第137話 埋められた名
昼を回った時分に坂の下で糸が二度震えた。荷車が上ってくるときの数だ。
人がひとつと荷車がひとつ。この前と同じ数で、上ってくる速さだけが違った。街道へ下ろしてから十日あまりが過ぎている。
前の晩に雨が来て坂の砂利は締まっている。輪の音が低い。ユークは門の外へ出て待った。
ドーランは轅を下ろすなり土間へ入ってきた。荷はまだ載せたままだった。
「読まれてる」
「広がったか」
「広がったなんてもんじゃねえ」
彼は膝の帳面を出さずに卓へ着いた。値の頁も荷の頁も開かない。二年見てきて初めての手つきだった。
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「ラスティアの宿場で写しが回ってる。俺が置いたのは一つだ。今は三つある」
「誰が写した」
「知らねえ。写すのに許しは要らねえからな」
ミレアが控えを開いた。
「町の役所へは」
「書役が一枚取ってった。取ったってことは綴じたってことだ」
ユークは戸のほうへ目をやってから座り直した。
「七つのところは」
「あれは通った。前の紙を覚えてる奴が多い。土地が痩せる順の話だ。あれの続きだと思って読んでる」
「そこまでは思ったとおりだな」
「そこまではな」
ドーランは指を一本立てて卓を軽く突いた。
「読んだ奴はみんな同じところで止まる。名のねえほうだ」
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「止まるのは構わない」
「止まったままなら構わねえよ」
彼は口の端を歪めた。
「止まらねえんだ。二つ目はどこの穴だって話になる。話になりゃ答えが要る」
「出たのか」
「出た。黒淵だ」
ミレアの手が控えの上で止まった。
「……聞いたことのない名です」
「俺も荷を入れたことはねえ。南の道を二日ばかり入った先だ。台帳にゃ載ってる」
ユークは名を口の中で一度繰り返した。
灰環とは関わりがない。東の穴とも関わりがない。この卓では一度も出たことのない名だった。
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「どこから出た」
「商会の帳場だ」
ドーランは肩を回した。
「穴ごとの採れ高を持ってる連中がいる。値をつけるのに要るからな。あんたの紙の数字と並べて、いちばん近いのを引っ張った」
「近いだけでしょう」
ミレアの声は低かった。
「近いだけで名が決まりますか」
「決まるんだよ」
ドーランは彼女のほうを見なかった。
「誰も嘘は言ってねえ。あの数字なら黒淵だろう、と言っただけだ。……次の卓では、だろうが落ちる」
ユークは息を吐いた。
役所が跨げない因果を、商いの帳面は何十年も跨いできた。分けて書けば損をするから跨ぐ。こちらはその厚みを頼りにして紙を組んだ。同じ厚みが、名の空いたところを先に埋めた。
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ミレアが二枚目の控えを卓へ出した。
名のない片方に書いてあるのは三つだ。三年前に規則どおりへ整えたこと。以後の採れ高が上がったこと。去年から説明の立たない落ち込みが出たこと。場所の割れる数字は全部削ってある。
「削ったところが効きませんでした」
「効かなかったな」
「削れば当てはまる穴が減ると思っていました。……減りません」
彼女は控えの縁を指で押さえた。
「三年前に整えた穴は、東の一つではありません」
卓の上が静かになった。
通達を書いた側は下にあるものを知らない。知らないので悪意もない。規則どおりに向きを変えた穴があの年にいくつあったのかを、この卓の誰も数えたことがなかった。
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「訂正はできませんね」
「できない」
訂正するには本当の名を書くしかない。名を書けば、そこへ辿り着いた道筋も一緒に書くことになる。道筋の途中には、上へ出せない紙にしか残っていない線が一本ある。あの若い書役が余白へ引いた線だ。
「黙っていれば、黒淵に値が付きます」
「付くな」
「どちらも選べません」
「選べないんじゃない」
ユークは紙の端を揃えた。
「名を伏せると決めたのはこっちだ」
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ミレアは控えの余白へ線を二本引いた。
「値が付けば、確かめに行く者が出ます」
「出る」
「行って何もなければ、あの紙は当てにならないと言われます。七つの数字ごと落ちます」
「何かあったら」
「採集権を持っている者が先に知ります。知った者は値を守るために整えます」
整えるとは掘る向きを変えることだ。三年前と同じ手つきで、今度は急いでやる。
「どちらでも黒淵が損をします」
「するな」
「私たちは、確かめに行けません」
「行けばどうなる」
「灰環が黒淵を確かめたことになります。確かめた者は、確かめた先の値に関わったと読まれます」
