第141話 返事はまだ来ない
票を下ろして半月になる。
返事は来ない。
ミレアは受付台の綴りを開いて日付の並びを上から数えた。
「十五日です」
「本院へは一度上がったか」
「上がっていればの話です。束が揃わなければ次へ回ります」
「揃わなければ、もう半月か」
「もう半月です」
写しの一部は綴りへ入れてある。もう一部は村にある。出したほうの紙が今どこにあるのかは、こちらの紙をどれだけ繰っても出てこない。
「来ないかもしれない」
「来ないかもしれません」
彼女は言い直さなかった。
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糸が坂の下で震える数が増えたのは、票を下ろした三日後からだった。
シルクスの糸は最後の曲がりまでしか張っていない。震えれば人が上がってきたことは分かる。曲がりの手前で誰が誰と何を話したかは糸に入らない。
門の帳面の数は先の月の同じ時分の倍に近い。上がってくるのは村の者でも坑の者でもなかった。荷も持っていない。
用は同じだった。
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最初に来たのは宿場の使いだった。湯を出す前に用を言う。
「南の穴のことを訊きに来た」
「黒淵ですか」
「そう呼ぶらしいな。あんたのとこの紙に出てるだろう」
ミレアは控えへ伸ばしかけた手を戻した。
「あの紙に黒淵の名はありません」
「宿場じゃ出てることになってる」
ユークは土間へ降りた。
「うちが書いたのは、今も立っている穴が二つあるということだ。片方はここだ。もう片方の名は書いていない」
「書いてなくても、どこかは分かるんだろう」
「分からない」
男は湯呑を置いた。
「あんた、行ってねえのか」
「行っていない」
「一度もか」
「一度もない」
少し間が空いて、男が口の端を上げた。悪気のない顔だった。
「じゃあ、あの数字は何だ」
「うちの数字だ。井戸と槽と配った量は全部うちで見た」
「もう片方は」
「もう片方も見た。名を書かなかっただけだ」
「見たのは見たんだな」
「見た」
男はそれで得心した。湯呑は半分残したまま出ていった。
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「あの方は、黒淵を見たと聞いて帰りました」
「そう聞こえたな」
「違うと言えますか」
「言えない」
違うと言えば、では本当はどこかを訊かれる。そこへ辿り着く道筋は上へ出せない紙の中に一本しか通っていない。通せば、あの若い書役の欄がそのまま外へ出る。
行っていないと答えれば、二枚目は行っていない者の書いた紙になる。七つの数字は他所の紙から取ったので出どころが書けるが、二つのうち片方はこちらが見たと言うだけで立っている。見ていない者の見たという字は、読む側からは何も見ていないのと変わらない。
見たと答えれば、見た先が南の穴になる。
どちらも一言で済んで、どちらも取り消せない。
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「決めておきます」
「型か」
「型です。同じ問いに違う答えを返せば、返した先で並べられます」
ミレアは新しい頁の頭へ三つ書いた。
一つ、行っていないことは隠さない。訊かれたら行っていないと言う。
二つ、こちらの数字はこちらのもの。他所の穴のことは答えないと言う。
三つ、控えるのは日と用件と、こちらが何と答えたかの三つだけ。
「訊きに来た者の名は控えないのか」
「訊きません。訊けば、答えていただいた名を控えることになります。控えた名は、いつか誰かが繰ります」
「答えないと言うのは、黙るのと同じに聞こえるぞ」
「違います。黙るのは空けるのと同じです。空いていれば、読んだ者が埋めます」
ミレアは筆を硯の縁へ掛けた。
「答えられないと口で言えば、そこは埋まりません。埋まりはしませんが、聞いた側の顔は悪くなります」
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三人目に型を使った。
替え銭の店の若い者で、坂を上がってくるなり南の穴の等級を訊いた。ミレアが型のとおりに答えられないと言った。若い者は二度訊いてから帯を締め直した。
「答えねえってのが答えか」
「答えないと申し上げただけです」
「同じだろ」
男は笑いもせずに下りていった。
悪く思われるぶんは払うと決めて型にした。払うのはこちらだが、下で言われるのは南の穴のことだ。
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五日目に来たのは荷受けの帳場の使いだった。若くない。門を入ってすぐに湯を断った。
