屑
クルン村での「水汲み指導」から灰環前砦へと戻り、さらに一晩が明けた翌朝。
ユーク・フェルドは、砦の小部屋の奥に設けた『荷置き場』の木箱の前に座り込み、深く、そして重い溜息を吐き出していた。
迷宮の内部は『死なない入口』として安定しつつある。外の村への被害も、応急処置とはいえ軽減の目処が立った。
だが、施設を「回し続ける」ためには、魔獣たちの力だけではどうにもならない、絶対的に不足しているものがある。
人間のための『物資』だ。
「……水は村へ下りれば手に入るとして。干し肉と硬パンは、あと三日分。魔力灯の油はギリギリ二日。包帯などの衛生用品と、ロープや釘の予備は完全に底を突いた」
ユークは木箱の中に残された僅かな備品を数え上げ、記録帳の端に『枯渇寸前』という文字を乱暴に書き込んだ。
王立迷宮監督院を追放された際、彼が持ち出せたのは手持ちの僅かな路銀と最低限のサバイバルキットだけだった。ここまで数日間、一人と五体で崩壊ダンジョンの再建という無茶な労働をこなしてきたのだ。カロリーも消耗品も、尽きるのは当然だった。
「気合や根性で迷宮は直らない。油が切れれば俺の視界は閉ざされるし、飯が食えなければ判断力が鈍って死ぬ」
ユークは記録帳を閉じ、立ち上がった。
資金を稼ぎ、物資を補給しなければならない。だが、ここはかつて「完全停止」の烙印を押され、冒険者たちからも見捨てられた野良ダンジョンだ。
一般的に、迷宮で金を稼ぐと言えば、深層に潜って希少な魔獣の素材を剥ぎ取るか、高純度の魔力鉱石を掘り出すことだ。
しかし、今のユークにそんな真似ができるはずがない。安全導線を引いたとはいえ、彼が手を入れたのは入り口から数十メートルの『外縁区画』の極一部だけ。奥へ進めば、再び致死率九割の崩壊区画が待ち受けている。
「命を賭けて一攫千金を狙うのは、冒険者の仕事だ。俺は管理者だ。現場の維持費は、現場にあるもので賄う」
ユークは背負い籠を手に取ると、砦を出て、再び迷宮の入り口へと足を踏み入れた。
ルーメの放つ青緑色の光が、静かに安全導線を照らしている。
ユークはその光を辿りながら、周囲の岩壁や、グランが処理した崩落の土砂の山に目を凝らした。
探しているのは、宝箱でも伝説の剣でもない。迷宮が吐き出した『副産物』だ。
「おーい、グラン。手伝ってくれ」
ユークが魔力パスを通じて呼びかけると、土砂の山の一部がゴソリと動き、岩トカゲのような巨体を持つグランが姿を現した。
「昨日お前が落としてくれた崩落の土砂だが、全部を道に敷き詰める必要はない。この中から、少し『金になりそうな石』を拾いたいんだ」
グランは琥珀色の瞳でユークをじっと見つめ、短く鼻を鳴らした。「そんなものがあるのか」と言いたげな波長だ。
ユークは土砂の山に近づき、しゃがみ込んでその中から握り拳大の石をいくつか拾い上げた。
「ほら、これだ」
ユークが手にしたのは、表面に赤錆が浮いた、ずっしりと重い石の塊だった。
「ただの低位の鉄鉱石だ。純度も低いし、冒険者なら見向きもしないだろう。だが、これだけ迷宮の魔力を帯びた環境で揉まれた鉄鉱石なら、町の鍛冶屋に持っていけば『安いが丈夫な農具の材料』として確実に買い取ってもらえる」
迷宮内で採れる素材は、何もかもが魔法の武具になるわけではない。だが、迷宮の魔力を微量に含んだ石や土は、外界のものよりわずかに頑丈だったり、保温性が高かったりという『地味な利点』を持っていることが多い。
「グラン、お前の顎と爪で、この土砂の中からこういう『重くて硬い石』と、それから『少しだけ光を反射する石』をより分けてくれ。無理に壁を掘ったりはするな。あくまで崩れて落ちている分だけだ。地盤はもう傷つけたくない」
ユークの指示を受け、グランは器用に前脚の爪を使い、土砂の中からユークが指定した特徴を持つ石をコロコロと掻き出し始めた。
大きな岩を砕くような力仕事が得意なグランだが、土質や鉱物の重さを見分ける感覚も非常に優れている。ユークが自らの手で探すよりも、遥かに速く、正確に「鉄鉱石」や「低位の魔力石の欠片」が小さな山になっていく。
「よしよし、いいペースだ。……大儲けはできないが、塵も積もればなんとやらだ」
ユークはグランが選別した石を籠に詰めながら、別の区画へと視線を向けた。
モルトに腐敗泥を処理させている水路の終点。岩棚の上で、モルトが丸まってグゥグゥと幸せそうに眠っている。
