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第142話 読んだ者が来る

 ザグレスの置いていった一段は控えの端へ入った。


 日と、聞いた先と、値が動いたと聞いた日。動いた値そのものは書かない。こちらで確かめられない数は、書いた途端に数になる。


 朝の糸が震えたのは翌日だった。


 刻が早い。村の桶が上がってくる前で、坑の者が下りる時分でもない。


 ミレアは門の帳面を開いて筆を持ったまま待った。曲がりの先で誰が来るかは糸に入らない。分かるのは坂を上がる足が一つあることだけだ。


---


 上がってきた男は荷を負っていなかった。歳は四十の手前に見える。脚絆も草鞋も乾いた白い土で汚れていた。この坂の土は黒い。


 ユークが門の内から声を掛けた。


「湯はどうする」


「いらねえ」


 男は門の内へ二歩だけ入って止まった。


「ご用件を伺います」


「用ってほどのもんじゃねえ」


「控えますので、なんでも結構です」


 男は帳面へ目をやった。覗き込みはしなかった。


「紙のことだ」


---


「どちらの紙でしょう」


「あんたのとこの紙だ」


 ユークが台の内から土間へ出た。


「うちの紙なら二枚ある」


「二つ立ってると書いてあるほうだ。……書いたのはあんたか」


「うちが書いた」


「一人でか」


「筆を持ったのが誰でも、出したのはうちの紙だ」


 男は頷いた。怒鳴る顔ではない。詰める顔でもなかった。


---


「お読みになりましたか」


「俺は字が拾えねえ」


 ミレアの筆は止まりかけて止まらなかった。


「では、どこで」


「宿の卓で読み上げてる奴がいた。三度聞いた」


「三度とも同じ方ですか」


「別の奴だ。三度とも同じところで止まる」


「どこで止まりますか」


「二つ立ってる、ってところだ。そこで卓が黙る。黙ってから南の話になる」


 書いた行のどこが効いたのかを、書いた側は決められない。決めているのは読み上げる者の息の継ぎ方だった。


---


 男のほうが先に口を開いた。


「南の穴に値が付いたのは聞いてるか」


「聞いている」


「あれ、うちの穴だ」


「荷方か」


「荷方の下だ。門の外で受けてラスティアまで運ぶ」


「使いで上がったのか」


「誰の使いでもねえ。今日は割り当てを一つ空けた」


 空けたぶんは別の誰かが運ぶ。運んだぶんの銭はその誰かへ行く。上がってくる前にそこまでは済ませてきた足だった。


---


「先の月から、うちの門の外に人が立つようになった」


「見に来る者か」


「中へは入れねえから外にいる。立って、帰って、また来る」


「何をしていく」


「何もしねえ。数えてる」


「何を数える」


「出る車の数と、積んでる樽の数と、押してる人の数だ。門の内は数えられねえから、外へ出てくるぶんだけ数えてく」


 外から数えられるものだけが数になる。数えられないものはそこにあっても紙へ入らない。門の外に立つ者はそれを知っていて、知っているから外に立っている。


---


「困っているのですか」


「困っちゃいねえ。銭は先の月と同じだ。運ぶ口が増えたぶん割り当ては増えた」


「増えたなら、悪い話ではないのでは」


「得も損も、まだ出てねえ」


「まだですか」


「値は先に動く。荷は後から動く。後がどう動くかは俺の見る場所じゃねえ」


 男は土間へ足の裏を置き直した。


「悪いと言いに来たんじゃねえ。良かったとも言ってねえ」


「では、何を」


「うちの穴のことが、うちの知らねえところで決まってた。それだけ確かめに来た」


---


 ユークは受付台の前へ立った。


「うちが書いた。名は伏せた」


「伏せたのか」


「伏せた。伏せた場所を、うちじゃない誰かが埋めた」


「誰だ」


「言わない」


「知ってんのか」


「言えることはここまでだ」


 男はしばらく顔を見ていた。


「言えねえってのは、知ってるってことだろう」


「そう読まれるのは承知している」


---


 言い抜けの形はいくつも作れた。


 名は一字も書いていない。書いたのは立っている穴が二つあるということだけだ。埋めたのはこちらではない。読んだ者が読んだだけだ。


 どれも本当で、並べれば言い抜けになる。並べた紙は院にいた頃に何枚も読んだ。読む側にいたときは一枚残らず見えていた。


---


「あんた、南の道は」


「下りたことがない」


「じゃあ、うちの穴は見てねえんだな」


「見ていない」


