第151話 寸法の内側へ
問いの下は朝になっても白いままだった。
ミレアは昨夜の紙を同じ向きで卓へ戻した。頭に一行あって、その下に何も無い。
ユークは湯を一口飲んでから椅子を引いた。
ミレアは筆を置いてから顔を上げた。
「一つ思いつきました」
「言え」
「五つ目へ零と入れます」
「届けの数か」
「はい。うちは届けを出しておりません。出していないぶんの数は零です。嘘にはなりません」
「数としては合ってるな」
「合っております。空欄も一つ減ります」
ユークは罫だけの見本を引き寄せて五つ目の枠を指で囲った。枠は横に長い。数を入れても半分以上余る。
「空いてる欄には、まだ分からないと読む余地がある」
「あります」
「零には無い。無いと読む」
ミレアの筆が止まった。
「門を通った者が一人もいないと読まれます」
「二年半、毎日誰か通ってる」
「通っております」
「通ってるものを無いと書いたら、そのあとに出す紙は全部その上へ載る」
零は数だ。数になったものは、次に繰る者が確かめずに使う。
「取り下げます」
「控えへは入れとけ」
「入れます。試して捨てたものが残っておりませんと、来年また同じところで一日使いますので」
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ミレアは物差しを出して見本へ当てた。当てるのは三度目だった。
外の余白は四分ある。裁ち代はそこへ入る。
「罫の内側はどれだけある」
「字の丈の二つぶんです」
「数を入れて余るぶんは」
「一行です。小さく書けば一行入ります」
「入れたものは裁たれるか」
「裁たれません。罫の内側は中身です」
「読まれるか」
「分かりません」
彼女は物差しを置いた。
「綴じることと読むことは別の手ですので」
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昼前に糸が震えた。
上がってきたのは村の桶ではなかった。オドルが一人で坂を来た。手ぶらではない。畳んだ紙を懐から出して土間の卓へ置く。
紐の跡が四本ついていた。
「うちの紙だ」
「お渡しした写しですね」
「柱に吊るしてあるのとは別のだ。これは俺が持っとった」
彼は畳み目を開いて三つ目の欄を指で押さえた。
「ここが空いてる」
「空いております」
「坂のことか」
ミレアはユークのほうを見なかった。訊かれたことにだけ答える。
「はい。この坂です。道帳に載っておりません」
「載せる筋は」
「村の普請として村の紙へ入れば、村の道として上がる筋があると伺っております」
「上がるのか」
「筋はございます。載るかどうかを決めるのは別の先です」
オドルは指を離さなかった。
「うちが書く」
ユークは口を開きかけて閉じた。
先の月に同じ手を一度断っている。断った理由は、村に灰環の坂を書かせることになるからだった。今日それを口に出せば、出した者が決めたことになる。
「あんたに言われて来たんじゃねえぞ」
オドルはこちらを見ずに言った。
「分かってる」
「うちの桶は毎日この坂を上がる。冬は凍って春は流れる。去年は二度、うちの若えのが直しに来た。あんたに断りも入れずにな」
「来てたな」
「来てた。直した日はうちの帳にも入ってねえ。どこの帳にも入ってねえ」
彼は指を離した。
「うちの者が毎日通ってうちの者が直してる道が、どの紙にも無え。それが気に入らねえだけだ」
ミレアが筆を取った。
「書けば手間が増えます」
「増えるだろうな」
「一度書きますと毎年書きます。普請の紙は年ごとに出すものですので」
「出す」
「直した日と出た人数を控える形になります。控えるのは村の書役です」
「書役はうちのだ。紙もうちのだ」
ミレアは筆を置いた。
「もう一つございます」
「言え」
「道帳へ載りますと、その坂は村の道になります」
オドルが初めてユークのほうを見た。
ユークは何も言わなかった。
「あんたはどう思う」
「言わない」
「なんでだ」
「うちが言えば、うちが決めたことになる」
オドルは鼻から息を出した。
「そういうとこは変わらんな」
彼は紙を畳み直して懐へ入れた。上から掌で押さえる。
「うちの者が通る道だ。うちの道で構わねえ」
止めろと言われたら止めると村へは通してある。やると言われた日に条件を付ければ、通したほうの言葉が軽くなる。ユークは坂を下りる背へ一つも足さなかった。
控えに一行入った。
〈来訪。村。普請の紙のこと。こちらからは頼まず〉
