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第148話 聴いてきた男

 朝いちばんに槽の脇へ回った。


 モルトが浚い上げた泥は枡へ寄せてある。板で組んだ枠が三つだ。浚ったばかりのものは水を含んでいるから、まず一つ目で切ってから二つ目へ移して寝かせる。一つ目は明日の浚いのために空けておく。三つ目は庇の外で、底板が二枚抜けている。入れたぶんは水と一緒に下へ落ちる。


 寝かせておけるのは、つまり二つ目の一つきりだ。


 次に採りに来るのは二月先だと、先の日に決まった。


 ミレアが受付台から出納の綴りを持ってきた。


「先の月は十一で、その前は十三でした」


「二月で二十四か」


「枡一つに入るのは十二までです」


 入らない。


「一つ足すか」


「板が要ります。落ちた枠の端はもう鋸を入れてしまいました」


 筵へ広げて置く手はある。置いたところへ雨が来れば流れる。流れたぶんは目方に入らない。目方に入らないものは、こちらの帳面では採れなかったのと同じ顔をする。


 浚うのは止められない。止めれば槽の底が舞い、舞えば下の井戸が白くなる。


「今日は書くだけです」


「書いておけ」


「入らないと書きます。入らないことにこちらで手を打っていない、とも書きます」


---


 曲がりの糸へ足が入ったのは、その手を洗っている最中だった。


 刻が早い。荷を積んだ車の音は付いていない。上がってくる足は一つだけだった。


 門から入ってきたのは同じ男だった。籠も袋も提げていない。


 脛に乾いた泥が膝の上まで撥ねていた。ここの泥ではない。色が赤に寄っている。


 ユークは井戸端から土間の前まで出た。


「十日と言ったな」


「十二日かかった」


 グニェルは受付台の前で止まった。手は台へ置かない。


「湯を出します」


「いらねえ」


 ユークは框の手前で足を止めた。


「泥は」


「今日は採らねえ。銭の話でもねえ」


---


「行ってきた」


 ユークは布で手を拭き終えてから顔を上げた。


「そうか」


「聴いた」


 ミレアが筆を取りかけて、そのまま置いた。


「……だが言わねえ」


 誰も何も言わなかった。表で鶏の声が二度した。


「訊かねえんだな」


「訊かない」


「訊きゃ喋ると思わねえのか」


「喋るかもしれん。だが訊いたことは残る」


「残るか」


「あんたが次に向こうの卓で何か言うときに付いてくる。灰環に訊かれたから言った、になる」


 グニェルは鼻から息を抜いた。


「そこは変わらねえな」


---


「十二日のうち、向こうにいたのは四日だ」


「長いな」


「一日目は歩いた。二日目は寄場で待った。差配は忙しい。三日目に半刻もらった」


「四日目は」


「下の飯屋にいた。掘る奴は飯屋で喋る。差配の話より長え」


 乾いた泥を脛から爪で剝がして、剝がしたぶんを門のほうへ払った。


「聴くだけなら向こうに用はねえ。用がねえと座らせてもらえねえから、泥を一袋買った」


「買ったのか」


「買った。俺の銭だ。ここの頁には入れねえ」


---


「勘は消えたか」


 男はしばらく答えなかった。


「消えねえ」


「行っても消えないか」


「行きゃ消えると思ってた。見たものは見た。聴いたものは聴いた。……繋ぐのは俺の頭だ。頭の中は去年から勘のままだ」


「勘のままなら」


「名は出せねえ」


 ユークは板の間の柱へ背を寄せた。


「南の穴を見ろ」


 グニェルは坂の下のほうへ顎を振った。


「誰も行かねえまま値が付いた。行ってねえ口が回って付いた値だ」


「付いたな」


「俺が今ここで名を言や、逆から同じことになる。行った男の口だ。行ってねえ口より重い」


「重いほうがどうなる」


「早く回る。重いのは戻せねえ」


 ミレアは控えの表紙に手を載せている。開きもせず、しまいもしなかった。


「重いものは、繰り返されるうちに誰の口から出たか落ちます」


「落ちるだろうな」


「落ちても値は残ります」


---


 まだ見ていない穴の気配が立った。


 名は出ていない。どこの坑で、何が良すぎるのかも出ていない。こちらが中まで見た穴は二つだ。二つのままで、今日も増えていない。


 増えていないものを書く欄は綴りにない。書けるとすれば、坑の男が上がってきて何も言わずに帰ったという一行だけになる。


---


 グニェルは受付台から半歩離れた。


「俺が行ったのはあんたのせいだ」


「うちが何かしたか」


「あんたの紙だ」


 彼は台の向こうの綴りの背へ目をやった。


