第138話 坂を上ってこない人
返事は書かないと決めたのは封の届いた日の晩だった。
名のない相手へ宛てて書けば、書いたほうの名だけが紙に残る。ミレアはそう言って届いた封を三行のまま控えの後ろへ綴じた。三行のうち一行も咎めではなかった。
「向こうが何か言ってくるまで待ちます」
「待つしかないな」
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その紙の中身が形になって現れたのは四日置いた昼だった。
糸が坂の下の曲がりで震えた。
曲がりで一度震えたあと、門の手前でもう一度震えるのが常だ。上ってくるものは必ずその二つを通る。
二度目が来なかった。
二度目が来ないまま、半刻が過ぎた。
ユークは受付台を離れて庭へ出た。窪みのグランはもう頭を上げている。返りは半拍ぶん遅い。板へ掌を当てても、坂に何か落ちているという知らせは来なかった。人がそこにいて動かないだけだった。
「下りる」
「どなたですか」
「分からない。……止まる用のある奴だ」
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坂の中腹で、外套の男が道の縁の石へ腰を下ろしていた。
供はいない。手にも背にも何もなかった。
道の縁の石は坂を均したときに寄せたものだ。腰を下ろす高さに揃えたわけではない。低すぎて、座れば膝が胸のほうへ上がる。
古い束を抱えて坂を上ってきた日があった。名義の一行が届いた日にも紙があった。この人はいつも紙のほうが先に目に入った。
ヴェッセルは立ち上がってから、上のほうへ一度だけ目をやった。
「所用のついでに寄りました。すぐ戻ります」
「上へ来ないのか」
「ここで結構です」
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ヴェッセルはもとの石へ腰を戻した。ユークは向かいの石へ座った。
「二枚目は届いたか」
「届きました。綴りへ入れてあります。日付も受けの番号も入りました」
「受けたのか」
「受けました。……あれが最後の一件です」
風が坂の下から上がってきて外套の裾を持ち上げた。
「内規が一つ立ちました。灰環に関わる照会は私を通しません」
「咎めか」
「いいえ」
「処分か」
「処分には書式がございます。書式には終わりの日が入ります。内規には入りません」
炉底の坑口の外で同じ形の話を聞いた。咎めなら重さと期限があって終われば消える。書き留められたものは消えない。ミレアはあのとき、いちばん効くと言った。
「争えるか」
「咎められておりませんので」
外套の裾は乾いていた。ここで待つと決めてから、しばらく経っているらしい。
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「誰が決めた」
「掛を決める紙に決裁の名は入ります。……人を外す紙ではありませんから、私の名はどこにもございません」
紙は一枚で足りたのだろう。灰環の照会をどの掛が受けるかを決める。それだけを書けば、誰の名も書かずに人が一人外れる。
「上がってこないのはそのせいか」
「門を潜れば、潜ったと書けます」
ヴェッセルは坂の下へ目を落とした。
「ここは道です」
「うちが均した道だ」
「道帳には載っておりません」
三日いた人が票の三つ目を空けて帰った。道の欄は道帳から取る、取る先の無いものは入らない、と。載っていない道の上に人が座っていたことは、どこの様式でも書けない。
書けないものが今日は庇になっていた。
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「受ければこうなると分かっていたか」
「分かっておりました」
「なら、なぜ受けた」
ヴェッセルは膝の上で指を組んだ。
「前の束を出したのと同じ理屈です」
言い方を変えなかった。あの卓で聞いたのと同じ並びだった。あのときは棚へ戻した者が出す番だという話で、今度は受けた紙の話になっている。言葉は動かず、置かれた場所だけが動いていた。
ユークは黒淵のことを訊いた。街道で当てはめられた名が院まで上がっているかどうか。
「私のところへは回りません」
それだけだった。
確かめる気のある者は院に一人しかいなかった。その一人が、今日から灰環の紙を見ない。
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「一つ伺ってよろしいですか」