連れて出せるのは二体だ。片方は帰ってから返りが戻っていない。往復のあいだ枝は固定で回ることになり、井戸はまた白くなる。
並べるまでもない理屈だった。ユークは並べ終わってから、自分が行く算段のほうを先に立てていたことに気づいた。
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「あの人なら行った」
ミレアは顔を上げなかった。
「行きました。足で回って、何日かで違うと分かったはずです」
あの人はもうこの件を回されない。照合の済んだ者は続けて検分に入らない。分けるのが様式だと、三日いた人が事務の声で言った。
弱いから出さなかった。出す形になった頃には、確かめる者のほうがいなくなっていた。
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「出どころは追った」
ドーランは荷紐の切れ端を指で回していた。
「三人だ。宿場と、替え銭の店と、荷受けの帳場。別々の日に別々の卓で同じ名を出してる」
「示し合わせたか」
「そうは見えねえ。互いを知らねえ顔だ。元は一つらしいが、そこから先は誰も言わねえ」
「言わないのか」
「言えねえんだろ。聞いた先を明かすのは商いじゃ礼を欠く」
彼は切れ端を卓へ置いた。
「一つ引っかかる。三人とも順が同じなんだ。採れ高を先に見て、次が等級で、最後が村の戸数だ。……ありゃ商いの目じゃねえ。値の見方が役所寄りだ」
ユークは口を開きかけてやめた。
名が一つ浮かんだ。浮かんだだけで卓には出さなかった。出せば、こちらも確かめずに名を埋めたことになる。
ミレアも書かなかった。控えに入ったのは〈出どころ三。元は一つとの由。確かめられず〉の一行だけだった。
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ザグレスが坂を上がってきたのは灯を入れたあとだった。
今日も門は潜らない。庭の石へ腰を下ろして煙草を耳から抜いた。
ユークが名のことを話すと、彼はしばらく黙っていた。
「当たったな」
それだけだった。得意がりもせず、言い直しもしない。
「下はどうだ」
「灰環の名が卓に出るようになった。前は穴の話だったが、今は誰がやってるかの話だ」
「早いな」
「名が出りゃそうなる。承知で出したんだろ」
彼は火を点けずに煙草をくわえた。
「一つ言っとく。黒淵の名を出した奴に片っ端から訊いたが、あそこへ行ったことのある奴は一人もいなかった」
「一人もか」
「一人もだ。行ったことのねえ穴の値だけが勝手に動いてる」
坂を下りる足音は、いつもより早く低くなって消えた。
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灯を細くしてから庭を回った。
シルクスは坂の下の曲がりで網を張り直していた。荷車が上るとき糸は二度震え、下りるときも二度だった。震えた数はどこの帳面にも入らない。
モルトは槽の底にいる。三日休ませたぶんは戻って、舞う泥の量は元の見当まで下がっていた。
板へ掌を当てるとグランが窪みで身じろぎした。返りは半拍ぶん遅れたままで、そこから縮んでいない。縮んだぶんを数で控えた者は帰ってからこちら一人もいない。
ルーメには布が掛かったままだ。壁の脈を写す仕事を待たせた日は四十を越えた。
詰所の屋根で羽が動いた。フェズは坂を見ているのではなく、坂の先の暗いほうを見ている。
名を伏せる手で二年半守られてきたのは、この砦のほうだ。宛先の無い紙は誰の敵にもならず、名の無い穴には値もつかなかった。
同じ手で、今度はよその穴に値が付いた。
手つきは変わっていない。変わったのは伏せた場所だけだった。
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土間へ戻ると、ミレアは控えを開いたまま待っていた。
「訂正はしない」
「はい」
「違うとだけ書いた紙も出さない」
「違うとだけ書けば、では本当はどこかと訊かれます」
「訊かれる。答えられない紙をこっちから増やすことはない」
ミレアは日付を入れて三行書いた。訂正しないと決めたこと。決めた者の名。書いた者の名。
「これは誰にも見せません」
「見せない」
彼女は筆を洗ってから、洗った手をしばらく拭かなかった。
「褒める者はどこにもいませんね」
「ないな」
黒淵という名を、この砦は今日初めて知って、今日初めて書いた。書いたのは名と、こちらが何もしないと決めたことだけだった。
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二日置いた朝、門へ封が一つ届いた。
王立迷宮監督院の紙だった。差出はヴェッセルの名ではない。
文は三行しかなかった。灰環の名で入る照会は、今後は下記の掛が受ける。下記には部署の名だけがあって、人の名はどこにも書いていない。
咎めは一字もない。日付と部署と、事務のことだけが並んでいる。
ミレアは二度読んでから封の裏を返した。
「……あの方の名が、どこにもありません」




