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第140話 最初の空欄

 票を返す日を朝のうちに決めた。


 卓の端へ置いたままだった一枚を、ミレアが中央へ寄せる。罫の墨はまだ黒い。灰環の綴りに使う紙と違って角が擦れていない。


「明日ラスティアへ下ろします」


「役所か」


「町の役所へ出せば束にして回ります。本院へ上がるのは月に二度です」


「早いな」


「早くありません。こちらが遅らせられないだけです」


---


 三つ目の欄には道が入る。


 この坂は灰環が均した。均した日も出た人数も普請の紙に入っている。それでも欄が取ってくる先は道帳のほうで、道帳にこの坂は載っていない。


 五つ目は出入りの人数だった。門の帳面には日ごとの数がある。二年半ぶん揃っている。欄が取るのは届けの数で、灰環は届けをどこへも出していない。


 三日いた人はこの二つを空けたまま置いていった。取れるなら取れと言い、取れなければそのままで構わないとも言った。


「取れませんね」


「取れないな」


 ミレアは票の縁へ指を置いて、置いたまま動かさなかった。


---


「埋める手はあります」


「あるのか」


「道は村の紙から取れます。村の普請として書いていただければ、村の道として道帳へ上げる筋がございます」


「村に、うちの坂を書かせるのか」


「書かせます」


 言ってから彼女は口を閉じた。


「もう一つは」


「出入りは今月から届けを出せば、来月には数になります」


「出した数はどこへ行く」


「町の役所です。門を通った者の名と数が、毎月あちらの綴りへ入ります」


 坂を上がってくるのは村の者と坑の者と荷方だ。名が外の紙へ載って困る者はいないかと、一人ずつ訊いて回るところから始まる。訊いて回れば、載る前から足が減る。


---


 埋めれば五つとも埋まる。


 埋まった票が一件目として本院へ着く。空いたところがないので問いも付かない。採られる目はそのぶん上がる。


 ユークは紙を自分の側へ向けた。


 初めに綴じられたものがそのまま見本になるとあの人は言った。次に書く者はそれを見て書く。その次の者も見る。行の長さも一件目で決まる。


 五つとも埋まった見本が回れば、次の土地も五つとも埋めにかかる。取る先のないものをどこかから回してきて埋める。埋まった欄に問いは付かない。


「五つ埋めて通ったら、これだけ書けば足りるって見本になる」


「なります」


「配られるのはうちのやり方じゃない。うちの埋め方だ」


 ミレアは頷かなかった。頷く代わりに票の下の余白を見ていた。


---


「空ける」


「二つともですか」


「二つとも空ける」


「空いた票は弱くなります」


「なる」


「弱い一件目は採られません。採られなければ、あの紙は別のどなたかの型で作られます」


「作られるだろうな」


「作られた型に、空けてよい欄はないかもしれません」


 ユークは答えなかった。ミレアの言うとおりだった。


 断った損はよそが払うと、この卓で聞かされたばかりだ。今度は断るのではなく弱く出す。弱く出して採られなければ、遅れた年に落ちる土地は去年と同じ書き方で落ちる。


「賭けだ」


「賭けですね」


「外れたぶんをうちは払わない。それも承知で空ける」


---


「ただし空けっぱなしにはしない」


「書きますか」


「欄には書かない。脇に付ける」


 ユークは三つ目の右を指でなぞった。罫の外に指一本ぶんの余白がある。


「取る先がなかったのか、こっちが出さなかったのか。それだけ分ける」


「理由は」


「書かない。書けば書いた先が全部繋がる」


 ミレアは筆を取って、取ってから一度置いた。


「添えた紙は綴じないと、あの方は仰いました」


「言ってたな」


「これは添え紙ではありません。票そのものの余白です。票が綴じられれば一緒に綴じられます」


「読まれるか」


「読む者によります。……読まれなくても、消えません」


---


 三つ目の脇に〈取る先なし〉と入った。


 五つ目の脇に〈届け出さず〉と入った。


