第136話 名のない二つ
朝のうちにリクが坂を上がってきた。
桶を提げている。中は空だった。
「見えた」
「底の石がですか」
「見えた。昨日は半分までしか見えなかった」
ユークは受付台の外へ出て坂の下へ目をやった。
板を上げたのは一昨日の昼だ。あの三人が坂を下りきったのを門から見届けてから盤の前へ立ち、枝の付け根を指一本ぶん戻した。戻したぶんが村の井戸まで届くのに二日かかるとオドルには先に言ってある。
「今日から普通に汲んでください。量も揃います」
「母ちゃんに言っとく」
リクは桶を持ち直して駆け下りていった。
モルトは朝のうちに槽へ戻してある。日陰で休ませた三日ぶん、底へ入る動きは元へ近づいていた。
土間の卓には二枚目が広げたままになっている。
二日そのままだった。ミレアはその横で票を見ている。三つ目の欄は空いたままだ。取ってくる先がこちらにないので、こちらの手ではどうやっても埋まらない。
ユークは二枚目を頭から読み直した。
灰環の実物と数字が並べてある。井戸の水位。配った量。槽の底が何日で舞うか。そのあとに七つの数字がある。落ちた翌年に井戸が濁り、街道が荒れ、人が減る。順はどれも同じだった。
最後に二つある。今も立っている穴が二つ。どちらも下に同じ形のものを押さえている。片方は灰環で、片方には名がない。
「弱いな」
「弱いです」
ミレアは筆を置いた。
「七つは他所の紙から取りました。取った先は書けます。二つのうち片方は、こちらが見たと言うだけです」
「見たのは俺とお前とザグレスだ」
「見た者の言い分になります。……確かめられない数は、数に入りません」
三日前に同じ卓の向こうで聞いた形だった。言い方だけが違っている。
「待てば強くなるか」
「なりません」
ミレアの返事は速かった。
「向こうの名は来年も書けません。書けばあちらの減産にこちらの名が付きます。付いた理由は、あの若い書役の欄ごと引きます」
「深いところは出さない」
「出しません。決めたのは去年です」
残っているのは二つだけだった。弱いまま出すか、出さないか。
「出す」
ユークは紙の端を指で揃えた。
「ひと月置いても同じ紙だ。置いたぶんだけ七つが八つになる」
ミレアは頷いてから控えを開いた。書いたのは三行だ。日付と、出すと決めたことと、決めた者の名。そのあとに書いた者の名を足した。
「ただし出し方を変える」
「変えますか」
「一枚目は灰環の名を伏せた。今度は逆にする」
ミレアの手が止まった。
「灰環の名を出すのですか」
「出す。伏せるのは二つ目だけだ」
「名が出れば問いは値踏みへ化けます。そう仰ったのはあなたです」
「言った」
ユークは七つの数字の頁へ指を置いた。
「名のない紙は誰の言い分でもない。誰の言い分でもないから途中で握り潰されずに済んだ。……そのかわり、確かめに行く先がない。読んで確かめたくなった者がどこへ行けばいいのか、あの紙には書いていない」
「行き先をこちらにする、ということですか」
「する。二つのうち片方には実物がある。坂を上がれば井戸も槽も見られる」
ミレアはしばらく紙から目を離さなかった。
「上がってくるのは確かめる方だけではありません」
「値を訊きに来る奴も上がる。名が出れば束になるだろうな」
「承知で出しますか」
「出す」
昼前に坂を下りた。
井戸端の石は乾いている。オドルは畑の縁から出てきて手の土を払った。
「戻ったな」
「戻りました。……今日は別の用で来ました」
ユークは紙のことを先に言った。灰環の名が街道へ出る。出れば値の話がこの村まで来る。
「出りゃどうなる」
「訊きに来る者が増えます。前砦へ上がる道はここを通ります」
「荷が増えるってことでもあるな」
「増えます。増える中身は選べません」
オドルは井戸の縁へ手を置いた。しばらく下を覗いていた。
「止めろと言えば止めるのか」
「止めます」
男は返事の前に一度息を吐いた。
「うちはもう、あんたと一緒に数えられてる」
ユークは何か言いかけてやめた。
