第143話 採られた
票を下ろして三十七日目だった。
糸が震えたのは昼を回ってからで、上がってきたのは荷を一つ背負った若い男だった。ラスティアの役所の下働きだと名乗った。
「町役所からお預かりしたものを、灰環前砦へお届けします」
背負い籠から出たのは封が一つ。表に字が三行ある。
差出は王領台帳方 本院 様式掛。宛先は町役所気付とあって、その下に灰環前砦とある。人の名はどこにも入っていない。
「受けはどちらへ」
「うちの帳面へお願いします」
男は門の内へは入らなかった。下ろす荷がまだ三軒ぶん残っていると言って、坂の途中で背負い直す音だけを残していった。
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ミレアは封をすぐには切らなかった。
受付台へ置いて帳面を開き、先に刻を書いた。
「切った刻と、切った者と、居合わせた者を控えます」
「中も見ないうちにか」
「見てからでは、見たあとの手になります」
ユークは柱へ背を預けた。
小刀の背が紙をすべって封が二つに割れた。
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中身は三枚だった。
一枚目は本院の紙。二枚目は綴じたものの写し。三枚目は薄い紙で、罫だけが刷ってあって字はどこにも入っていない。
ミレアは一枚目を先に読んだ。読み上げはせず指で行を追い、三行目のあたりで一度止まってから頭へ戻った。
「採られました」
ユークは柱から背を離した。
「様式にか」
「様式に立ちます。仮の名が取れて番号が付きました」
「番号」
「三枚目の頭に刷ってあるのがそれです。これから使う紙の見本として、うちの手元へ一枚ということかと」
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「うちの票は」
「一件目です。綴じの一番上に入っています」
行の長さは一件目で決まると三日いた人は言った。次に書く者はそれを見て書き、その次の者も見る。承知のうえで引き受けた。
引き受けたものが返ってきた。
「早くないか」
「早いです。本院へ上がったのはまだ一度のはずですので」
「一度で決まったのか」
「決まったというより、並べる先の一件が無かったのだと思います」
遡らない紙には去年が無い。去年が無ければ比べる先も無い。比べる先の無いものを決めるのに刻はかからなかった。
「うちは載るのか」
「載りません。票は載せるかどうかを決める前に付ける紙です」
「一件目に使われてもか」
「使われても載りません」
紙のほうだけが先に立った。監督院の台帳にあるこの穴の欄は今日も空いている。
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ミレアが二枚目を台の中ほどへ広げた。
罫の並びは出したときと同じだった。水。地形。道。村の戸数。出入りの人数。
三つに字が入っている。二つが空いている。
空いた二つはそのままの形で空いていた。埋められてもいないし線で潰されてもいない。
「そこは動いていません」
「動かなかったな」
ユークは三つ目の欄の右へ目をやった。
ミレアの指がそこで止まった。
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「ありません」
「何が」
「罫の外です」
余白は写しにもある。紙は紙の端まである。字だけが無い。
三つ目の脇も五つ目の脇も白い。
ユークは写しを自分の側へ回した。日の差すほうへ紙を傾け、それから戻した。傾けたところで無いものは出てこない。裏も返した。裏は前と同じで何も書いていない。
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ミレアは棚から綴りを出した。
綴りへ入れたほうの写しは、畳んだ折り目のまま挟まっている。下ろした日から一度も開いていない。
開いて、台の上へ二枚を並べた。
こちらの三つ目の脇には〈取る先なし〉とある。五つ目の脇には〈届け出さず〉とある。合わせて十一字。筆の入りも上がりも出した日のままだった。
「書き忘れではありません」
「書いたな」
「書きました。書いてから写しを取っていますので、控えのほうが後です。後の紙に入っているものは前の紙にも入っています」
ミレアは二枚の位置をもう一度そろえた。罫の目が上下でぴたりと重なり、脇の余白の幅も同じだけあった。
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ミレアは一枚目へ戻った。
本院の紙は事務の紙だった。良し悪しはどこにも書いていない。採ると書いてあるだけで、良いとも足りるとも書いていない。三日いた人の紙と同じ手つきだった。
末の一行だけが、ほかより字を詰めて足してある。
〈空欄二件、事由不明。記入者へ照会の要あり〉
ユークは一度だけそれを目で追った。
「事由は書いた」
「書きました」
「罫の外にな」
「罫の外にです」
事由が不明だと書いた者は、事由の書いてある十一字を読んでいない。読んだうえで足りないと思ったのなら足りないと書く。足りないとは書いていない。
無いものは読めない。
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ユークは台の縁へ手を置いた。声は上げなかった。上げる先が卓の上にない。
「落ちたのか、落としたのか」
ミレアは答えなかった。
先の月、同じ形の問いをこちらから出したことがある。書けなかったのか書かなかったのか。それを分ける手が要ると言って、分ける手を自分たちで作った。
作った手が、返ってきた紙には無い。
空いた欄が二つ並んでいる。並びの違いは残らなかった。
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「一つだけ確かめておきます」
「何を」
「これは写しです。写した者が罫の外まで写さなかっただけかもしれません。それなら綴じられた元にはあります」
「元にあれば」
「うちの十一字は綴じられています。次に繰る者が読みます」
「無ければ」
「無ければ、どこかで落ちました」
二つは同じ紙の上では見分けが付かない。見分けるには元を見るしかなく、元は本院の棚にある。
こちらの手は町の役所の受付までしか届かない。そこから先はもう届いた話しか入ってこない。
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夕方まで紙は動かなかった。
ユークは表へ出た。
糸をどれだけ伸ばしたところで、伝わるのは震えだけだ。誰かが通ったことは分かる。通った者が何を提げていたかは分からない。提げていた紙のどの行が読まれたかは、なおさら分からない。
字は震えにならない。
町までは一日。町から本院まではその何倍もある。そのあいだのどこかで十一字が紙から離れた。離れた場所へは、糸のほうが先に届かない。
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リクが桶を提げて上がってきたのは日が傾いてからだった。
ユークは表から戻って受付台の内側に立った。リクは台の紙を見て一度だけ足を止めた。
「なんか来たのか」
「来ました」
「読んだのか」
「読みました」
「なんて書いてあった」
「うちの書き方で通る、と書いてありました」
「じゃあ良かったんだな」
ユークは答えるまでに間を置いた。
「そこは分かりません」
リクは首を傾げてから線の下の行へ筆を下ろした。点を一つ打って、それで終わりだった。
「これ、誰が読むんだ」
「うちが読みます」
「よそのやつは読まねえのか」
「読ませるために書いてはいません」
「じゃあ、読まれたら困るのか」
「困りません。読まれても読まれなくても、同じことを書きます」
リクは筆を戻して桶を提げ直した。門の外まで足音が続いた。
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灯を入れてから、ミレアは三枚を並べ直した。
「調べます」
「どこをだ」
「分かりません」
ミレアは帳面へ〈調べる〉とだけ書いた。どこをとは書かなかった。
「本院へは訊けません。うちの欄は空のままですので、訊く筋がありません。町の役所は束にして回しただけです。回した先で何をするかは、回した者が知っているとは限りません」
「訊く先が無いのか」
「無いのではありません。どこにあるかを、こちらが知らないだけです」
落としたのなら落とした者がいる。落ちたのなら誰もいない。
どちらであるかを決めるのにまず要るのは、相手がいるかどうかだった。
三枚のうち二枚は今日から灰環の綴りへ入る。残りの一枚には罫だけがある。次に誰かがこれを埋めるとき、手本になるのは一番上に綴じられた一件だった。
その一件の欄が二つ空いている。
なぜ空いているのかは、もうどこにも書いていない。




