第139話 向こうが自分で気づく
六日置いた朝に糸が坂の下で二度震えた。
人がひとつで荷車はない。上ってくる速さは荷の日より遅かった。
門の外へ出ると革の帯を肩に回した男が最後の曲がりを上がってくるところだった。グニェルは月に一度この坂を上がる。鉱泥を採るのは昼までで終わり、精算はいつも受付台で済ませる。
今日は帳簿を先に出さなかった。
「採るのは後だ。先に一つ言うことがある」
「聞く」
「東の穴に、あんたとこの紙が入ってる」
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土間の卓に着くとグニェルは革の帯を膝へ下ろした。
「宿場で写しを買った奴が坑まで持ち込んだ。詰所じゃもう三度読まれてる」
ミレアが控えを開いた。
「読んだのは坑夫の方ですか」
「坑夫も読む。だが最初に止まったのは帳場のほうだ」
彼は指の腹で卓を一度撫でた。
「若いのが一人いるだろう。字の細かいのが」
「いる」
「あれが止まった。名のねえほうの数字を三度読み返して、それから去年の綴りを出したそうだ」
ユークは頷きだけを返した。
訊けば訊いたことが向こうの卓の話になる。こちらへ持ち込まれた分だけを聞いておくほかない。
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「自分で書いた数字は覚えてる」
グニェルは続けた。
「書役ってのはそういう生き物だ。よそから来た紙に自分の字の中身が並んでりゃ、目のほうが先に止まる」
「数字は削ってあります」
ミレアの声は低かった。
「場所の割れるところは全部落としました」
「落としても向こうにゃ分かる。落ちてるのは他所の者に要るところで、書いた本人に要るところじゃねえ」
卓の上が静かになった。
削ったぶんだけ当てはまる穴が増えて、南の穴に名が付いた。同じ削り方が、書いた本人のところでだけ逆へ働いた。
「繰ったんだろうな」
「繰った。去年からの分を全部だそうだ」
あの帳面の一番下には罫のない欄が一つ足してある。聞いた回数と日付と切羽の位置と聞いた者の名。量は書いていない。繰れば同じ字が並ぶ。並べば線が引ける。
証しにはならないと本人が言っていた。ならないものを、引いた本人が半年経たずに自分で繰った。
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「悪いほうの話が一つある」
グニェルは帯の留め金を弾いた。
「欄のことが商会の本店に知れた」
「誰が言った」
「誰も言ってねえ。先月の紙が一枚多かった。それだけだ」
欄を足せば行が増える。行が増えれば頁へ入りきらない。入りきらなければ紙を一枚足すことになる。足した一枚は様式のどこにも無い。
「叱られたか」
「叱られた。様式にねえ欄を勝手に引くなとよ」
「差配は」
「一緒に立たされた。あっちの帳面にも同じ線が入ってるからな」
「消したか」
「消してねえ」
ミレアが筆を置いた。
「……消さなかったことは、どこにも残りませんね」
「残らねえ」
叱られた記録のほうは残る。叱られてなお消さなかったことを書ける欄は、あの様式にない。書ける欄のないものは起きなかったのと同じ顔をする。この砦が二年半やってきたのと同じことを、あちらは今月やっていた。
「次はどうなります」
「次って何がだ」
「消さずに置いた欄です。来月も同じ線が入れば、紙はまた一枚増えます」
「増えるだろうな」
「増えれば、また立たされます」
「立つだろうよ。あの若いのは立たされ慣れてねえ」
グニェルは湯呑を持ったまま少し黙った。
「だが横に差配が立ってる。あれは三十年立たされてきた男だ」
ミレアが控えの束から一冊を抜いて、頁を繰った。
「炉底で、あの方は言いました。叱られる理由なら書ける、と」
「言ったな」
「書いたと思います」
「聞いていない」
「聞いていません。ですから、書いたと思います、としか書けません」
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グニェルは帳簿を出しかけて、途中で手を止めた。
「……うちの隣も」
言いかけて口を閉じた。
「言いかけたな」
「言いかけた。やめとく」
彼は留め金を二度弾いた。
「下ろしてる坑がもう一つある。去年から当たりが良すぎる。……良すぎるってのは俺の勘だ」