「井戸のことを書くなら数はうちが出す。あんたの帳面の数じゃなくていい」
「そうします」
リクが小屋の陰から出てきて、桶を提げたまま井戸の脇に立った。ユークが坂を上がるまで、その場から動かなかった。
午後にシルクスの糸が坂の下で震えた。
人がひとつと荷車がひとつ。月の荷を六日繰り上げてもらってある。言付けを持って下りたのはザグレスだ。
ドーランは荷を下ろす前に卓へ来て腰を下ろした。値の頁は伏せ、荷の頁だけを開いておく。もう二年その手つきだった。
彼は二枚目を三度読んだ。
「その紙で誰が損をするかを先に言え。俺はそれで持つか持たねえかを決める」
「四つある」
ユークは指を折った。
「東の穴が減らしてる理由に、こっちの言い分が乗る。乗れば採集権の値が動く。損をするのはシェルドの商会だ」
「二つ目は」
「うちだ。名が出れば値踏みが戻ってくる」
「三つ目」
「クルン村だ。道が村を通る」
「四つ目」
「あんただ。東の仕入れが揺れる」
ドーランは頁の端を親指で押さえた。
「二つ目の穴の名は書いてねえんだな」
「書いてない。数字も場所が割れないところまで削った」
彼は少し黙ってから荷の頁を閉じた。
「炉底が止まりゃ最初に損するのは俺だ。それは分かってる」
「分かってて訊いたのか」
「訊かなきゃ決められねえだろ」
ドーランは膝の帳面を革へ戻した。
「注文する者が消えた村を、俺は十年見てる。半分になったのは荷が減ったせいじゃねえ。……どこも、止まってから気づくんだよ」
「持つのか」
「持つ」
庭ではルーメが布の外で灯を落としたままだった。壁の脈を写す仕事は、待たせて三十日を越えた。グランの返りも半拍ぶん遅いままだ。フェズは詰所の屋根から荷車のほうを見ていた。
日が落ちてからザグレスが上がってきた。
紙は読まなかった。読む用がないと言って卓へも寄らない。
「名を伏せた場所は、誰かが埋めたくなるぞ」
「埋める材料がない」
「材料の話じゃねえよ。空いてると埋めたくなるんだ。人はそういう風にできてる」
彼は煙草を耳へ挟んだ。
空欄には後で必ず問いが付く、と三日前に卓の向こうで聞いた。役所の言い方と宿場の言い方で、同じことを二度聞いたことになる。
「下はどうだ」
「水が戻ったのは伝わってる。止めたのが村だってのは、まだ通ってねえ」
「通らないな」
「通らねえよ」
ザグレスは坂を下りていった。門を潜らないまま帰るのは、この十日で五度目だった。
夜にミレアが二部目を清書した。
街道へ下ろす分と、院へ入れる分。文面は一字も変えなかった。
「宛名をどういたしますか」
「書かないと綴じないんだろう」
ミレアは院で聞いた言い方をなぞった。
「差出も宛名もない紙は綴じられません。綴じない紙は次に読む者へ渡りません」
院の中でこちらが名を書ける相手は一人しかいなかった。
生態維持課に残った後輩の名も一度は出た。ユークはその名を線で消した。書けば、書かれたほうの一行になる。あの立場でその一行を負うのは重すぎる。
「ヴェッセルさんの名で出す」
「受ければ、あの方の綴りにもう一行増えます」
「増える。……だから決めるのは向こうだ」
ユークは添えの紙を一枚だけ足した。書いたのは二行だ。受けるかどうかはそちらで決めてほしい。受けなくてもこちらからは何も言わない。
ミレアはそれを封へ入れて、封の表には何も書かなかった。
翌朝、荷車が坂を下りた。
止める者は誰もいなかった。オドルも、ザグレスも、ミレアも止めなかった。二年半手元に置いてきた紙が、樽と革のあいだに挟まって坂を下りていく。
止める理由が一つも出なかったことのほうが、ユークには落ち着かなかった。
ドーランは荷紐を締めながら顔を上げた。
「この紙、誰に効くんだ」
「確かめる気のある奴に効く」
彼は紐の端を二度回して結び目を作った。
「……そいつは、今どこにいる」
ユークは答えなかった。
坂の下の曲がりで糸が一度震えて、荷車の音がそのまま遠ざかっていった。




