第149話 宛先のない一枚
ミレアが棚から抜いたのは古いほうの綴り三冊だった。
卓へ積んで頁を繰る。繰りながら紙を一枚ずつ抜いて脇へ寄せていく。抜くのは外から来た紙だけだった。
ユークは向かいの椅子を引いた。
「何を出してる」
「宛名です」
「訊く先が無いんだろう」
「ありません。ですから訊かずに数えられるものから数えます。うちへ来た紙の宛先は、うちの棚にございます」
昨日出した紙は頭の一行から先へ一字も進まなかった。今朝の紙には別の一行が入っている。うちを呼ぶときに外は何と書いてきたか、とある。
---
抜き終わったのは二十八枚だった。
監督院から来たもの。町の役所から来たもの。本院からのもの。荷の運び手が置いていった受けの控えまで混じっている。
ミレアは卓の上で二つに分けた。分ける線は一本だけだった。
「人のお名前の入っているものと、入っていないものです」
入っていないほうが厚くなった。
「何枚ある」
「入っているのが四枚です。残りの二十四枚は、宛先が灰環前砦とだけございます」
「四枚は」
「三枚は監督院の同じ方からです。もう一枚は町の役所の書役の方から。どれも人の側が先に名乗った紙です」
「刷ってあるほうは」
「様式で刷ってある紙に人のお名前が入っていたことは、二年半で一度もございません」
ミレアは一枚を裏返して罫の上のほうを指した。宛先の欄は行の頭にある。幅は名を三つ並べても余るほどあった。
---
「こっちから出したのは」
「ほとんど人のお名前で出しております」
「受け手を決めておかないと動かないからだったな」
「決まらない紙は誰の卓にも載りません。ですから名を書いて出してまいりました」
「向こうがこっちを呼ぶときは」
「呼ぶ名を持っていません」
台帳のあの欄は今日も埋まっていない。空いている欄からは名が取れない。
「こっちから申し出る形はどうだ。宛先はこの砦で結構です、と一枚出す」
「出せます。出せば、宛先の欄をこちらが決めたことになります」
「決めるのは受ける側か」
「受ける側です。差し上げるものではありませんので、差し出せば返されます」
「返す先はあるのか」
「灰環前砦です」
名の要らないところへだけ、この砦の名は通る。
---
昼前に槽の脇へ回った。
筵は昨日のうちに敷いた。庇の下は狭いので半分は外へ出る。出たぶんは縁へ石を並べて押さえた。石は夜のうちに二つずれていた。押さえ直しても、雨の当たる側は帳面に載る前に減る。
寝かせるほうの枡は、十三日ぶんで底から指四本ほどまで来ていた。次に採りに来るまで、まだ四十七日ある。
モルトは底にいる。浚うのを止める手はどこにもないので、明日も同じだけ上がってくる。
坑口へ回って板へ掌を置いた。返りは昨日と同じだけ遅れて来た。教えるのは足元の沈みだけだ。
朝に村の桶が上がって、線の下へ点が一つ増えていた。門の外へ出た一体は昨日もいない。
糸は今日も曲がりまでしか届かない。院の棚がどの建物にあるのかを、この砦の誰も知らない。
---
門の外で車の輪が止まった。土間の影はもう長くなっている。
ドーランは空樽と塩と油を土間の隅へ下ろした。下ろし終えてから笠を脱ぐ。
「今日は俺のほうから一つある」
「役所か」
「役所じゃねえ。順を待つ土間だ」
彼は卓へ着かずに框へ腰を掛けた。笠は膝へ置いた。
「訊いたんじゃねえぞ」
「訊いていないのか」
「向こうが勝手に喋った。若えのが年嵩のに愚痴ってた。宛先の書けねえ紙で往生したってな」
ミレアが筆を取った。
「町の役所の方ですか」
「書役だ。樽の話をした奴とは別のだ。俺は樽の順を待ってただけだぞ」
---
「去年の秋に院から町へ一枚下りたんだと。灰環の管理者の名を教えろってやつだ」
「うちの名を」
「あんたの名じゃねえ。台帳に載ってる名だ」
「載っていない」
「町も同じことを書いて返した。載ってねえもんは書けねえからな」
ユークは框の男のほうへ向き直った。
「返した先はどうなった」
「止まってる。書きかけの一枚が、そのまま綴じ込んであるらしい」
「誰が止めた」
「誰も止めてねえ。宛先の欄が埋まらねえだけだ」
---
「その紙は何の紙だ」
「そこまでは知らねえよ。若えのが言ってたのは、様式の順で当人へ一度出すことになってる紙だってことだけだ」
「受けたと返す紙か」
