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第146話 値を守る

 ドーランが包みを解いたのは、ミレアが墨を磨り終える前だった。


 土間の卓に出たのは帳面が二冊で、片方は表紙の角が丸くなっている。空の車は門の外へ着けたままだった。荷は下で全部降ろしてきたのだという。


「先に言っとく。これは俺の頁だ。人から聞いた話は一行も入ってねえ」


 ミレアは墨を置いて筆を取った。


「四日でしたね」


「次に上がるときだと言った。次が四日だっただけだ」


---


「人だ。先の月からラスティアの寄場を出て南へ下った手が、俺の数えたぶんで二十三人いる」


「数えられたのですか」


「寄場の前は毎朝通る。人を拾ってから積みに来る車は決まってる。乗った頭は見りゃ分かる」


「二十三人」


「うちが雇うのは多い日で四人だ」


 ミレアは筆を止めずに数を入れた。


「その方たちがどこへ入ったかは」


「見てねえ。南へ下ったところまでだ」


---


「木も下りてる」


 ドーランは新しいほうの帳面を開いた。


「今月、南へ下った枠木が五度だ」


「先の月は」


「三度だ。その前も三度」


「五度のうちは」


「二度はうちが運んだ。あとの三度は町の外の車だ」


「手が足りなかったのですか」


「足りてる。俺の車が空いてる日によそへ出してる」


 待てば運べるものを待たずに出している。


「縄と油も一緒に下りた。枠木だけなら普請だ。油が付けば灯になる」


「灯の要るところは」


「奥だ」


---


「上がってくるほうは」


「嵩は変わらねえ」


 言いながら顔は上げなかった。


「先の月と同じだ。帳場の紙には同じ数しか出ねえ」


「数は同じなのですね」


「数はな。中身が違う」


 彼は指を二本立てた。


「等級の付くのが二割方増えてる。下のが半分に減った。合わせりゃ同じ嵩だ」


「見て分かるものですか」


「積みゃ分かる。丈で分けて積むからな。俺は二年、南から来た車の後ろで順を待ってる」


「帳場は気づいていないのですか」


「気づいてる奴はいる。紙にゃ出ねえがな」


「言わないのですね」


「言って得する奴がいねえ。買うほうは上の等級が増えて喜んでる。売るほうは値が上がって喜んでる」


 ユークは頁の数字を上から下へ追った。


「向きを変えてるな」


「変えてる。良いところへ先に寄せてる」


「悪いところは」


「残す。残しゃ来年の手間になるが、来年の値は来年の話だ」


---


 ドーランは古いほうの帳面を引き寄せた。頁の端が茶に焼けている。


「三年前だ。東の穴が同じことをした」


「同じか」


「枠木がまとめて入った。次の月から出る物の等級が上へ寄った」


「どれだけかかった」


「ひと季だ」


 彼は開いた頁をそのまま閉じた。


「今度はひと月だ」


 筆の音が止まった。


「急いでいます」


「急いでる。値が先に動いたからな。動いた値は放っときゃ下りる」


---


 値を付けた卓が読んだのは、こちらの出した二枚目の紙だった。


 あの紙の名を書かなかったほうには、整えたあとに採れ高が上がり、そこから落ちるまでが入っている。値になったのは上がるところだけだ。


 値の付いた穴が、三年前と同じ手つきを始めている。


「うちの紙には、その先まで書いてあります」


「先か」


「上がって、落ちるまでです。読まれたのは上がるところまででした」


「落ちるところは」


「今は誰にも使えません。掘っているあいだは上がりますので」


 書いた側の手は、どの行にも入っていない。


---


 止める手は一つしかない。あれは違うと外へ言うことだ。


 その先は先の月に一度たどった。行き先を訊かれ、そこまで通す道が東の穴の若い書役の欄を連れて出る。たどり直しても同じところで止まる。


 言わずに止める形も探した。無い。


 変わったのは木のほうだ。枠木はもう入っている。代は先に払ってあり、払った側は払ったぶんを掘って取り返す。こちらの言葉は払った銭より軽い。


---


「一つ言っとくぞ」


 ドーランは帳面を包み直していた。


「俺は黒淵に荷を入れてねえ。あそこが止まっても俺の銭は一枚も減らねえ」


「そうか」


「……それでも言いに来た」


 紐の結び目を締め直した。


「十年見てりゃ順が分かる。値が先だ。木が次だ。人はいちばん後ろにいる」


「人が動くのは」


「一年か二年あとだ。動くころには、動かした紙のことは誰も覚えてねえ」


