第150話 決めた者はいない
ユークは灯を卓の中ほどへ戻した。
「見つからなかったら、そのときに考える」
「控えには入れません」
「入れなくていい」
ミレアは四つを重ねずに置いたまま筆を洗いに立った。束と束のあいだは指二本ずつ空いている。朝までこの形にしておくつもりらしかった。
番は左から順に振ってある。四つとも、こちらが起こした事ではない。
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朝は一つ目から当たった。
綴じたものの写しと、六行の返しを並べる。
「刃を落としたのは誰だ」
「一人ではありません」
ミレアは六行の二行目へ指を置いた。
「丈を測る手があります。束を押さえる手があります。刃を落とす手があります。落ちた端を籠へ入れる手もあります」
「一人でまとめてやってるってことはねえのか」
「あるかもしれません。伺う筋がありませんので、何人の手か分かりません」
「訊く紙は出せるか」
「出せます。ですが伺うのは名になります」
名を訊く紙は、名を探している紙になる。
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「四分だったな」
「四分です。向こうの束から落ちたぶんは、端を見るまで測れません。分かっているのは、うちの控えのその四分の中に字があったことだけです」
ユークは椅子を引いて立った。
棚から罫だけの見本を三枚抜き、裏紙を七枚足して十枚にした。卓の隅へ寄せて端を揃える。
「何をなさいますか」
「やってみる」
一枚目の罫の外へ字を入れた。書いたのは十一字ではない。今日の日付と、自分の名だ。
十枚を束にして下へ板を敷いた。上には出納の綴りを一冊置く。押さえの代わりだった。
小刀は水場から持ってきた。
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刃は一度で通らなかった。二度目で通った。
落ちた端は十枚ぶんが重なったまま卓へ残った。幅は指の腹ほどだ。
ユークは束のほうを先に見た。十枚とも同じ丈になっている。
次に落ちた端を取り上げた。
自分の名の下半分が細い紙の上にあった。上半分は束のほうに残っている。
「読めますか」
「読めん」
書いたのは自分だ。何を書いたかも覚えている。それでも落ちた端の字は字に見えなかった。
落とすまでのあいだ、こちらの目は一度も罫の外を見ていない。見ていたのは端の線だけだった。
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ミレアは端を受け取って表と裏を返した。
「二度目で通りました」
「一度目は逃げた」
「向こうは一度で落とします。板があって押さえがあって刃が据えてあります。……手が慣れています」
「慣れた手ほど見ないな」
「見ません。見れば遅くなります」
彼女は端を卓の隅へ置いた。
「これを月末に籠ごと出します。先の月の籠はもう出ております」
ユークは切った束を戻した。書いた名はもう半分だ。この束は明日には反故になる。向こうの束は棚にある。
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二つ目は値だった。
控えの三行と、荷の頁から写した数を並べる。人が二十三。枠木が五度。等級の付くのが二割方。
「読んだのは三人でしたね」
「宿場と替え銭と荷受けだ」
「三人とも近い名を言いました。書いてはおりません」
「書いてないな」
「書いたのはうちです。名を伏せると決めたのもうちです」
ミレアはそこで一度止まった。
「伏せた場所が埋まると決めた方は、この三行のどこにもおられません」
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値を付けた卓も同じところにいる。
帳場は穴ごとの採れ高を持っている。値を付けるのに要るからだ。並べていちばん近いものを引いた。引いた手は南の道を二日入ったことがない。
「行った者はいるか」
「一人もおりません」
「掘る向きを変えてる側は」
「あちらは行っておられます」
黒淵の採集権者は自分の穴にいる。値が上がったので木を入れた。木の代は先に払ってある。払ったぶんを取り返すために良いところから掘る。
「あれは間違いか」
「あの方の帳面では合っております」
「来年は」
「来年の話です」
三年前の東の穴はひと季かけた。今度はひと月だ。急がせたのは値で、値を動かしたのは名で、名を出したのは近いという言い方だった。
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三つ目は宛先だった。
「書きかけの一枚だな」
「はい。行の頭で止まっていると伺いました」
「起こした者は」
「様式が起こさせております。一枚目が出れば次が立つ形です。人が起こすかどうかを決める紙ではありません」
「決めずに立つのか」
「立ちます。止めるほうにだけ手が要ります」
「止めたのは」
「止めてはおられません。書ける名がなかった、と伺っております」
書けないものを書けば、書いた者が名を作ったことになる。作った名は誰の名でもない。あの下働きは筆を置いた。置いたほうが正しい。
「置いた手は別の紙へ移ったんだったな」
「掛も替わっております」
ユークはそれ以上たどらなかった。この一枚の先は先の晩に一度たどっている。
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四つ目は監督院の三行だった。
ユークは受け先の行だけを指の腹で押さえて、上と下を隠した。残ったのは掛の名だ。人の名の入る幅は初めから取ってない。
