第18話 村へ下る濁り
灰環前砦の小部屋で仮眠をとったユーク・フェルドは、翌朝、砦の周囲の環境調査から一日の作業を始めた。
迷宮の内部は、ひとまず「死なない」状態に落ち着いている。
ならば次は、この迷宮が外界とどう繋がっているのか、その境界線を確認する必要があった。
ユークは砦の裏手、かつて迷宮から溢れた清浄な魔力水が流れ出していたという小さな沢へと足を運んだ。古い図面によれば、ここは近隣の村や街道を潤す重要な水源の一つであったはずだ。
だが、沢を覗き込んだユークの顔は険しかった。
「……流れが鈍い。それに、まだ濁っているな」
沢を流れる水はチョロチョロとした頼りないもので、その底には灰色の泥がべっとりと沈殿していた。水面には油のような不気味な膜が浮いている。
入口層の内部では、モルトが腐敗泥の処理を始め、少しずつ澄んだ水筋が戻りつつあった。
その浄化された水がこの沢へ流れ込んできてもいいはずなのだが、現状は迷宮が完全に崩壊していた数日前と大して変わっていないように見えた。
ユークは足元に連れてきていたルーメを拾い上げ、沢の泥水に少しだけ近づけた。
「ルーメ。この水の先、地下で何が起きているか分かるか?」
ルーメはゼリー状の体を震わせ、光の色を変化させた。
内部の安全導線で放っていた澄んだ『青緑色』ではない。かといって、猛毒や崩落の危機を示す『赤紫色』や『点滅する黄色』でもない。
それは、ひどく息苦しそうな、どんよりと淀んだ「鈍い黄土色」だった。
「……水脈の詰まりか。それも、中じゃなく『外』へ抜けるルートが」
ユークはルーメを肩に乗せ、顎に手を当てて思考を巡らせた。
灰環迷宮は、岩盤と水脈が絡み合った複合型のダンジョンだ。ダンジョンというものは、単に地下にぽっかりと開いた無関係な穴ではない。周囲の土地の魔力と水を吸い上げ、内部で循環させて浄化・増幅し、再び外界へと放出する巨大な『心臓』であり『ポンプ』なのだ。
心臓が機能不全に陥り、血管(入口層)が泥で詰まっていたのが数日前までの状態。
ユークは契約個体たちを使って、その血管の泥を掻き出し、一部を正常な流れに戻した。
しかし、内部の循環が少し回復したことで、行き場を失っていた水と魔力の『圧力』が、今度は迷宮の外側へと押し出されようとしている。
「出口の配管が長年の泥で細くなっているところに、俺が内部の圧力を無理やり通した。結果として、外へ向かう地下水脈に急激な負荷がかかり、淀んだ泥水が押し出されているんだ」
迷宮内を改善しただけでは、本当の解決にはならない。
施設を運用するということは、その施設が周囲の環境に及ぼす影響まで含めて責任を持つということだ。
ユークがそう結論づけた時、砦の前の街道の方から、カサカサと落ち葉を踏む足音が聞こえてきた。
ユークは身を潜めることもなく、自然な足取りで街道へ出た。
そこにいたのは、背中に粗末な籠を背負った、初老の男だった。服装からして冒険者ではなく、近隣の村の住人だろう。山菜や薪を拾いに来たが、迷宮の不気味な気配に恐れをなして引き返そうとしているところのようだった。
「おや、旅のお方か。こんなところに一人とは、肝が太いな」
男はユークの軽装を見て、少し驚いたように声をかけてきた。ユークは人畜無害な旅人を装って軽く頭を下げる。
「ええ、少し水場を探して歩いていまして。ですが、そこの沢はひどく濁っていて飲めそうにありませんね」
ユークが沢の方を指差すと、老人は深くため息をついた。
「飲まない方がいい。この灰環の穴から流れてくる水は、もう何年も前から死んでるんだ。だが、ここ数日は特に酷い」
「ここ数日、ですか?」
ユークの問いに、老人は忌々しそうに顔をしかめた。
「ああ。わしらはこの山を下った先にある『クルン村』の者だがな。村の共同井戸の底から、灰色の泥水が湧き出してきおったんだ。昔は、灰環の山から来る水は魔力を含んでいて甘かったんだが……今じゃ、腹を下す毒水だ。まったく、見捨てられた迷宮ってのは、周りの土地まで腐らせちまう」
「クルン村の井戸が……」