 彼は包みを抱えて土間を出た。門の外で車の輪が一度鳴った。


---


 ミレアが綴りの後ろから控えを引き出した。


 入れたのは三行だった。


 知った日。知った先。こちらは何もしないと決めたこと。


 人の数も枠木の度数も等級の割も書かない。書けばこちらの数になる。こちらの数はこちらでしか確かめられない。


 先の月に入れた三行は、こちらが訂正しないと決めたことだった。今日の三行は他所が損をするのを見ていると書いてある。


 形は同じだ。この一枚を繰る目は、今のところこの砦の中にしかない。


---


「向こうへ届く紙はあるか」


「宛先がありません。あちらの採集権者のお名前をこちらは持っていません」


「荷方の口は」


「あの方はどなたの使いでもないと仰いました。使いでない方に言付ければ、あの方の口から出たことになります」


「名を出さずに置く形は」


「置けます。置いた紙は誰の言い分でもありませんので、読んだ方が誰かの言い分にします」


 それを先の月にやった。やった結果が南の穴に付いた値だった。


---


 日が落ちる前に表を一度回った。


 糸は最後の曲がりから先へ延びていない。入るのは足が上がってくることだけだ。南へ向かう枝は一本も張っていない。


 フェズは坂の中ほどまで下りて戻ってきた。足の向きを作る手は使わないと決めてある。見て戻るだけだ。


 ルーメの布はそのままにした。


---


 ザグレスが来たのは翌日の昼過ぎだった。


 門の柱の外側へ背を預けて中へは入らない。荷も供もない。


「木の話になってるぞ」


「宿場でか」


「枠木を五度も買ったのはどこの穴だ、ってな。値の話より木の話のほうが早く回る。木は目に見えるからな」


「そうか」


「行くのか」


「行かない」


 ザグレスは鼻で息をした。


「早えな。もう決めてやがる」


「行っても直せない」


「直せねえのは前から分かってるだろ。それで済むならあんたはもう寝てる」


 ユークは息を一つ入れた。


「行けば、灰環が確かめに行ったことになる」


「それは先の月に聞いた」


「聞いたな」


「同じ理由を二度言う奴は、たいてい別のを持ってる」


 すぐには答えが出なかった。


「行って、何もできずに帰るとする」


「帰るだろうな」


「そのあとに残るのは一行だ。灰環は行った。それでも南の穴は止まらなかった」


「残るな」


「その一行が立てば、次に詰まった土地は、うちへ言う前にやめる」


 ザグレスは腕をほどいた。


「行かねえのは正しい」


 草鞋の先が土を擦った。


「正しいのがいちばん腹が立つんだよな」


 坂を下りる前に一度だけ振り返った。


「訊いて回ってる。まだ誰も行ってねえ」


「一人もか」


「一人もだ。……そのうち出るぞ。値の付いた穴は見に行く奴が出る」


「見に行けば」


「見た奴の言うことになる。見てねえ奴の紙より強えぞ」


 門の内側の土に、今日も彼の草鞋の跡は付いていない。


---


 その晩、卓の上に紙を一枚出した。


 南の道を下って二日。向こうで一日。戻りに二日。


 五日になる。


 五日のあいだ枝は固定になる。固定にすれば下の井戸は先の月と同じ順で白くなる。板を落とすのは村で、落とせば戻すのに二日要る。


 槽はモルトが三日で限りだ。四日目からは浚う量より舞う量のほうが増える。


 連れ出せるのは二体。


 そこまで書いてから筆が止まった。


 書いていたのは行く算段だった。


 先の月にも同じ並べ方をした。あのときは二行目で止めた。今度は五日目まで並んでいる。


---


 連れ出せる二体のうち、一体は布の下にいる。


 もう一体は坑口の窪みにいる。今日は板へ掌を当てなかった。当てれば昨日と同じだけ待つことになる。


 うちの坑口なら間に合う。どこに何があるかを二年半ぶん覚えていて、覚えているぶんで遅れを埋めている。


 知らない坑口では、何を覚えていないかもこちらには分からない。


 算段はそこで止まった。止めたのは日数ではなかった。


---


 紙を裏返して受付台の綴りを開いた。


 線の下の今日の行には点が一つ入っている。今日は坂を下りた一体がいない。


 外へ出れば字が入る。字を入れるために出せる先は、下の曲がりまでだ。


 その先で木が入り、向きが変わっていく。


 うちの坑口では、明日も見回りが一度ある。

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