第147話 届かないところ
その日の見回りは日の出のすぐあとだった。
グランが口の内側を一周して戻ってくる。ユークは脇の板へ掌を置いた。返るのは形ではない。掘っていい線と掘ってはいけない線の区別と、重さの偏りだけだ。
今朝来たのは偏りのほうだった。
右へ寄っている。
届くまでの間は縮んでいない。東から帰った日と同じだけ空く。半拍。
---
口の右には枠が二つ立っている。二年半前にユークが組んだものだ。落ちてくる土を止めるだけの木で、上の一本を二本の足が受けている。
手前の足の根を見た。噛ませた石が半分外へ出ている。地面のほうが下がっていた。親指の丈ほどだ。
詰所から槌と楔を運んだ。
石を押し戻して楔を打つ。手前は締まった。
奥の足へ回ったとき、グランが窪みから出てきて木の下へ角を寄せた。
木を伝って返りが来た。偏りが動いている。
半拍。
その半拍のうちに上の一本が滑った。
---
ユークは手を引いていた。引けたのは、埃のほうを目が先に見たからだ。
木は足の外側へ落ちて、土が拳ひとつぶん崩れた。槌が下敷きになった。
口の下には誰もいない。
埃が引くまで少しかかった。
落ちた木は足の外へ横たわっている。裂けたのは端の一尺ほどで、繊維が斜めに走って白く見えた。掛けた手に来たのは持ち上がる重さだ。二年半前に一人で担いで据えた木だった。
槌は柄のほうだけが土から出ている。頭は埋まっていた。
崩れた土は拳ひとつぶんで、それ以上は落ちてこない。上が乾いていたからだ。雨のあとなら同じ落ち方はしなかった。
グランは窪みの縁で止まっている。角はまだ、木のあった高さへ向いていた。
二年半、この一体の返りより先にこちらの目が動いた日は一度もなかった。
---
音でミレアが出てきた。土間の履きのまま坂の土を踏んでいる。
「どこか切りましたか」
「切ってない」
「木は」
「端が裂けた」
ミレアは落ちた木の裂け口を見てから、口の右の高さへ目を上げた。
「グランは教えたのですか」
「教えた。届いたのが半拍あとだ」
「いつもと同じ半拍ですか」
「同じだ」
ミレアは少し黙った。
「同じなら、今日は何が違ったのでしょう」
ユークは土から槌を掘り出した。柄に泥が付いている。
「こっちが下にいた」
---
外にいたのは二十一日だ。戻ってから三月になる。出ていた日数の四倍を過ぎている。
ミレアが控えの手を止めた。
「戻る見当は付きますか」
「付かない」
遅れが日数で戻るものなら、とうに戻っている。道のせいなのか歳のせいなのか、並べて確かめる物がこちらには一つもない。
---
裂けた端は鋸で落とした。挽くのに手間がかかった。乾いた木は目が詰まっていて、刃が二度逃げた。
木は短くなり、短くなったぶん足を内へ寄せて組み直した。寄せたぶんだけ受ける幅が狭くなる。狭くなったことは、次に土が動くまで分からない。
ミレアは袖を括って石を選びに行った。使えるのは角の残っている石だけだ。丸い石は噛まない。選び直した石を三つ運んできて、使ったのは二つだった。
グランは窪みへ戻した。重い石を持たせるのは東から戻ってから止めてある。今日もそれは変えなかった。持たせれば早い。早いぶんは、この一体の背中が払う。
終わったころには昼を過ぎていた。
---
ミレアが定規を持って戻ってきた。組み直した桁の下へ当てて、目盛りを読まずにそのまま押さえている。
「昨日の丈がありません」
「無いなら測っても仕方ないだろう」
「今日のは残ります」
彼女は日付を先に書いた。数はそのあとに入れた。
「次に落ちたときは、今日と比べられます」
「今日は何とも比べられんな」
「比べられません。比べられないぶんは、そう書いておきます」
---
いつもリクが坂を上がってくるのは夕方だ。今日は昼を回ったところで下の曲がりの糸が震えた。
リクは受付台より先に枠のほうへ寄った。切り落とした端が二本、足元に転がったままになっている。