「二年、俺は確かめてから言うと決めてた。確かめるってのは、人に訊いて回ることだった」


「違ったか」


「違った。訊いて回るのは紙が回るのと同じだ。口から口へ渡って、渡ったぶんだけ厚くなる。南の穴に値を付けたのはその回り方だ」


「それで足を使ったのか」


「使った。……あんたの紙が俺に一つ教えた。行ってから言え、じゃねえ。言う前に行け、だ」


 ユークは眉を寄せた。


「同じに聞こえる」


「聞こえるだろうよ」


 男は台の縁を指の背で一度叩いた。


「順の話じゃねえ。言うつもりのねえうちに行っとけってことだ。言うつもりで行きゃ、言うために聴く」


「言うために聴くと」


「聴いた中から、言えるやつだけ持って帰る。残りは置いてくる。置いてきたほうが本当かもしれねえのにな」


「持って帰ったか」


「持って帰らなかった。だから言わねえ」


---


 ミレアが控えを開いた。


「どこまで入れてよろしいですか」


「上がってきたことは書け。銭は動いてねえ。泥も動いてねえ」


「伺った中身は」


「伺ってねえだろ」


「伺っておりません」


「なら書くこともねえ」


 彼女は日付を書き、そのあとを短くした。


 〈来訪。ハウル坑区。持ち込み無し。精算無し。用向きは口頭。中身は控えず〉


 書かなかったことを書いた行が一つ増えた。何を書かなかったのかは、その行のどこにも入っていない。


---


 グニェルは門のほうへ二歩下がってから止まった。


「そういや一つある」


「何だ」


「院に、あんたのとこの名で止まってる紙があるらしいな」


 ユークは受付台のほうへ二歩寄った。


「どこで聞いた」


「寄場だ。うちの差配が町の書役と飲む。書役の口から出た」


「中身は」


「知らねえ。止まってるとだけ聞いた」


 ミレアの筆はさっきから止まっている。台へ置いた音がしたきり、拾い直していない。


 彼は思い出す顔で顎を掻いた。


「妙な言い方をしてた。誰も止めてねえのに止まってるとよ」


「誰も止めていない、か」


「そう言ってた。俺は坑の話しか分からねえ。そのまま持ってきただけだ」


---


「次はいつになる」


「二月ぶん採りに来る。枡は空けとけ」


「寝かせておける枡は一つきりだ。二月ぶんは入らん」


「なら筵でも敷いとけ。濡れてても目方は目方だ」


「流れたぶんはどうする」


「流れりゃ無えよ。無えもんは書けねえだろ」


 彼は笠の紐を締めた。土間へは、先の日と同じく足を入れなかった。


 門を出て坂へ入る音が、しばらくしてから曲がりの糸へ届いた。


---


 十二日ぶんで、あの男の足が糸に入ったのは二度きりだ。


 上がってきた足と、下りていった足。そのあいだにあの男が歩いた道も、半刻もらった寄場の卓も、下の飯屋の長い口も、こちらの持っているどの仕掛けにも触れていない。触れないところで聴かれたものが、触れないまま持ち帰られて、この受付台の前で止まった。


 止めたのは本人だ。こちらの紙が止めさせたわけでもない。


 モルトを槽から上げさせたのは昼前だった。十二日ぶんが入って、寝かせるほうの枡はもう底が見えない。次に来るまで、あと四十八日ある。


---


 土間へ戻ると、ミレアが新しい紙を一枚出していた。


 頭に短く一行だけ入っている。院で止まっている紙について、と書いてある。


「繰れるか」


「繰れません。院の綴りはこちらの手の届く棚にありません」


「照会は」


「出せます。ですが出す先が、その紙の止まっている掛です」


 ユークは椅子の背へ手を掛けたまま座らなかった。


「止まっている紙のことを訊く紙を、止まっているのと同じ掛へ出すわけだ」


「同じ掛です。そして内規で、こちらの紙はあの方へは回りません」


「回る先は」


「回る先を決めるのも、あちらです」


---


 卓の上には、この砦から出て戻ってこないものが並んでいる。


 耳を裁たれた十一字。誰も行かない穴に付いた値。宛先の書かれない一枚。


 どれも動いていない。動いていないのに、話のほうだけが坂を上がる口に乗って回ってくる。


 布の下の光も、坑口の窪みの半拍も、今日は数のどこにも入らない。屋根の上から見える道の先で誰が何を掘っているかも同じだ。入るのは、坂を上がってきた足が置いていったものだけになる。


 止まっていると言われた紙は、十日前も今日も同じ場所にある。動かすには誰かが宛先を書く。


 書く手を持っている者の名を、この砦はまだ一つも知らない。


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