第19話 クルン村の井戸
灰環迷宮のある山裾から、曲がりくねった街道を半時間ほど下った先に、クルン村はあった。
かつては迷宮から流れ出る清浄な魔力水と豊かな土壌の恩恵を受け、宿場や農村としてそれなりに栄えていたはずの集落だ。しかし、ユーク・フェルドが灰色の外套のフードを深く被って村の入り口に足を踏み入れた時、そこに活気と呼べるものは微塵も存在していなかった。
道沿いの畑は乾ききっているか、逆に泥水を被って作物が腐りかけている。
通りを歩く村人たちの顔には、一様に深く重い疲労と諦めが貼り付いており、よそ者であるユークの姿を認めると、胡散臭そうな、あるいは怯えたような視線を向けて足早に距離を置いた。
「……完全に『終わった土地』の空気だな」
ユークは内心で嘆息した。
王立迷宮監督院の保全運用部にいた頃、迷宮の崩壊に伴って廃村に追い込まれた集落をいくつも見てきた。迷宮と周辺地域は、目に見えない血管(水脈)や神経(魔力流)で繋がっている。迷宮が死ねば、その周囲もまた緩やかに死んでいくのだ。
「あんた……さっきの旅人か」
村の中心にある広場へ向かって歩いていると、先ほど山道で出会った初老の男が声をかけてきた。男は村の顔役の一人らしく、周囲の村人たちが少しだけ警戒を解くのが分かった。
「ええ。水回りの修繕や、ちょっとした土木仕事をしている実務屋です。先ほど『井戸が濁っている』というお話を伺ったので、もし私で原因が分かるならと思いまして」
ユークは管理者の身分を隠し、作り笑いすらせずに淡々と用件だけを告げた。
愛想を振りまいて信用を得るような器用な真似は、彼にはできない。だが、その飾り気のない実務的な態度が、逆に「怪しい詐欺師ではないだろう」という最低限の安心感を老人に与えたようだった。
「水回りの修繕屋ねえ……。まあ、見てもらうだけならタダだ。こっちへ来な」
老人に案内されて広場の中央へ進むと、そこには石造りの立派な共同井戸があった。かつては村の生命線だったであろうその場所には、今は重苦しい空気が漂い、数人の村人が空の桶を持ったまま途方に暮れたように立ち尽くしている。
ユークは井戸の縁に歩み寄り、下を覗き込んだ。
「……酷いな、こりゃ」
思わず声が漏れた。
井戸の底には、水というよりは薄めた泥水のような灰色の液体が溜まっており、水面には虹色の不気味な油膜が張っている。ぶくり、ぶくりと時折泡が弾けるたびに、鼻を突く鉱物臭が上がってきた。
「見ただろ。ここ数日で一気にこれだ。昔は灰環の山から来る水は澄んでいて、飲めば疲れが吹き飛ぶくらいだったんだが……今は一口飲めば三日は腹を下す。毒の沼だ」
老人が忌々しそうに吐き捨てるように言うと、周囲の村人たちも同調して不満を口にし始めた。
「どうせ、あの山の迷宮がまた何か悪さをしたんだ」
「監督院の連中も見捨てた穴だ。山の機嫌が悪くなったとしか思えねえ」
「このままじゃ、村を捨てるしかなくなるぞ……」
「迷宮がまた何かした」
その言葉は、ユークにとって鋭い棘のように胸に刺さった。彼らが言う「何か」とは、間違いなく数日前にユークが行った、モルトによる泥の処理とグランによる水脈のルート変更のことだ。
良かれと思って内部の循環を整えた結果が、外の村人にダイレクトに被害を与えている。これが『運用』の恐ろしさであり、責任の重さだ。
だが、ユークは感情的に謝罪したり、正体を明かして弁明したりすることはしなかった。
今の彼に必要なのは、同情でも信頼でもなく、『事実の確認』だ。
「少し、水を調べさせてもらいます」
ユークは傍らにあった木桶を使い、井戸の底から泥水を汲み上げた。
そして、持参していた小さなガラスの小瓶にその水を移し入れ、日の光に透かしてじっくりと観察を始めた。
「匂いは腐敗臭というより、砕けた岩と魔力の残滓の匂い。油膜に見えるのは、高濃度の魔力が地下の圧力で変質したものだ」
ユークは小瓶を軽く振り、濁りの沈殿速度を見た。
細かい砂粒がスッと底に沈み、上にいくにつれて細かい灰色の粒子が漂っている。
「……なるほど。毒じゃない」
ユークが確信を持って呟くと、周囲の村人たちが怪訝な顔をした。
「毒じゃないって、あんた、これを飲んで腹を下した奴がいるんだぞ!」
「ええ。ですが、それは『毒素』によるものではなく、『未処理の魔力残滓』と『鉱物の粉』による急性消化不良です」
ユークは小瓶を老人の目の高さに掲げた。
「井戸そのものが腐っているわけじゃありません。この水は、山側の地下水脈から急激な『圧力』によって押し出されてきたものです。本来なら山の中で濾過されるはずの古い泥が、配管の詰まりを一気に通されたせいで、ここまで吹き溜まってきている状態です」
