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第154話 返す道がない

 朝になっても一通は卓の上に出たままだった。


 封は昨日のうちに切ってある。中身は一枚で折り目が二つ。ミレアは灯を落とす前に紙の端へ小石を置いて、そのままにして休んだ。


 ユークは小石をどけて紙を裏返した。裏は白い。入っているのは表の一行と、書いた者の名と肩書だけだ。


「控えへは入れたか」


「入れました。三つ目に返すとあります」


 三つ目はこちらがどうするかを入れる段だ。書いたのは昨日で、そこから一字も先へ進んでいない。


 名は控えの端へ入れてある。肩書は村の書役だ。


「名で呼ぶか」


「入れた先が控えですから、こちらでは書役の方とだけ言います」


「返す先は」


「村の名まではあります」


「道は」


「ありません」


 ミレアは控えの頁を開いたまま顔を上げた。


「一つ気になっています」


「言え」


「宛名です」


 封の表に砦の名は無い。かわりに例を書いた砦へ、という言い方が一行入っている。


「うちを呼ぶ名は台帳に無えぞ」


「ありません。ですから向こうも書けません」


「書けねえのに書いてある」


「様式に出ている呼び方を、そのまま宛名の場所へ移しています」


 院で止まっている一枚も同じ壁の前にある。宛先の欄へ入れる名がどこにも無くて、起こした手はそこで止まった。起こしたのは前の掛にいた下働きだと聞いている。


「同じ壁だな」


「同じ壁です」


「片方は止まって、片方は越えた」


 ミレアは封の表を指の腹で押さえた。


「越えたほうの紙には罫がありません」


「罫が要るのか」


「院の紙は宛先の欄が刷ってあります。欄には名しか入りません。名でないものを書けば、その欄は潰れます」


「こっちへ来たほうは」


「白い紙です。頭の行も自分で引いています。ですから何を書いても潰れる欄がありません」


 刷ってある紙は誰が書いても同じ形になる。同じ形になるから束にできて棚へ入る。白い紙は行の引き方から先が全部書いた者の裁量だ。裁量のあるほうが壁を一つ越えて、揃うほうが行の頭で止まった。


 欄のある紙のほうが遠くまで行くと思っていた。今朝この卓に載っているのは、欄の無いほうの紙だ。


---


「返す中身だ」


「訊きます」


「一行にする」


「どちらの一行ですか」


「訊き返すほうだ」


 書けない場所があるとだけ書いてある。どの欄かは入っていない。五つのうちどれが書けないのかを、こちらは一つも知らない。


「中身を書くのは」


「書けば説明になります。説明を紙にして外へ出せば、申し立てと同じところへ行きます」


「当てて書けば」


「当たるかもしれません」


「当たっても書かねえ」


 水かもしれない。地形かもしれない。空いている二つのことかもしれない。知らないほうを埋めて返せば、こちらの見当がそのまま向こうの紙に残る。


 見当は書いた者の手を離れると数と同じ顔をする。顔の同じものを、後から繰る者は確かめない。


 ミレアは裏紙へ二行書いて向きを変えた。


 〈どの欄ですか〉


 〈こちらで申せることがあれば申します〉


 ユークは下の行の頭へ指を置いた。


「これは要らねえ」


「要りませんか」


「申せることがあると書けば、向こうは待つ」


 待たせて何も出さなければ、一度言って引いた形になる。出せば出したもののほうが先に向こうの紙へ入る。どちらもこちらの都合で決まって、決まった先は向こうの卓の上だ。


「取ります」


 ミレアは二行目へ線を引いた。残ったのは六字だ。


「六字です」


「足りる」


「上の行はこのままでよろしいですか」


「直す気か」


「どの欄でしょうか、と書けます。字は二つ増えます」


「増やすとどうなる」


「訊く側の格が下がります。低いところから訊けば、訊かれた側は返す義理を負います」


「負わせるな」


「負わせません。六字のままにします」


---


「もう一つ訊きます」


「言え」


「この一行に、うちの名と日付を入れますか」


「入れたらどうなる」


「受けた側が綴じます。名と日付の入っている紙には綴じる段がありますから。綴じれば、あの村の紙に灰環の名が一行入ります」


「入ったらどうなる」


「今年は何にも使われません。来年のことは分かりません」


 名の入った紙は名の要る用に回る。回った先で何に使われるかを、書いた側は選べない。


「抜け」


「抜きます。かわりに二枚に割ります」


 外へ出す一枚には砦の名も日付も入れない。控えに残す一枚には両方入れる。


「控えのほうは何のためだ」


「抜いたことをうちの側へ残すためです。何も残さなければ、後から見て書かなかったのか書けなかったのか分かりません」


 割るのは足すためだと思っていた。今度は抜くために割る。


---


 裏紙の束が切れたので、ミレアが奥の間へ立った。ユークは重い戸を押さえに付いた。


 奥は槽の側へ抜けている。抜けた先の水面は昨日と同じところで平らだった。モルトの背は底の影に混じっていて、動いているかどうかは浮いてくる粒でしか分からない。浚う手を止める段はどの紙にも無いので、明日も同じだけ嵩が上がる。