問い返す前に彼は続けた。
「村の井戸は戻りましたか」
「戻った。板を上げてから二日で澄んだ」
「……そうですか」
控えを出す手つきにはならなかった。書く物を持っていないのだから当たり前だった。それでも彼は、聞いた話をどこへも入れないまま置いておくことに一度慣れる必要があるように見えた。
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「こちらから一つ申し上げます」
「聞く」
「院の綴りに、灰環の名の入った照会が一件あります。回す先が決まらないまま止まっています」
「止まっているのか」
「宛先の欄が空いています。空いている紙は次へ渡りません」
「誰が出した」
「申しません」
「院の中の者か」
彼はしばらく答えなかった。坂の下の木がひとしきり鳴って静まった。
「申しません」
ユークもそれ以上は訊かなかった。訊いて聞き出せば、聞き出した者の名が向こうの綴りに立つ。名の立つ場所を増やす気はなかった。
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礼を言いかけて口の中で止めた。
礼を言えば、この人が自分で決めたことを灰環が引き受けたことになる。引き受けたと読める形は紙にも人の口にも残る。
ヴェッセルは求めなかった。立ち上がって外套の前を合わせただけだった。
「これが最後です」
彼はもう一度だけ坂の上へ目をやった。木の陰で屋根は見えない。見えないほうをしばらく見てから向きを変えた。
下りていく足音は急いでいなかった。坂の下の曲がりを越えたところで糸がもう一度震えた。今度は下りる形の震え方だった。
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砦へ戻るとミレアは土間で待っていた。
ユークは聞いたとおりを話した。掛のこと、内規のこと、止まっている照会のこと。
「あの方は失脚しておりません」
彼女は控えを開かないまま言った。
「査察官のままです。仕事もあります。灰環の話が回ってこなくなるだけです」
「それだけか」
「それだけです。……いちばん効く形です」
「立つのが早いな」
「早くありません。順どおりです」
ミレアは指を折った。
「書き留められた一行は十日で綴りに入ります。入ったものは次の綴じ替えで運用になります。綴じ替えは年に二度です」
「間に合ったわけだ」
「間に合いました。あの方の側が、ではありませんが」
「止める者はいなかったのか」
「いません。……急いだ形に見えるのは、そのせいです」
「掛は替わるだろう」
「替わります。ですが替えた紙に灰環の名が入っている限り、次の掛も同じところで止まります」
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ミレアは綴りを開いて筆を取った。
「書きます」
「何を書く」
「来た日と、居た場所と、用が無かったことです」
「それだけか」
「それだけです」
〈来訪。中腹。用件なし〉
書いた行は短かった。
中腹に人がいると分かったのは網が拾ったからだ。糸が震えて二度目が来なかった。そう書けば、坂を歩く者を灰環が見ていたと書いたことになる。使える手で、書けない手だった。
網が拾ったと書けば、次に繰る者は網の届く先を知る。届く先を知られた網は、次から人を拾わない。
「なぜ中腹なのかは書けません」
「書けないな」
ミレアは筆を洗ってから、行の下の余白へ目を落とした。
「来年これを繰る者がいれば、そこで止まります」
「止まるか」
「止まります。……なぜ中腹なのかと訊きます」
訊く者がいるかどうかは分からない。訊かれたときに答えられる者がこの砦に残っているかどうかも分からない。それでも空いた行より、短くても一行あるほうが問いは立つ。
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夜が更けてから坂の下を見た。
坂の中腹に人影はない。糸は元の刻へ戻っている。
炉底の若い書役は、上へ出せない帳面の余白へ自分で線を引いた。叱られるのを承知で引いた線だ。今夜こちらの綴りに増えたのは線ではなく一行で、こちらには叱る者がいない。
同じ形のものを、あちらのほうが先に引いていた。
引いた者が今どうしているかを、灰環はまだ聞いていない。




