第152話 まだない
リクは繰る手を止めなかった。
線のところまで戻ってから、また前へ繰り直す。指の腹が紙の端をこすって乾いた音を立てた。
朝のうちに水は置いてある。桶は空になって台の脇に立ててあった。今日は下りるのを急いでいない。
ユークは椅子を回して受付台のほうへ向いた。
「数えてみますか」
「今か」
「今です」
「ユークさん、俺の字は下手だぞ」
「読めれば構いません」
リクは何か言いかけてやめた。それから頁の上へ屈み込んだ。
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ミレアが裏紙を一枚出して台の端へ置いた。
「行の入っている日を先に数えます。そのあとで点の日を数えます」
「両方いるのか」
「両方でないと、どちらが多いか分かりません」
リクが指で行を追い、ミレアが裏紙へ棒を引いた。棒は五本ごとに束ねてある。
行の入った日は十一だった。
点の日は十九だった。
「点のが多いぞ」
「多いです」
リクは棒の束と頁を見比べてから声を落とした。
「俺が上がらなかった日だ」
「上がっても点になる日があります」
「あるのか」
「あります。門の外へ出た一体がない日は、上がっても行が立ちません」
点は二つのことを同じ形で書いている。上がらなかった日と、上がっても書くものがなかった日だ。
ユークはそこへ線を入れなかった。今日から形を変えれば、先の一月ぶんは後ろから読めなくなる。
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三つ目の欄で手が止まった。
どれだけ離れたかを書く欄だ。教えたのは曲がりでいいという一言だけだったはずだが、入っている言い方は一つではなかった。
〈まがり〉が六つ。〈まがりのさき〉が三つ。〈したのはたけ〉が一つ。〈みえなくなった〉が一つ。
「四通りあるな」
「四通りです」
「教えたか」
「教えていません」
リクは首の後ろへ手をやった。
「曲がりで戻ってくる日と、その先まで行く日があったんだ。同じに書いたら嘘だろ」
「嘘になりますね」
段を四つに分けたのは書いた本人で、分けろと言った者はいない。
字も変わっていた。頭のほうの日は一字が枡から食み出している。終わりのほうは枡に収まって、書き足すだけの余りまで空けてあった。
速くなったぶんだけ字が小さい。それも教えていない。
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ミレアは新しい紙へ写しはじめた。
写す順を日付から離れた先ごとへ変える。同じところまで出た日だけが縦に並んだ。
「日付の順を崩して構わねえのか」
「写しですので崩せます。元の綴りは日付の順のままです」
「崩した紙は残すか」
「残します。並べ替えたことも一度やったことですので」
「入っているのは」
「十一日とも同じ一体です。ほかの四体は一度も入っていません。門の外へ出ませんので」
「先の月と変わらんな」
「変わりません。二つ目の欄はひと月ぶん、名が一つしか並んでいません」
「四つ目は」
「〈おそい〉が五つ。〈きのうとおなじ〉が二つです。残りの四日は空いています」
字はリクの手だ。中身はこちらが板の前で言ったことを、そのまま移してある。
ユークは並べ替えた紙を手元へ引いた。
〈きのうとおなじ〉の二日は、どちらも〈まがりのさき〉まで出た日だった。〈おそい〉の五日は、〈まがり〉が四日と〈みえなくなった〉が一日だ。
「逆だな」
「逆に見えます」
「遠くまで出た日ほど遅い、じゃねえのか」
「その並びではありません。ですが二日です」
距離だけでは揃わない。もう一つ何かが効いている。効いているものの名は、この紙のどこにも無い。
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「幾日ぶんある」
「十一日です。返りまで書いてあるのは七日です」
「七日か」
「七日では何も言えません」
ユークは七つの行を上から順に見た。差があるように見える。見えるのは、こちらが差を探しているからかもしれない。
半拍は掌の中にしかない。掌はその日の温さで変わる。物差しを当てた者は一人もいない。
「これは数にならねえ」
「なりません。差があるとだけなら書けます」
「大きさは」
「書けません」
無い物差しで大きさを書けば、それは書いた側の見当になる。ミレアは筆先を紙から離した。
「数にするには何が要る」