「そんなとこだろ。中身の話は一言も出てこなかったな。出てきたのは欄の話だけだ」
起こしたのは前の掛の下働きだと聞いた、とも言った。名は出ない。歳も出ない。順のとおりに起こして順のとおりに止まった手が一つあるだけだった。
---
ドーランは膝へ置いた笠を回した。
「銭の動かねえ話を運ぶのは、これで二度目だ。癖にはしねえぞ」
「そうか」
「俺が運ぶのは荷だ。荷には受けと渡しの控えが残る。……口で運んだもんには、それが無え」
彼は立って輪のほうへ出た。
「南は今日は無えよ」
「無いのか」
「木も人も先の月のままだ。……良かったとは思わねえがな。要るぶんはもう入ってる」
坂を下る音が曲がりで切れた。
---
ミレアは控えへ入れる前に三つへ割った。
伺った話。伺った先。こちらで確かめられるかどうか。
「確かめられません」
「一つもか」
「繰る先がございません。町の役所へ伺えば、伺った先で灰環が院の紙を探したことになります」
そこはもう何度も同じところで止まっている。
「ただ、朝に並べたものとは合います」
「宛名か」
「はい。人の名でこちらを呼ぶ紙が二年半で一枚もないのは、呼ぶ名が台帳にないからです。同じ理由で一枚が動かずにおります。合わないところがありません」
「合うだけだな」
「合うだけです。合うことと、そうであることは違います」
---
ユークは卓の木目を見ていた。
中腹の石のところであの一枚のことを聞いた晩から、何度か考えた。考えるときには必ず誰かが立っていた。握っている手。回さないと決めた掛。名を伏せて出した差出。
立っていた者は一人もいなかった。
「握られてたほうが楽だったな」
「楽ですか」
「相手がいる。手も要るし返す先もある。……どっちも無い」
「悪意で止まっている紙より、こちらのほうが動きません」
ミレアは寄せた二十八枚の上へ掌を置いた。
「動かす理由を持つ方が、どこにもいませんので」
---
止めた者には止めた理由がない。書けなかっただけだ。
書けなかった手はもう別の紙を書いている。掛は替わり、替わった先の者はあの一枚を起こしていない。起こした手が離れ、受けた手は中身を知らない。棚の紙は今日も同じ厚みで挟まっている。
「その者は院にいるか」
「分かりません。伺う筋もありません」
「訊いても出てこないな」
「出てまいりません。名の要る問いですので」
---
「票を返した日に空欄の話をしたな」
「いたしました」
「埋めた欄は動かせない。空いてる欄は動く」
「そう仰いました」
「動いたのは欄じゃなかった」
空けたのは自分だ。台帳の欄を埋めれば管理者の名が入り、名が入れば押さえの話がその下へ続く。この欄のために書いた紙は一度も通らなかった。それが向きまで揃えて卓へ置かれた日に、まだ埋めないと答えた。それきり変えていない。
その欄が空いているせいで、顔も知らない誰かが一枚書きかけたまま筆を置いた。
「載れば動きます」
「載れば検分が回るぞ」
「回ります」
どちらを取るかという形の問いではなかった。取ったぶんの代価はどちらもこちらが払う。払うと決める手が今日はどこにも見当たらない。
「載せるかどうかは誰が決める」
「分かりません」
訊いた側も答える側も、決める者の座っている場所を知らない。
---
外が暗くなってから、ユークは卓の物を端へ寄せた。
「出してくれ」
「どれをでしょう」
「動いていないものが分かる紙だ」
ミレアは棚から順に出した。
綴じたものの写し。罫の外は写しでも白いままだ。
控えの三行が二組。訂正しないと決めた日のものと、他所が損をするのを見ていると書いた日のもの。
来た日と居た場所と用の無かったことだけを入れた行と、今日伺ったぶんの行。
最後に監督院の三行の紙が出た。灰環の名で入る紙の受け先が下記の掛だとある。下記には部署の名しかない。
「四つだ」
「四つです」
どれにも手は動いている。刃を落とした手。値を書き入れた手。宛先の欄で止まった手。掛の名を刷った手。
「明日から一つずつ当たる」
「何をお探しになりますか」
ユークは灯を紙のほうへ寄せた。
「決めた奴だ」
ミレアは四つの脇へ順に番を振った。振り終えてから筆が止まった。
「先に一つ伺ってよろしいですか」
「言え」
「見つからなかったときは、どういたしますか」