 合わせて十一字だ。二年半のうちの何一つも、そこには入っていない。


「隠したと読まれるか」


「読まれます。決めるのは読む者ですので」


「読まれるな」


「ですが、隠したと読んだ方は、なぜ二つで書き方が違うのかを先に訊きます」


 ミレアは筆を洗った。


「訊けば、片方はこちらの手が届かなかったのだと分かります。もう片方は、届いたのに出さなかったのだと分かります」


「分かったところで、どっちも空欄だ」


「空欄です。同じ空欄が二つ並んで、並びが違うと書いてあります」


---


 ユークは票を裏返した。裏には何もない。


「埋めた欄は動かせない」


「はい」


「空いてる欄は動く」


 ミレアの手が止まった。


「先の月にも同じことを仰いました」


「言った」


 あのときは監督院の台帳だった。埋めますかと訊かれて、欄がないならまだ埋めないと答えた。空けたのは自分の欄で、空けたぶん困るのも自分だけだった。


「前は、俺の欄だった。今度のは、俺のじゃない」


「他所の方が使う紙です」


「使う奴の手元に、うちが空けた跡が残る」


 書けなかったと分かる跡と、書かなかったと分かる跡が並んで残る。次に同じところで手の止まった者が、そこは空けてもよいのだと先に知る。


「弱い見本ですね」


「弱いな」


---


 昼前にミレアは写しを二部作った。


 一部は綴りへ入れた。もう一部は紐で括って別に置いた。


「村へ持っていきます」


「村の紙じゃない」


「四つ目に村の戸数が入っています。あれは村が言った数です」


「入ってるな」


「入れたものが外の紙のどこへ載ったかは、入れた側にも一枚あるべきです」


---


 昼を回ってから坂を下りた。


 井戸端の石は乾いている。桶の順を待つ列はなく、汲む音も止まっていた。板を上げてから水は元の量へ戻っている。


 オドルは畑の縁の日陰にいた。束を出すと、受け取る前に一度だけ坂の上へ目をやった。


「役所の紙か」


「役所の紙です。うちが書いて、明日下ろします」


「うちの数が入ってるのか」


「戸数が入っています。ほかは灰環の分です」


 オドルは紐をほどかなかった。畳んだまま懐の内へ入れて、上から一度掌で押さえた。


 同じ仕舞い方を前にも二度見ている。二度とも中身の話にはならなかった。


---


「もう一つ頼みがあります」


「言え」


「うちの帳面に欄を一つ増やします。書く手が要ります」


「あんたのとこには書く女がいるだろう」


「います。うちの者が書けば、うちの言い分になります」


 オドルは眉の間へ皺を寄せた。


「何を数える」


「うちの獣が、この穴からどれだけもらっているかです」


「毎日もらってるのか」


「毎日もらっています。二年半ずっとです」


「数えてなかったのか」


「数えていませんでした」


 畑の向こうで鍬の音が二度した。


「リクに頼めませんか」


「あれは字が下手だぞ」


「数と日付が読めれば足ります」


 オドルは坂のほうを向いたまま少し黙った。


「本人に訊け」


「訊きます」


「断ったら断ったで済ませろよ」


「済ませます」


---


 砦へ戻ると、ミレアが綴りの新しい一冊を開いていた。


 最後の頁の下は罫が入っていない。彼女はそこへ定規を当てて線を一本引き、左の端へ字を入れた。


「量は書きません」


「書けないな」


「測る物がありません。書けるのは日付と、どの一体かと、どれだけ離れたかと、返りがどう変わったかです」


 東の穴の若い書役が余白へ引いた線と同じ形だった。あちらは正式の様式の一番下へ引き、こちらは自分の綴りへ引いている。上へ出す紙に写す先がないところも同じだ。


 真似たわけではない。同じところで詰まった者は、だいたい同じ手つきになる。坑の男が二人、別の穴で誰にも聞かずに同じことを言ったのと同じだった。


---


 灯を入れる前に庭を回った。


 シルクスは坂の下の曲がりにいる。糸の張り直しは昨日と同じ刻だ。同じ刻に張り直すのに要るものまで同じかどうかは、糸を見ても分からない。


 モルトの舞わせる泥は元の見当のままだった。減らすのに何を使っているかは槽の外から見えない。