「勘か」
「勘だ。勘で名を出しゃ南の穴と同じことになる。行ったこともねえ穴に値が付いたのは、宿場で聞いた」
ユークは口を開きかけてやめた。
やめる向きの話ならできる。だがまだ誰も聴いていない坑へこちらから先に言葉を置けば、聴く前から灰環の言ったとおりに聴くことになる。それは指図だ。
「言えることはない」
「訊いてねえよ」
グニェルは帯を担ぎ直した。
「俺は言いに来ただけだ。先に自分で聴く。聴いてから言う」
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鉱泥を採るのに半日かかった。精算は受付台で済ませた。採った量と品目と退場の刻を書いて、共用の修繕を頭割りにする。二年前と同じ手順で紙も同じだった。
彼が坂を下りたあと、ユークは知らせを送らなかった。
送る先がない。向こうが読んだことを、こちらは今日初めて人の口から聞いた。
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日が傾いてから糸がもう一度震えた。
荷車が一つ。積んでいるのは空の樽ばかりで、御しているのは見たことのない若い男だった。ドーランの下で二年になるという。
「言付けを預かってきました」
「誰からだ」
「名は聞いてません。東の穴の差配だとだけ」
男は手綱を巻いてから背を伸ばした。
「そのまま言えと言われました。……名乗らねえ。欄も上へは出さねえ。あそこの名で立った理由は、来年あそこを縛る」
「ほかには」
「ありません。意味は訊くなと言われました」
ミレアが控えを開いて、開いたまま筆を持たなかった。
「返しはありますか」
「ない」
「無しでいいんですか」
「無しでいい」
若い男は樽を下ろし、水を一杯飲んでから坂を下りた。
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「名乗れば減った理由は立ちます」
「立つ」
「立った理由は灰環の名で立ちます」
「そうなる」
名乗らなければ今年の勘定は苦しいままだ。向きを戻したぶんの落ち込みに理由は付かない。付かない理由は来年も付かない。
欄を上へ出さないと決めたのも同じ形だった。出せば様式が一つ増えるかもしれない。増えた様式には、どこから来たかが必ず付いて回る。
ユークは坂の下へ目をやった。東へ二日。連れて出せるのは二体で、片方の返りはまだ戻っていない。
それは行かない理由ではなかった。行かない理由は一つしかない。行けば、向こうが自分で決めたことが、灰環が行って決めさせたことになる。
いちばん動きたい日に動かないと決めたのが何度目かを、ユークは数えていない。
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灯を細くしてから庭を回った。
シルクスは坂の下の曲がりで糸を張り直していた。今日震えたのは四度だ。上りに二度と下りに二度。
モルトは槽の底にいる。舞う泥は元の見当まで下がったままだった。
板へ掌を当てるとグランが窪みで身じろぎした。返りは半拍ぶん遅い。遅いぶんをいつから数えるのかを、この砦はまだ決めていない。
ルーメには布が掛かったままだ。
フェズは詰所の屋根から坂の先の暗いほうを見ている。
院の綴りでは灰環の名の入った紙が一枚止まっている。宛先の欄が空いていて次へ渡らない。
上へは一枚も届かなかった。
届いた先は坑の帳場だった。確かめる気のある者は役所になかった。月の紙を綴じる机にいた。
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土間へ戻るとミレアが二枚目の控えを開いていた。
名のない片方の欄はそのままだ。書き足したのは一行だった。
〈二つ目の名は、向こうが伏せた〉
「伏せたのはこちらでした」
「先月まではな」
「今日からは向こうです」
彼女は筆を置いてから行の頭を指で押さえた。
「同じ空きです。空いている幅も一分と違いません」
「違わないな」
「ですが、こちらが伏せた空きと向こうが伏せた空きは別のものです」
誰が空けたかで意味が変わる。変わったことを書ける欄は、どこの様式にもない。
卓の端には票が置いたままだ。空いた欄がまだ残っている。返す日は近い。
返せば、その空きを空けたのは灰環になる。