「これを立てた者は」
「存じません」
「あの人を外す一行はどこにある」
ミレアは三行を上から順に指でなぞった。なぞり終えてから指を離す。
「ございません」
「一つもか」
「一つもございません。書いてあるのは受け先だけです」
受け先を決めれば、受けない者が決まる。受けない者を書いた行はどこにもない。書かずに決まったものは、消す先も持っていない。
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昼前に一度表へ出た。
坑口では板越しに半拍待った。返りは昨日と同じところで来る。
シルクスは糸を張り直していない。張る先が無いからだ。門の外の一体は今日もいない。
柱の根方の布はそのままにした。上げれば光る。光る先を紙にする手を、こちらはまだ出していない。
線の下は、今日も点が一つで足りた。
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土間へ戻ると四つはそのままだった。
ユークは端から順に指を置いた。
「書いた者は決めてない。名を伏せると決めただけだ」
「はい」
「読んだ者は書いてない。近いと言っただけだ」
「言っただけです」
「値を付けた者は行ってない。数を並べただけだ」
「並べただけです」
「裁った者は読んでない。丈を揃えただけだ」
「揃えただけです」
「回す先を決めた者は人を外してない。掛を決めただけだ」
「掛だけです」
「止まってる一枚は誰も止めてない」
「書ける名がなかっただけです」
卓の上に手が六つ並んだ。六つは持ち場の数で、人の数ではない。どれも自分の持ち場のことをしている。持ち場の先まで見た手は一つもない。
この六つのどこにも、間違えた手は無い。悪意のある手も一つも無い。それでも罫の外の十一字は籠へ落ち、黒淵では良いところから先に掘られ、一枚は行の頭で止まっている。
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ユークは椅子の背へ体を預けた。
「探してたのは、間違えた奴だ」
「はい」
「いないんだ」
言ってからしばらく卓を見ていた。指はまだ四つ目の上にある。
「いないものには、返す先がない」
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ミレアは今日のぶんを控えへ入れようとして、筆を持ったまま止まった。
「行が立ちません」
「どこがだ」
「知った日は書けます。知った先も書けます。三つ目が書けません」
三つ目はいつも、こちらの側を入れる欄だった。何もしないと決めたと書いた日もある。確かめられるかどうかを書いた日もある。今日はどちらでもない。
「決めた者、と頭に付ければどうだ」
「付けられます。付けたあとに入れる字がございません」
「不明じゃいけねえのか」
「不明と書けば、いつか分かるものになります。次に繰る者が探しに行きます」
「無しは」
「無しと書けば、この件には手が一つも掛からなかったことになります。手は六つ掛かっております」
ユークは何も言わずに待った。
ミレアは三つ目の行を割った。割ったのは六つだった。手のしたことだけを一つずつ入れて、そのどれにも決めたとは書かなかった。
書き終えた頁は行が増えたぶん厚く見えた。答えは一つも入っていない。
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「返す先が要るのは、返せるものがあるときです」
「返せるものはあるか」
「ございません。落ちた端は月末に出ました。値は剥がせません。あの一枚は宛先の欄が埋まるまで動きません」
ミレアは番を振った四つを端から見た。
「返せないものは、次に出す紙の形にしか入りません」
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ユークは口の中で一度言いかけた。
言いかけたのは、この形を作った側をまとめて指す言葉だった。使えば六つの手が一つの塊になる。塊には手が無い。手の無いものは、次に何をどう変えればいいかも教えない。
言わずに置いた。
ミレアはそのあいだ筆を止めていた。訊きもしなかった。
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「紙を一枚出してくれ」
「どの紙でしょう」
「まだ何も無い紙だ」
ミレアは新しい一枚を出して、頭の一行を待つ手つきで筆を構えた。
「次に出す票のことを書く」
「今の票には効きません」
「効かない」
「一件目はもう配られはじめます」
「空欄二つのままだな」
「二つのままです」
ユークは落ちた端を摘まんで木目の上へ置き直した。
「耳には書かない」
「はい」
「寸法の内側でやる。内側で分けられるものを探す」
ミレアの筆が動いた。頭に入ったのは短い問いだった。
〈罫の内側で分けられるものは何か〉
その下は白いままになった。
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「今日のうちに出るか」
「出ないと思います。出なかったことも書いておきます」
ミレアは切った端を控えへ挟みかけて、挟まずに卓の隅へ戻した。
「これは綴じられません」
「うちの棚なら綴じられるだろう」
「綴じれば、うちの棚では耳が中身になります。うちの棚に並べる先はございませんので」
「向こうの棚とは丈が違うだけだな」
「丈だけです」
丈だけで、十一字はもう戻らない。
空いている欄は二つある。片方には取ってくる先がどこにもない。もう片方は、どこかにあるのかもしれなかった。
そのどこかを、この砦は持っていない。