「同じ物差しが二つ要ります。一つはこちらの掌の代わりです。もう一つは離れた距離のほうです」
「坂に目印は立てられるな」
「立てられます。立てた日から先のぶんだけが揃います」
「先の一月は」
「揃いません」
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リクは筆を筒へ戻した。戻してから、点の並んだところを指で押さえた。
「これ、意味あるのか」
ユークは湯呑みへ伸ばしかけた手を止めた。
同じ声に二度訊かれている。井戸が白くなった日に一度。この欄を作らせた日にもう一度。どちらのときも答えを口の中で作って、作ったものが言い訳の形をしていたので出さなかった。
今日は選ばずに出した。
「まだない」
リクの指が止まった。
「無いのか」
「今は無い。七日ぶんじゃ何も出ねえ。三月ぶんでも出ねえかもしれん」
「じゃあなんで書かせるんだ」
「無えと分かるのに一月かかった。有るか無えかは、数えねえと言えねえ」
ユークは点の列から目を上げなかった。
「……だから続ける」
言ってから、これが慰めにも励ましにもならない形だと分かった。分かっていても、ほかに出せる形が無い。
リクはしばらく何も言わなかった。
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綴りを閉じて台の元の場所へ戻す手つきは、先の月より速くなっている。
「変な仕事だな」
「変だ」
紐を結ぶ手が一度止まった。
「前は帳面が変だって言ったんだ」
「聞いた」
「今日のは帳面じゃねえ。変なのは書かせてるほうだ」
「そっちが正しい」
リクは笑わずに肩を上げて、空の桶を提げ直した。
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午後に坂を下りた。
曲がりの手前でオドルと行き合った。古布を三枚抱えている。先の月に貸したぶんだ。
「わざわざか」
「畑の帰りだ」
布は洗ってあった。返す義理は無い。返さなくても誰の帳にも付かない。
押しつけるように渡してくる。
「あんたんとこの子が下りてったぞ」
「今しがただ」
「あれは坂を上がる用が増えて喜んでる」
ユークは布を抱え直した。
「そうか」
「桶だけで上がるのと、書くもんがあって上がるのとじゃ足の速さが違う。……そんだけだ」
オドルはそれ以上言わずに下りていった。
喜んでいるとは本人の口から聞いていない。村から見えている形が一つ、今日こちらへ届いた。
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日の落ちる前に一回りした。
坑口ではグランの板へ掌を当てた。半拍は今日も戻らない。三月のあいだ縮んでいないままだ。掌で計るものは掌より細かくは分けられない。
槽ではモルトが底にいた。枡の目盛りは昨日と同じ高さで止まっている。
シルクスの糸は曲がりで切れている。その先へ張る手はある。張った先を読む者がいない。
門の上のフェズは坂を眺めていた。向きを作らせる手は、こちらが自分で塞いだままにしてある。
ルーメの布は今日も掛かったままだ。下の日は百を越えた。越えたと書ける紙は、この砦の外に一枚もない。
配るぶんは今日も全部へ回っている。回した量を書き留めた紙は一枚も無い。
どれも坂の下までしか届かない。黒淵は南の道を二日入った先にある。届く先の外で起きていることは、今日も一つもこちらへ入ってこなかった。
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その晩、町からの荷に一通が挟まっていた。
ミレアが火の前で封を切った。
「本院です。二通目です」
「様式掛か」
「はい」
彼女は最後まで読んでから、同じところへ目を戻した。
「うちの書き方が、他の土地へ配られはじめたそうです」
「例としてか」
「記入例として、とあります」
「どこへだ」
ミレアは紙を灯へ寄せた。
「書いてありません」
「幾つだ」
「数もありません」
配った先の名も枚数も入っていない。入っているのは、配りはじめたという一行だけだった。
「二通目までひと月半か」
「ひと月半です。うちが下ろしたのは町の役所で、そこから上へ上がるのは月に二度ですので」
「途中で止まらなかったんだな」
「止まりませんでした」
止まっている一枚は今日も動いていない。動いた紙のほうは、こちらの手を離れてから速い。
空いた欄は二つのまま出ていった。
その二つを、これからどこかの誰かが自分の土地の紙の上で見ることになる。