「見せていただけるものだけで結構です。井戸と、槽と、坂を見て帰ります」
「値を決めるのか」
「決めるのは帳場です。わたしは見てくるだけで」
「うちを見ても、南の穴の値は出ないぞ」
「出ます。並べますので」
使いは草鞋の紐を結び直してから顔を上げた。
「あちらの数は紙にしかありません。こちらは物があります。物のあるほうを先に見て、それから紙を読みます」
ユークは戸口の柱へ手を掛けたまま動かなかった。
見せると決めて出した紙だ。確かめに来る先をこちらにしたのもこちらだった。断る筋はどこにもない。
ミレアが案内に立った。井戸の水位と槽の底と坂の普請の跡まで見せて、綴りは表紙だけ見せて開かなかった。
帰り際に使いは坂の下へ目をやった。
「手が入っていますね」
「二年半かけた」
「南のは、ここまでではないでしょう」
「知らない」
「知らないのは承知しております。ですが、うちの帳場は比べます」
使いは腰を折ってから門を出た。
こちらの井戸が澄んでいるほど、誰も見ていない穴の値が動く。動かしているのは灰環の物差しで、物差しを外へ出したのは灰環だった。
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その日の夕方にリクが上がってきた。空の桶を足元へ置いてから受付台の前に立った。
線の下には行が十本並んでいた。
字の入っている日が四本。あとの六本は点が一つあるだけだ。
「ユークさん、点ばっかりだ」
ユークは受付台の内側から行の頭を指した。
「点も記録です」
「なんにも書いてねえのにか」
「その日は門の外へ出た一体がいないと書いてあります」
「そんなら書くことねえだろ」
「ありません。ですから点です」
リクは筆を置いて桶の柄を握った。出ていくとき戸口の柱へ肩が当たった。
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「四本とも同じ一体です」
ミレアが行の頭を上から下へ指でたどった。
「離れた先も同じです。曲がりまで。返りは四本とも遅いままです。縮んだ日はありません」
「ほかの四体は」
「一度も入っていません。門の外へ出ませんので」
数えようとしたのは、五体が毎日どれだけもらっているかだった。書いてある四本が拾っているのは、外へ出た一体の、離れた距離と返りだけだ。
書ける物を先に持っていない欄は、そこにあるものを取らない。三日いた人が置いていった票と、同じところで詰まっている。
「欄は直せます」
「直すか」
「直せば、この十日と並びません」
ミレアは頁を閉じない。
「直すなら、この十日を数え終えてからです」
「一月は置く」
数えはじめて十日で分かったのは、中身ではなかった。数えていない日のほうが、数えた日より多いということだけだ。
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灯を入れてからミレアが控えを繰った。
「十五日で十一人です」
「多いな」
「多いです。うち南の穴の名を口にした方が八人。三人は名を出さずに、あの紙のもう一つのほう、と仰いました」
「行った者はいたか」
「一人もいません。用件のところに残っています。どなたもあちらで聞いた話として仰いましたので」
訊きに来た者は誰も行っていない。訊かれたこちらも行っていない。
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日が落ちてから糸が一度震えた。
門の外の石にザグレスが腰を下ろしていた。煙草は耳へ挟んだままだ。
「上がってくる奴が増えたな」
「増えた」
「下はもっと増えてる。宿場の卓が二つ、南の穴の話で埋まってた」
「訊きに来る先はうちになった」
「そりゃそうだろう。名を出したのはあんただけだからな」
ザグレスは坂の下へ顎をしゃくった。
「一つ置いてく。値がもう一段上がった」
「いつだ」
「三日前だ。等級のほうも一つ動いたらしい」
「行った奴は出たのか」
「出ねえよ。先の月に訊いて回った顔ぶれから一人も増えてねえ」
彼は石から立ち上がった。
「穴を見て決めてるんじゃねえんだよ。紙を見て決めてる。紙のほうは、放っといても増える」
坂を下りる足音が曲がりで消えた。糸はそこまでしか張っていない。
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票の返事はまだ来ない。
来ないあいだも、こちらの出した紙のほうは休まずに働いている。
値を一段上げるのに上げた者の名は要らない。要るのは前の値と今の値だけだ。
綴りの写しは半月前から動いていない。次に動くのがどちらの紙かは、こちらでは決められない。




