表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
137/144

第137話 埋められた名

 昼を回った時分に坂の下で糸が二度震えた。荷車が上ってくるときの数だ。


 人がひとつと荷車がひとつ。この前と同じ数で、上ってくる速さだけが違った。街道へ下ろしてから十日あまりが過ぎている。


 前の晩に雨が来て坂の砂利は締まっている。輪の音が低い。ユークは門の外へ出て待った。


 ドーランは轅を下ろすなり土間へ入ってきた。荷はまだ載せたままだった。


「読まれてる」


「広がったか」


「広がったなんてもんじゃねえ」


 彼は膝の帳面を出さずに卓へ着いた。値の頁も荷の頁も開かない。二年見てきて初めての手つきだった。


---


「ラスティアの宿場で写しが回ってる。俺が置いたのは一つだ。今は三つある」


「誰が写した」


「知らねえ。写すのに許しは要らねえからな」


 ミレアが控えを開いた。


「町の役所へは」


「書役が一枚取ってった。取ったってことは綴じたってことだ」


 ユークは戸のほうへ目をやってから座り直した。


「七つのところは」


「あれは通った。前の紙を覚えてる奴が多い。土地が痩せる順の話だ。あれの続きだと思って読んでる」


「そこまでは思ったとおりだな」


「そこまではな」


 ドーランは指を一本立てて卓を軽く突いた。


「読んだ奴はみんな同じところで止まる。名のねえほうだ」


---


「止まるのは構わない」


「止まったままなら構わねえよ」


 彼は口の端を歪めた。


「止まらねえんだ。二つ目はどこの穴だって話になる。話になりゃ答えが要る」


「出たのか」


「出た。黒淵だ」


 ミレアの手が控えの上で止まった。


「……聞いたことのない名です」


「俺も荷を入れたことはねえ。南の道を二日ばかり入った先だ。台帳にゃ載ってる」


 ユークは名を口の中で一度繰り返した。


 灰環とは関わりがない。東の穴とも関わりがない。この卓では一度も出たことのない名だった。


---


「どこから出た」


「商会の帳場だ」


 ドーランは肩を回した。


「穴ごとの採れ高を持ってる連中がいる。値をつけるのに要るからな。あんたの紙の数字と並べて、いちばん近いのを引っ張った」


「近いだけでしょう」


 ミレアの声は低かった。


「近いだけで名が決まりますか」


「決まるんだよ」


 ドーランは彼女のほうを見なかった。


「誰も嘘は言ってねえ。あの数字なら黒淵だろう、と言っただけだ。……次の卓では、だろうが落ちる」


 ユークは息を吐いた。


 役所が跨げない因果を、商いの帳面は何十年も跨いできた。分けて書けば損をするから跨ぐ。こちらはその厚みを頼りにして紙を組んだ。同じ厚みが、名の空いたところを先に埋めた。


---


 ミレアが二枚目の控えを卓へ出した。


 名のない片方に書いてあるのは三つだ。三年前に規則どおりへ整えたこと。以後の採れ高が上がったこと。去年から説明の立たない落ち込みが出たこと。場所の割れる数字は全部削ってある。


「削ったところが効きませんでした」


「効かなかったな」


「削れば当てはまる穴が減ると思っていました。……減りません」


 彼女は控えの縁を指で押さえた。


「三年前に整えた穴は、東の一つではありません」


 卓の上が静かになった。


 通達を書いた側は下にあるものを知らない。知らないので悪意もない。規則どおりに向きを変えた穴があの年にいくつあったのかを、この卓の誰も数えたことがなかった。


---


「訂正はできませんね」


「できない」


 訂正するには本当の名を書くしかない。名を書けば、そこへ辿り着いた道筋も一緒に書くことになる。道筋の途中には、上へ出せない紙にしか残っていない線が一本ある。あの若い書役が余白へ引いた線だ。