ユークはモルトを起こさないように足音を殺して近づき、その水路の末端――モルトが泥を飲み込んだ後に、未消化物として排泄した『残りカス』の溜まり場を確認した。
「さて、こっちはどうなっているか」
泥食い種は、有毒な泥や腐敗物を体内の強力な魔力と胃酸で浄化する。しかし、すべてを完全に消滅させるわけではない。有機物は水と空気に分解されるが、泥に混じっていた「無機物」は、浄化された状態で体外に排出されるのだ。
ユークは水路の終点に溜まっていた、サラサラとした灰色の砂を手に取った。
数日前までの強烈な腐敗臭や、鼻を突く鉱物臭は一切ない。指の間からこぼれ落ちる砂は、不純物が完全に取り除かれ、微かな魔力の粒子を帯びてキラキラと輝いていた。
「……やはりな。見事な『魔力濾過砂』だ」
ユークは思わず口元を緩めた。
迷宮の泥に長期間晒され、さらにモルトの胃袋で浄化という極限のプレスをかけられたこの砂は、普通の川砂とは比較にならないほどの『魔力保持力』と『研磨力』を持っている。
錬金術師が薬を調合する際の触媒や、上質な武具を磨き上げるための研磨砂として、町ではそれなりの需要がある品だ。
「冒険者は『魔獣の死骸』や『宝箱』しか見ない。だが、迷宮という巨大な工場のラインを回せば、こういう『良質な副産物』がタダで手に入る」
ユークは籠の中に敷いた布の上に、その魔力濾過砂を丁寧にすくい入れていった。
モルトが腹を壊さないように、ユークが手作業で「腐敗泥」と「鉱物泥」を分けて食わせたからこそ、排出された砂も均一で美しい状態を保っているのだ。管理者の丁寧な運用が、文字通り『価値』を生み出した瞬間だった。
さらにユークは、迷宮の入り口付近に残されていた、古い監督院時代の遺物にも目を向けた。
朽ち果てて使えなくなった木の監視台の残骸。錆びついて使い物にならない鉄の杭。
「これも全部ゴミじゃない。こっちの平らな石板は、前砦の床の補修に使える。こっちの錆びた杭は、溶かして打ち直せば扉の蝶番くらいにはなるだろう」
ユークは、持ち帰るものを明確に二つに分類していった。
『町で売って金に換えるもの(鉄鉱石、微細魔力石、魔力濾過砂)』
『前砦の修繕資材として自家消費するもの(旧資材、石材)』
小一時間ほどの作業で、ユークの背負い籠はズッシリとした重みを持つようになった。
「これだけあれば、数日分の食料と油、それに少しの補修道具くらいは買えるだろう」
ユークは砦に戻り、拾い集めた「売り物」の最終的な荷造りを始めた。
鉄鉱石は粗い麻袋に。魔力濾過砂は、手持ちの皮袋の中に厳重に密封する。
どれもこれも、一見すればただの石屑や砂だ。一つで金貨が手に入るような代物ではない。全部売っても、せいぜい銅貨の山と少しの銀貨になる程度だろう。
だが、ユークにとってこの『石屑の詰まった荷物』は、どんな宝剣よりも尊いものに思えた。
「これは、俺たちがこの数日間、命懸けで現場を回して生み出した『最初の黒字』だ」
ユークは麻袋の口を硬く縛りながら、静かに呟いた。
迷宮は、ただ魔獣を殺して資源を略奪するだけの場所ではない。正しく管理し、生態系を回せば、こうして自然と「維持していくための恩恵」を吐き出してくれるのだ。
この石屑は、灰環迷宮が再び『価値を生む施設』として蘇り始めた証だった。
「よし。荷造りは完了だ」
ユークは背負い籠を背中に担ぎ上げ、皮のベルトをしっかりと締めた。
装備は相変わらず貧弱なままだが、その顔には確かな自信と、次に行うべき仕事への明確なビジョンがあった。
「留守を頼むぞ。明日の朝には、必ず戻る」
ユークは、迷宮の奥で静かに息を潜めている五体の契約個体たちへ向けて、魔力パス越しに声をかけた。
それぞれから、短くも頼もしい波長が返ってくる。シルクスが張り巡らせた糸の感覚。グランの重い安心感。モルトののんびりとした寝息。ルーメの穏やかな光。フェズの油断ない気配。
彼らがこの「死なない入口」を守っていてくれるからこそ、ユークは安心して外へ出ることができる。
ユーク・フェルドは、灰環前砦を背にし、山を下る道を歩き始めた。
向かう先は、クルン村よりもさらに遠く、人間たちの様々な欲望と物資が交差する最寄りの商業拠点。
――迷宮都市・ラスティア。
そこでこの石屑を金に換え、必要な物資を買い込む。
そして何より、この「誰にも見向きされなかった灰環迷宮」が、実は安全に利用できるかもしれないという『小さな噂』を、慎重に外界へ流すための第一歩を踏み出すのだ。