「見てねえ穴のことを書いたのか」


「うちが書いたのは名のない一つだ」


「名のねえのがうちになった」


「なった」


 違うと言うのは一言で済む。一言で済まないのはその先だ。


 黙れば認めたことになる。認めたと読まれるのは構わない。構わないと決めたから名を伏せた。ここで一言足せば、伏せた意味のほうが先に消える。


 ユークは口を閉じた。閉じたことは相手に見えている。


---


 男はそこで引いた。


「そうか」


「それだけか」


「それだけだ。俺は使いじゃねえ。頼まれてもいねえ」


 男は門の外へ半歩戻った。


「頼めるものも持ってねえしな」


 文句を言いに来た者には返す言葉がある。頼みに来た者には断る言葉がある。この男はどちらでもなかった。


---


 ミレアが帳面へ筆を下ろした。


「日と、ご用件と、こちらのお返しした言葉を控えます」


「名前は」


「控えません」


「書いといてくれ。俺が来たってのを」


「来られたことは控えます。お名前は控えません」


「なんでだ」


「名の入った紙はあとまで残ります。残って困るのは、たいてい書かれた側です」


 男は帳面から目を離した。


「うちの帳場は名から書くぞ。誰が受けて誰が運んだかを先に書く。そのほうが早えからだ」


「早いです」


 ミレアは帳面の端を指で押さえた。


「早い紙は、あとでも早く動きます」


---


 控えに入ったのは一行だった。


 〈来訪。黒淵の荷方の者。確認のみ。返答=伏せた場所を埋めたのはこちらではない〉


 名は控えない。代わりに穴の名が入った。名乗らなかった男の在所だけが、こちらの帳面には残る。


 決めたばかりの型がそのまま使われた。控えるのは日と用件とこちらが何と答えたかの三つで、今日は三つとも埋まっている。


 埋まった一行を上から読み返すと、こちらが答えた側に見える。答えた側に見えるということは、訊かれる側になったということだった。


---


 筆の音がしているあいだ、男は土間に立っていた。急かしはしなかった。


 二年半、灰環の紙で損をするのは灰環だった。名を伏せれば伏せたぶんこちらが弱くなり、書かなければ書かないぶんこちらが疑われた。払う先はいつも同じところにあった。


 今日坂を上がってきたのは、払わされている側の人間だった。


 こちらは一度も行っていない。行ったことのない土地のことが、こちらの紙の中では二行で済んでいる。


---


 男は門を出る前に足を止めた。


 ユークが井戸のほうへ顎を向けた。


「見ていくか」


「いらねえ」


 井戸は男の立っているところから見えている。桶の縁が濡れて、水面に朝の光が入っていた。


「一つだけ訊く」


「訊け」


「あんたのとこの井戸は、白くならねえのか」


 当てこすりの顔ではなかった。訊く前に言葉を選んだ顔でもない。訊きたいことをそのまま訊いた顔だった。


「うちのは白くならない」


「ならねえのか」


「下の村のは白くなる。先の月に白くした。うちが枝を止めたからだ」


「戻せるのか」


「二日で戻した。止めたのもうちで、戻したのもうちだ」


 男は井戸のほうを見なかった。


「うちのは白い」


 それだけ言って坂を下りていった。


---


 その日、門の外へ出た一体はいなかった。


 線の下の行は点が一つで済む。書くのはリクで、夕方には坂を上がってくる。今日のぶんは今日のうちに入る。


 シルクスは糸を張ったまま動かない。今朝いちばんに震えた一本も、そのままにしてある。


 グランの板へ掌を当てた。返りは半拍ぶん遅い。東への往復から縮んでいない。


 ルーメには布が掛かったままだ。待たせた日数は数えてある。数えたところで待たせる理由は変わらない。


 フェズは屋根にいる。南の道は屋根から見えない。


 届く先の外で、値だけが動いている。


---


 訊かれたのは一つだった。答えも一つで済んだ。


 あの男は答えを持って帰るために訊いたのではない。自分のところが白いことはもう知っている。知っている者が、白くない側へ一度だけ訊いてみただけだ。


 こちらの下の村も白くなる。白くするのはこちらの手で、戻すのもこちらの手だ。止める枝と戻す枝は同じ盤の上にある。


 あの男の穴には、その盤が無い。値を動かした紙のほうだけが、こちらの手から出ていった。


 男が訊かなかったことのほうが多い。訊かなかったことは控えに残らない。


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