 グランは窪みにいる。板へ掌を当てると返りは半拍ぶん遅い。東へ二日の道を往復してから、遅いまま縮んでいない。


 ルーメには布が掛かったままだった。外にいたあいだ、この一体は一度も光らなかった。


 フェズは屋根の上にいる。日が落ちてから朝までのぶんは、誰も見ていない。


 五体とも毎日もらっている。もらった量を数えた者は二年半のあいだ一人もいない。


 止まったら困るものだけが、いつも数えられずにいた。


---


 リクが上がってきたのは日が坂の下へ落ちかけた時分だった。


 桶は提げていない。走ってきたらしく門の手前で膝に手をついた。


「じいさんが行けって」


「聞きましたか」


「書けって言われた。何を書くんだ」


 受付台へ綴りを開いて見せた。


「ここに線を引きました。左に日付を書きます。次にうちの獣の名前です」


「五ついるやつだろ」


「五体います。今日書くのは一つだけです」


「なんで一つなんだ」


「今日、門の外へ出たのが一つだけだからです」


「毎日来るのか」


「毎日でなくて構いません。上がる用のある日に、序でで足してください」


「書けねえ日は」


「空けておいてください。空けた日は点を一つ入れます。空けたことが分かるようにです」


「変な帳面だな」


「変です」


---


 リクは筆を握って手首の角度を直した。字は大きい。


 日付が入った。名が入った。どこまで行ったかを書くところで手が止まった。


「曲がりって、どう書く」


「曲がりでいいです」


「ほんとにいいのか」


「いいです。読む者は同じ坂を歩いています」


 最後の一つが残った。


「戻ってからどうだったかを書きます」


「どうだったんだ」


「遅い、と書いてください」


「あんたが言ったのを書くのか」


「そうです」


「それでいいのか」


 ユークは受付台の裏から古い綴りを一冊出した。ザグレスが村の書役に書かせた頁が挟んである。受け取った刻と、封が閉じたままだったことと、誰も中を見ていないこと。書いたのは見ていた者で、受け取った当人ではない。


「俺が書けば、俺の言い分です。あなたが書けば、聞いた者の記録になります」


「よく分かんねえ」


「今日は分からなくて構いません」


---


 リクは書き終えてから筆を置いた。


 置いてから、線の下の白いところを指でなぞった。


「なんで今まで数えてなかったんだ」


 ユークは答えなかった。


 答えは短い。短いぶん、口へ出せば言い訳の形になる。


 リクはしばらく待った。待っても何も来ないと分かると、手を一度振って坂を駆け下りていった。


 門の外まで足音を聞いた。糸が坂の下で一度震えて、それきり静かになった。


---


 灯を細くしてから、開いたままの綴りの前へ立った。


 一行ある。日付と、一体の名と、坂の下の曲がりと、遅いという字。


 その下には何もない。


 押さえを書く欄がないと、この砦は二年半、国の紙を責めてきた。責めていた側の帳面にも、毎日起きているのに欄のないものが一つあった。誰も隠していない。誰も嘘を書いていない。ただ、数えなかった。


 数えていないのはどちらか。片方だけを指すことはできなかった。


---


 卓の上では票が封に入るのを待っている。


 返事がいつ来るかは分からない。来ないかもしれない。空欄のある一件目を本院が採らなければ、紙は別の型で作られて、その型の欄は五つとも埋まっているかもしれない。


 黒淵に付いた値は剥がせない。灰環の名で出された照会が一件、誰が出したのかも分からないまま院の綴りにある。坂の中腹まで来た人は、もう上がってこない。東の穴は名乗らないと決めて、あの若い書役は叱られた。七つの村は戻らない。監督院の台帳にあるこの穴の欄は、今日も空いている。


 それでも綴りは今日一行厚くなった。


 書かれていないものは、無いのではない。まだ数えていないだけだ。


 線の下には、明日のぶんの空きが一つ空いている。

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