「黙っていれば、黒淵に値が付きます」


「付くな」


「どちらも選べません」


「選べないんじゃない」


 ユークは紙の端を揃えた。


「名を伏せると決めたのはこっちだ」


---


 ミレアは控えの余白へ線を二本引いた。


「値が付けば、確かめに行く者が出ます」


「出る」


「行って何もなければ、あの紙は当てにならないと言われます。七つの数字ごと落ちます」


「何かあったら」


「採集権を持っている者が先に知ります。知った者は値を守るために整えます」


 整えるとは掘る向きを変えることだ。三年前と同じ手つきで、今度は急いでやる。


「どちらでも黒淵が損をします」


「するな」


「私たちは、確かめに行けません」


「行けばどうなる」


「灰環が黒淵を確かめたことになります。確かめた者は、確かめた先の値に関わったと読まれます」


 連れて出せるのは二体だ。片方は帰ってから返りが戻っていない。往復のあいだ枝は固定で回ることになり、井戸はまた白くなる。


 並べるまでもない理屈だった。ユークは並べ終わってから、自分が行く算段のほうを先に立てていたことに気づいた。


---


「あの人なら行った」


 ミレアは顔を上げなかった。


「行きました。足で回って、何日かで違うと分かったはずです」


 あの人はもうこの件を回されない。照合の済んだ者は続けて検分に入らない。分けるのが様式だと、三日いた人が事務の声で言った。


 弱いから出さなかった。出す形になった頃には、確かめる者のほうがいなくなっていた。


---


「出どころは追った」


 ドーランは荷紐の切れ端を指で回していた。


「三人だ。宿場と、替え銭の店と、荷受けの帳場。別々の日に別々の卓で同じ名を出してる」


「示し合わせたか」


「そうは見えねえ。互いを知らねえ顔だ。元は一つらしいが、そこから先は誰も言わねえ」


「言わないのか」


「言えねえんだろ。聞いた先を明かすのは商いじゃ礼を欠く」


 彼は切れ端を卓へ置いた。


「一つ引っかかる。三人とも順が同じなんだ。採れ高を先に見て、次が等級で、最後が村の戸数だ。……ありゃ商いの目じゃねえ。値の見方が役所寄りだ」


 ユークは口を開きかけてやめた。


 名が一つ浮かんだ。浮かんだだけで卓には出さなかった。出せば、こちらも確かめずに名を埋めたことになる。


 ミレアも書かなかった。控えに入ったのは〈出どころ三。元は一つとの由。確かめられず〉の一行だけだった。


---


 ザグレスが坂を上がってきたのは灯を入れたあとだった。


 今日も門は潜らない。庭の石へ腰を下ろして煙草を耳から抜いた。


 ユークが名のことを話すと、彼はしばらく黙っていた。


「当たったな」


 それだけだった。得意がりもせず、言い直しもしない。


「下はどうだ」


「灰環の名が卓に出るようになった。前は穴の話だったが、今は誰がやってるかの話だ」


「早いな」


「名が出りゃそうなる。承知で出したんだろ」


 彼は火を点けずに煙草をくわえた。


「一つ言っとく。黒淵の名を出した奴に片っ端から訊いたが、あそこへ行ったことのある奴は一人もいなかった」


「一人もか」


「一人もだ。行ったことのねえ穴の値だけが勝手に動いてる」


 坂を下りる足音は、いつもより早く低くなって消えた。


---


 灯を細くしてから庭を回った。


 シルクスは坂の下の曲がりで網を張り直していた。荷車が上るとき糸は二度震え、下りるときも二度だった。震えた数はどこの帳面にも入らない。


 モルトは槽の底にいる。三日休ませたぶんは戻って、舞う泥の量は元の見当まで下がっていた。


 板へ掌を当てるとグランが窪みで身じろぎした。返りは半拍ぶん遅れたままで、そこから縮んでいない。縮んだぶんを数で控えた者は帰ってからこちら一人もいない。


 ルーメには布が掛かったままだ。壁の脈を写す仕事を待たせた日は四十を越えた。


 詰所の屋根で羽が動いた。フェズは坂を見ているのではなく、坂の先の暗いほうを見ている。


 名を伏せる手で二年半守られてきたのは、この砦のほうだ。宛先の無い紙は誰の敵にもならず、名の無い穴には値もつかなかった。


 同じ手で、今度はよその穴に値が付いた。


 手つきは変わっていない。変わったのは伏せた場所だけだった。


---


 土間へ戻ると、ミレアは控えを開いたまま待っていた。


「訂正はしない」


「はい」


「違うとだけ書いた紙も出さない」


「違うとだけ書けば、では本当はどこかと訊かれます」


「訊かれる。答えられない紙をこっちから増やすことはない」


 ミレアは日付を入れて三行書いた。訂正しないと決めたこと。決めた者の名。書いた者の名。


「これは誰にも見せません」


「見せない」


 彼女は筆を洗ってから、洗った手をしばらく拭かなかった。


「褒める者はどこにもいませんね」


「ないな」


 黒淵という名を、この砦は今日初めて知って、今日初めて書いた。書いたのは名と、こちらが何もしないと決めたことだけだった。


---


 二日置いた朝、門へ封が一つ届いた。


 王立迷宮監督院の紙だった。差出はヴェッセルの名ではない。


 文は三行しかなかった。灰環の名で入る照会は、今後は下記の掛が受ける。下記には部署の名だけがあって、人の名はどこにも書いていない。


 咎めは一字もない。日付と部署と、事務のことだけが並んでいる。


 ミレアは二度読んでから封の裏を返した。


「……あの方の名が、どこにもありません」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