ユークの脳内で、迷宮内の状況とこの井戸の状況が完璧にリンクした。
彼が迷宮内で泥の流路を整備し、モルトに食わせ始めたことで、完全に停止していた迷宮の『ポンプ』が微弱ながらも再稼働した。しかし、迷宮と村を繋ぐ『外水脈枝』には長年の泥が詰まったままだ。そこに圧力がかかった結果、押し出された古い泥が、最も水が抜けやすいこの井戸に逆流してきているのだ。
「山の機嫌じゃありません。水脈の構造的な問題です。……そして、この濁り方には『波』があるはずだ」
ユークは振り返り、村人たちに尋ねた。
「この井戸の濁りが、一日のうちで少しマシになる時間帯はありませんか?」
老人は少し驚いたように目を瞬かせ、やがて頷いた。
「……ああ、言われてみれば。明け方と、夕暮れ時だけは、少し泥が沈んで上澄みが取れることがある。だが、日中と夜中はドロドロだ」
「ビンゴだ」
ユークは心の中でガッツポーズをした。
その時間帯は、迷宮内で泥食い種のモルトが腹一杯になって『眠っている時間』と完全に一致している。
モルトが泥を食うのをやめれば、迷宮内の泥の処理ラインが一時停止し、外水脈枝へかかる圧力も下がる。その結果、井戸への泥の押し出しも弱まるのだ。
迷宮と外の世界が、確かに繋がっている。
その因果の線を完全に掴んだユークは、表情を崩さぬまま、村人たちに向かって具体的な『運用』の指示を出した。
「今すぐこの井戸を完全に綺麗にする魔法は、私にはありません。ですが、対処法はあります」
ユークは手持ちのチョークを取り出し、広場の石畳に簡単な図を描いた。
「いいですか。井戸の水は、必ず『明け方』と『夕暮れ時』に汲んでください。その時間が一番、山からの圧力が下がって泥が沈む時間です」
「それ以外の時間に汲んだらどうなるんだ?」
「日中のドロドロの水を汲むと、井戸の底の泥がさらにかき混ぜられて悪化します。そして、汲む時は絶対に桶を底まで沈めず、表面から半分だけ『上澄み』をすくうようにしてください。その上澄みを布で一度濾せば、腹を下すことはありません」
愛想笑いもない、同情の言葉もない。ただの物理的な事実と、運用手順の通達だ。
だが、そのあまりにも理路整然とした断言と、実際に「マシになる時間帯」を言い当てられたことで、村人たちの間にあった反発の空気は、戸惑いと僅かな納得へと変わっていた。
「……本当に、それで腹を下さなくなるのか?」
「保証します。これは呪いでも山の怒りでもなく、ただの『物理的な配管の乱れ』です。正しく扱えば、水は使えます」
ユークは短く断言し、外套の裾を翻した。
「あんた、直してはくれないのか?」
背後から老人の声が飛ぶ。
「ここからは直せません。原因はもっと上……山側の『外水脈枝』の詰まりです。私がそっちへ行って、圧力を逃がす『バイパス』を作ってきます」
「バイパス?」
「ええ。数日お待ちください。そうすれば、この井戸の濁りは根本から引くはずです」
それだけを言い残し、ユークはクルン村を後にした。
村人たちと打ち解けたわけではない。「ありがとう」と感謝されたわけでもない。
よそ者の胡散臭い男が、偉そうに水の汲み方を指示していっただけだ。だが、ユークにとってそれで十分だった。
彼が求めていたのは、村人の笑顔ではなく、「迷宮の運用が外にどう影響しているか」という因果関係の把握だ。
「……入口層だけじゃダメだ。迷宮と村の間にある『外水脈枝』の負荷を抜き、余分な泥を別の坑道へ逃がす経路を掘る必要がある」
山道を登りながら、ユークは次の明確な目標を記録帳に書き込んでいた。
グランの力で水脈の横の岩盤をぶち抜き、モルトの処理量に合わせて外への圧力を調整する。大掛かりな土木作業になるだろう。
「俺が直す。俺が管理する。それが、この迷宮を触った者の責任だ」
ユークが山道の途中で一度立ち止まり、眼下のクルン村を振り返った時だった。
ちょうど太陽が西の山に沈みかけ、夕暮れ時を迎えていた。迷宮内では、モルトが今日の分の泥処理を終え、岩棚で眠りにつく時間だ。
遠くに見える村の広場。共同井戸の周りに集まっていた村人たちの間で、微かなざわめきが起きているのが見えた。
距離があって声は聞こえないが、彼らが覗き込んでいる井戸の水面から、不気味な油膜と濁りがスゥーッと引き、わずかながら透明度を取り戻し始めているのだろう。
「……言った通りだろう。迷宮は、もうただの暴走する穴じゃない」
ユークはフードの奥で小さく口角を上げると、再び灰環迷宮へ向かって力強い足取りで歩き出した。