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午後に見本をもう一度出した。
三つ目は動くかもしれない。動いたとしても来年の紙だ。
「五つ目は」
「村では埋まりません」
「門はうちのだからな」
「はい。届けを出せるのは門を持っている側です。村が出せば村の門の数になります」
「うちが出せば」
「今月から出せば来月には数になります。……先の月と同じ話です」
訊いて回るところから始まる。名が外の紙へ載って困る者はいないかと一人ずつ当たれば、載る前に足のほうが減る。用のある者ほど先に減る。
「半分だな」
「半分です」
ミレアは五つ目の枠へ指を置いた。
「……半分は残ります」
そして半分のほうも、今の紙には届かない。役所へ下ろした一枚はもう手を離れている。空欄の並んだ見本は棚のどこかにあって、こちらから伸ばせる手は一本も無い。
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日が落ちてから昨夜の紙を戻した。
問いの下はまだ白い。
「欄の名は変えられるか」
「変えられません。名を変えれば様式を変えたことになります。うちにその手はございません」
「名は触らない。中を上下に使う」
ユークは一つ目の枠へ横線を一本引いた。上が広く下が狭い。
「上に数を入れる。下へ一行だけ入れる」
「何を入れますか」
「どこから取ったかだ」
ミレアの筆が止まった。止まってから動いた。
一つ目の下の行へ〈槽の帳〉と入る。二つ目は〈うちの見取り〉。四つ目は〈村〉。
「三つ目は」
「今は下も空きます。取る先がございませんので」
「五つ目は」
「〈町の役所の届け〉と入れられます。上の数だけが空きます」
「取ってきてねえのに書けるのか」
「取る先は書けます。取ってきていないだけですので」
空欄が二つ並ぶ。下の行が空いているほうと、名の入っているほうだ。
「並べれば分かるな」
「取る先を持っている欄と、持っていない欄は分かれます」
ユークは横線の下の一行をしばらく見ていた。
「これ、十一字と同じだな」
「同じです。……字は書きません。どちらの欄に下の行があるかで分かれます」
〈取る先なし〉と〈届け出さず〉。分けたかったものは初めから分けてあった。落ちたのは分け方ではなく、置いた場所のほうだ。
「戻ったわけじゃねえぞ」
「戻りません。あの一枚の耳はもう籠です。……次に書く紙の話です」
「これは裁たれない」
「裁たれません。丈の内側にありますので、束にするときは中身と同じに扱われます」
「読むかどうかは向こうだ」
「向こうです」
この形を票の様式にする手は灰環に無い。決めるのは本院の様式掛で、そこへ物を言う筋をこの砦は持っていない。
できるのは、次にこの砦が誰かの様式へ字を入れるとき、この形で入れることだけだ。
「次はいつ来る」
「分かりません」
ミレアは白かった行の下へ書き入れた。
〈欄の名は変えない。欄の中を上下に割る。下の行へ取る先を書く。取る先の無い欄は下も空ける〉
その下にもう一行入った。
〈先に出た一枚には効かない〉
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夜のうちに表を一度回った。
坑口の板へ掌を置いた。戻る位置は動いていない。動かなくなってから三月になる。
槽の枡は昨日より指の幅ぶん嵩が増えていた。底にいる一体は今日も浚っている。
糸は曲がりで終わっている。オドルの下りた足も、そこから先はこちらへ入らなかった。
フェズは門の柱の上にいた。坂を見ているだけだ。向きを作る手は禁じたままにしてある。
柱の根方の布は今日も上げなかった。布の下の日数はまた一つ伸びている。上げれば光る。光った先をどこへ写すかを、こちらはまだ決めていない。
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月が替わって三日目の朝に桶が上がってきた。
リクは水を置いてから受付台へ回った。線の下へ一行足す。今日は点だった。
筆を置いてから、頁を前へ繰りはじめた。
「なあ、ユークさん」
「なんですか」
「これ、一月ぶんだよな」
線を引いてからひと月が過ぎている。
「一月です」
リクは頁を押さえたまま指を動かさなかった。
一月ぶんの行が線の下に並んでいる。並んだものを上から読んだ者は、この砦にまだ一人もいない。