「これ、折れたのか」
ユークは楔を拾う手を止めた。
「間に合いませんでした」
「なんでだよ」
「こちらが下にいたからです」
リクは裂け口へ指を当てて、途中で引っ込めた。棘が立っている。
「この端、貰っていいか」
「使い道はありますか」
「ねえ」
「持っていってください」
リクは受付台へ回って筆を取った。点を一つ。書くのはそれだけだった。
端を桶へ放り込んで坂を駆け下りる。桶の中で木が二度鳴った。
---
ユークは打たれた点を見た。
欄は四つある。日付。どの一体。どれだけ離れたか。返りがどう変わったか。
グランは今日門の外へ出ていない。離れた先は口の内側までだ。返りは昨日と同じ半拍だった。四つのどれも動いていない。
今日落ちた木は、この行のどこにも入らない。
入る欄を足すことはできる。足せば、足す前の行が全部その欄の空いた行になる。線を引いたのは先の月で、行はもう十を越えた。
ユークは筆を置いた。
木のことは日付順の綴りへ入れた。そちらには欄がない。あるのは日付だけだ。
---
日が傾いてから表を回った。
シルクスは坂の下の曲がりにいた。糸の張りは朝と同じで、直す手つきもしていない。拾うのは上がってくる足だ。下りていった足は、曲がりを過ぎたところで糸から外れる。
槽ではモルトが底にいた。晴れが続いて流れは細い。舞う前に浚わせてあるので水は静かだ。静かにしておける先は槽の縁までで、この一体を外へ連れ出せる日数は、昨夜の紙に並べてある。
フェズは詰所の屋根にいた。禁じたのはこちらで、禁じたぶんをまだ解いていない。屋根から見えるものに名を付けても、付けた名の入る欄が一つもない。
---
井戸端の柱の根方へ回った。
布へ手をかけて、今日は上げた。
細い光が来た。
落ちてはいない。布をかけた日から数えて百日を越えている。
光る先の壁は、まだ一度も写していない。写せば紙になる。紙になれば卓へ出る。
待たせたぶんは日数では済まない。百日前の脈と今日の脈を並べられるのは、百日前を写してあった場合だけだ。今日から写しはじめても、並ぶのは今日から先だけになる。
この一体に用が無いのではない。用のほうをこちらが出していない。
布を下ろした。
---
南では枠木が五度ぶん下りている。
こちらで落ちたのは一本だ。一本は今日のうちに組み直した。向こうの五度ぶんがどこの切羽へ入ったかは、糸も掌も一つも拾わない。
同じ日に同じ木が動いていて、こちらに入るのは坂を上がってくる口だけだ。
---
糸は朝にも一度震えていた。グニェルが泥を採りに上がった刻だ。
日暮れ前にもう一度震えた。坂に現れたのは同じ男だった。
精算は受付台で済ませる。済ませてから土間の卓へ着いて、湯が出るまで坑の話をしていく。二年ぶんそうだった。
今日は帯を肩へ回したままだった。
「泥は積んだ」
「目方は」
「いつもと同じだ。書いといてくれ」
帳簿は出さない。腰の袋は結んだままだった。
ミレアが筆を取った。
「払いはいかがしますか」
「次でいい」
「次は来月ですね」
「来月は上がらねえ」
ユークは何も訊かなかった。
「二月ぶん、次にまとめる」
「重いのですか」
「重かねえ。銭の話じゃねえよ」
グニェルは帯の留め金へ指を掛けて、外さずに離した。受付台へ手は置かない。土間へは一歩も入らなかった。
「十日ばかり留守にする」
行き先は言わない。こちらから訊けば、それがそのまま向こうの卓へ乗る。
「気をつけてくれ」
「気をつける用があるとは言ってねえぞ」
彼は笠を被り直して門を出た。
---
ミレアの控えに一行入った。
〈来訪。泥の引き渡し。払いは次月へ繰り越し。行き先は伺わず〉
坂を下りる足は下の曲がりで糸を一度揺らした。
揺れたのはそこまでだ。どこへ下りたかは、次に上がってくるまでこちらには入らない。