 戸の外の柱には糸が一本這っている。ミレアが束を抱え直すまでのあいだ、震えは一度も来なかった。来ても坂の途中までだ。曲がりから下は、この砦のどの糸にも掛からない。


 差出の村がどの向きにあるのかを、糸は一本も教えない。


---


 午後に棚を当たった。


 ミレアは村の名の入っている綴りを順に出した。桶を上げる村。塩を通した村。去年の秋に人手を借りた村。名の出てくる先はどれも坂の下か、下りて二日の内にある。


 差出の村はどこにも無い。


「町の帳場なら分かるか」


「分かるかもしれません」


「訊けるか」


「訊けます。訊けば帳場に、灰環がその村を訊いたという行が一つ残ります」


「うちの行だな」


「うちの行です。……あの方の行にもなります」


 書役はこちらへ紙を出した。出したことをその村の内で言っているかどうかは分からない。町の帳場で村の名と灰環が並べば、並んだところから先へこちらの手は届かない。


「訊かねえ」


「訊きません」


「本院はどうだ。配った先を出させりゃ当たるだろ」


「配った先は二通目にも入っていませんでした。訊けば、配った先を灰環が知りたがっている行が残ります」


 どこを当たっても、当たった跡のほうが先に紙になる。


---


「荷方は何と言って置いていった」


「預かりものだと。それだけです」


「どこで預かったかは」


「訊いていません。荷方の帳には預かり一つとしか入らないはずです。持ち込んだ方の名を控える段がありません」


「渡した先は控えるのか」


「控えます。渡した先はうちです」


 来た道はこちらの手前で切れている。残っているのは渡したほうの控えだけだ。


「町の判は押してあるか」


「押してありません。町の荷なら判の要る段を通ります。預かりは通りません」


「通らねえほうが速えのか」


「速いです。段の少ない紙ほど早く着きます。着いた先で何も辿れません」


「持ち帰らせるのは」


「頼めます。ですが荷方は帳場へ戻すだけです。振り分けるのは帳場です」


「宛名が村の名しか無えとどうなる」


「その村へ入る便を帳場が持っていなければ動きません。持っているかどうかを、こちらは知りません」


---


 午後の遅くに桶が上がってきた。


 桶を下ろしたリクは受付台へ回って、線の下へ一つ入れた。筆を筒へ戻す前に手が止まる。


「ユークさん、今日も点だぞ」


「点ですね」


「昨日も点だ。三日続いてる」


 外へ一体も出なかった日は行が立たず、点だけが残る。外へ出せるのは初めから一つで、その一つが出るかどうかで頁の形が決まる。


「遠くまで行くやつは増えねえのか」


「増えません」


 リクは頁を閉じて紐を掛けた。掛けながら坂の下へ首を伸ばす。


「下の曲がりより先って、誰か行ったことあるのか」


「荷方が通っています」


「うちのは」


「ありません」


 門の上には影が一つある。坂の見えるところにいるだけで、向きを作る使い方はこちらから禁じたままだ。禁じた手を戻したところで、届く先は坂の下で終わる。


 朝に坑口の板へ当てた掌は、いつもと同じ位置で返りを受けた。遅れの大きさを写せる目盛りは、今日もどこにも出ていない。


---


 日が傾く頃に外へ出す一枚が書き上がった。


 六字だけの紙で、上にも下にも何も無い。ミレアは控えの一枚をその隣へ並べた。控えのほうには日付と砦の名と、抜いた一行についての断りが入っている。


 並べると字の多いほうがこの砦に残る。外へ出るほうは、誰が書いたのかもどこから来たのかも読めない紙だ。


 柱の根方に掛けた布へは今日も手を掛けなかった。光らせた先を写す紙をこちらが持っていないので、掛けたままの日数だけが伸びていく。


 ミレアは控えの三つ目をもう一度見た。返すと入れた字はそのままだ。返したとはまだ書けない。


「これを持って坂を下りる者がいねえ」


「いません」


「荷方は」


「月に一度です。昨日来ましたので、次は月をまたぎます」


「あの男は行き先を選べるか」


「選べません」


 こちらの書いた形は、名も道も知らない土地の卓まで届いている。届いた先へ六字を戻す道が、この砦にも坂の下にも今日は一本も無い。


 運ぶ手が坂を上がってくるまで、紙は卓の上で待つことになる。

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