ユークは表情を取り繕いながらも、内心で強い衝撃を受けていた。
ここ数日で井戸の濁りが悪化した。そのタイミングは、ユークが入口層でモルトに泥の処理ラインを作らせ、グランに地盤を落とさせて水脈のルートを強引に変更した時期と完全に一致している。
「(俺のやった応急処置が、村の井戸へ『泥の押し出し』という形でシワ寄せをいかせたのか)」
もちろん、ユークが何もしなければ、いずれ迷宮は完全に崩壊し、有毒な泥の津波がクルン村を飲み込んでいただろう。だが、結果的に今の井戸の濁りを引き起こした直接の引き金は、自分の「迷宮内だけの最適化」にあったのだ。
「大変ですね。村の方々は水はどうされているんですか?」
「今は遠くの川まで汲みに行っとるが、長くは続かん。井戸が干上がるか、村が干上がるかのどっちかだ。旅のあんたも、こんな呪われた山は早く離れた方がいい」
老人は忠告を残し、足早に山を下っていった。
ユークは老人の背中が見えなくなるまで見送り、それから踵を返して砦の小部屋へと戻った。
「参ったな。俺の仕事は、まだまだ終わっていなかったらしい」
ユークは石の机に広げた外縁区画の地図を見つめた。
安全導線を青緑色で引き、危険箇所を塗りつぶした、自作のルールブック。
この地図の枠内――迷宮の入り口周辺は、確かにユークの管理下に入った。しかし、迷宮の『影響範囲』は、この枠の外、人間が暮らす村の生活基盤にまで伸びているのだ。
入口層の内部で泥の処理ラインを維持するだけでは、「死なない入口」としては片手落ちだ。
出口である外の地下水脈へかかる負荷を抜き、流れを整えなければ、いずれまた圧力が逆流して迷宮が崩壊するか、クルン村の井戸が完全に毒の沼と化してしまう。
「地域との接続。……厄介だが、避けては通れない」
ユークは決断した。
クルン村へ行き、井戸の状況を直接確認する。
水脈がどの程度の深さで、どういう成分の泥が混じっているのかを見れば、迷宮側のどこを調整すればいいのかが逆算できるはずだ。
だが、行き方には注意が必要だった。
「『私が灰環迷宮の新しい管理者です。私が迷宮をいじったせいで、お宅の井戸が濁りましたが、これから直します』なんて言ったら、袋叩きにされるだけだな」
長年、迷宮の放置による被害を受けてきた村人たちにとって、灰環迷宮は忌むべき災厄の元凶だ。管理者などと名乗れば、これまでの恨みつらみをすべてぶつけられ、石を投げられて追い出されるのがオチだろう。
ユークはリュックから、目立たない灰色の外套を取り出し、羽織った。
腰には護身用の短剣と、水質を調べるための小さなガラス小瓶、そして記録帳だけを持つ。
「身分は隠す。たまたま通りかかった、水回りの修繕や土木仕事ができる『実務屋の旅人』。それでいこう」
ユークは魔力パスを開き、迷宮内で待機している契約個体たちに呼びかけた。
「俺は少し山を下りて、村へ行ってくる。半日ほどで戻る予定だ」
『シルクス。砦の周囲の警戒を頼む。人間が来たら隠れてやり過ごせ。間違っても攻撃するなよ』
『グラン、モルト。内部の安全導線と処理ラインの維持を頼む。無理はしなくていい』
『フェズ。外からの迷い獣が来たら、昨日と同じように旧通路へ逸らしてくれ』
契約個体たちから、それぞれ了解を示す波長がパスを通じて返ってくる。
ユークの直接の指揮がなくても、彼らはすでに自分たちの『ルーチンワーク』を理解し、現場を維持する力を持っている。それが何よりの強みだった。
「頼んだぞ。俺の帰る場所(拠点)を守ってくれ」
ユークは砦の入り口に貼った地図を一度だけ確認し、それから山を下る道へと足を踏み出した。
木々の間を抜けていく風は冷たかったが、ユークの足取りは、監督院を追放されてこの山を登ってきた時のような重さはなかった。
今度は、目的がある。
迷宮を直し、地域と繋ぎ、すべてを「運用」の輪の中に収めるための仕事だ。
道に沿って流れる小川には、まだ灰色の濁りが浮き、不気味な泡を立てている。
ユークはその濁りの先――山裾に広がる小さな集落、クルン村へと初めて足を向けるのだった。




