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第135話 書かなかったのか隠したのか

 書役が控えを開いてから、レンドルは票を手前へ引いた。


 硯を自分の側へ寄せる。控えの下から細い筆を出した。灰環の筆ではない。旅の荷に入れてきたものだった。


「下書きを入れます」


「今からか」


「今からです。写せるところは今日のうちに済ませます」


 彼は積みの上から二冊目を開いた。開いたまま票の一つ目へ目を落とす。


 水。


---


 筆は速くなかった。


 湧きの量が入った。井戸の数が入った。槽は第一から第五まであるが、票には沈殿五とだけ入った。


 ユークは卓の斜めから見ていた。


 水のことを書いた頁は三十二冊のうち百を超える。堰の作り直しも、樋の傾きも、雨の来ない日の落とし方も、そこに全部ある。票では一行だった。行の右にはまだ余白が残っていた。


「余りますね」


 ミレアが言った。


「余ります」


「余った分は」


「次に書く者が使いません。初めの一件で行の長さが決まりますので」


 穂先が動いた。書役はこの遣り取りもそのまま写している。


---


 二つ目はすぐ埋まった。


 地形。坂の傾きと坑口の高さ。この人は三日とも門を出ていないが、綴りには図が挟んである。図は写さず数だけを取った。


「図は入らないのか」


「図は綴じ方が違います。この票は一枚で回りますので」


 三つ目で筆が止まった。


 道。


「この坂道は、どちらの道ですか」


「うちが均した」


「均す前は」


「無い。獣の踏み跡だけだった」


「道帳には」


「載ってないだろうな」


 レンドルは三つ目の欄を空けたまま四つ目へ移った。


「そこは書かないのか」


「書けません。道の欄は道帳から取ります。取る先の無いものは私の手では入りません」


「うちの帳面には均した日も人数も入ってる」


「拝見しました。それは普請の紙です」


---


 四つ目は村の戸数だった。


 ミレアが配水の頁を開いて頭数を示した。


「これは村の数ですか」


「クルン村の戸数です。回す量を決めるのに使っています」


「どちらでお調べに」


「村が言った数です」


「では村の数です」


 穂先が動いて四つ目が埋まった。


「村が言った数でいいのか」


「戸数は村が言うものです。訊く先はそこしかございません」


 ミレアが横で息を吐いた。


 同じ村の同じ紙が、昨日は差出が無いと言われ、今日は数の出どころとして通っている。通る欄と通らない欄が一枚の中に並んでいた。


---


 五つ目で筆が置かれた。


 出入りの人数。


「こちらの出入りは、どちらへ届けておいでですか」


「どこへも出してない」


「届けの写しは」


「無い」


 レンドルは五つ目の欄へ指を置いた。


「この欄は届けの数を入れます」


「門の帳面がある。日ごとに人数を取ってる」


「拝見しました。数はございます。ですが、それは門の数です」


「同じ人間だぞ」


「同じ人間です。欄が取るのは届けのほうです」


 筆は動かなかった。


 彼は五つ目も空けたまま控えを閉じた。


---


 票は五つのうち三つが埋まって、二つが空いた。


 昼を回るまで、ユークはこの紙を見て五つとも書けると思っていた。書けない欄は一つも無いと思っていた。


 書けるかどうかを決めていたのは中身ではなかった。取ってくる先が先に決まっていて、その先を持っているかどうかだった。持っていなければ、そこにあるものは欄へ入らない。


 道はある。人は出入りしている。


---


「空いたところはどうなる」


「後で問いが付きます」


「誰が付ける」


「決まっておりません。読んだ者です」


 彼は票の縁を揃えた。


「なぜ空いているのかを書け、と誰かが必ず言います」


 ユークは天井の梁へ目を上げた。


 同じことを、この卓で十日あまり前にも聞いた。あのときそれは国の側の話だった。空欄が問いを呼び、問いが訴えを呼び、訴えが三代ぶんの決裁を開く。開くから欄は増やせないと言われた。


 今日のは、こちらの二つが開くという話だった。


「空いた欄は、隠したと読まれますか」


 ミレアだった。


「読む者によります」


「あなたは」


「私は読みません。写すだけです」


「では、読む者は」


「決まっておりません」


---


「埋まったほうは訊かれないのか」


「訊かれません」


「なぜだ」


「埋まっているからです」


 ユークは票の一つ目を見た。


 水。湧きの量と井戸の数と、沈殿五。


 この砦の水が何で回っているかは、そこに入っていない。深いところの重い流れと、その上に載っているものと、外れた日に何が起きるか。二年半どこにも書かなかった。書けば外し方の見本になるので書かないと決めた。迷う余地は当時どこにもなかった。


 今日までそれは、書く場所の無いものだった。


 票が回れば水を書く場所はできる。できた欄には湧きの量が入る。入って埋まる。埋まった欄に問いは付かない。


 書く場所が無いあいだ、それはまだ書かれていないものだった。


「……欄ができると、欄の外が、無いことになるのか」


 声に出してから書役の手元を見た。穂先は動いていた。


 レンドルは筆を洗いながら顔を上げなかった。


「欄の外という言い方は、様式にはございません」


---


 日が傾きかけた時分に一度外へ出た。


 ミレアが庭のほうを向いて立っていた。控えは胸から下ろしていない。


「三つ並びました」


「何がだ」


「去年からのことです」


 彼女は指を一本立てた。


「はじめは、帳面が二枚ありました。分かれていました。分かれているものは、並べれば見えます」


 指が二本になった。


「次は一枚でした。一枚になっても、書く欄がありませんでした」


 彼女はそこで少し黙った。


 三本目は立てなかった。


「今度は、欄のほうができます」


「できるな」


「できたところに書いていないものは、無かったことになります」


---


 ミレアは控えを開いて、綴じていない紙を一枚抜いた。


 先の晩に清書した一覧だった。


「もう一度数え直させてください」


「五つか」


「六つです。あの晩、どちらにも入らないものが一つ出ました」


 彼女は紙の左へ線を引いた。


「書く場所の無かったものが三つです。中枢の並びと押さえ。五体を外の様式へ入れること。あなたが枝を触っていること」


「押さえは書かないと決めた」


「決めました。書けば外し方が残ります。ですから書く場所の無かったほうへ入れます」


 線の右へ二つ移った。


「書く場所はありました。それでも書かなかったものが二つあります」


 ユークは紙を見た。


「井戸端と、補いか」


「はい」


---


「井戸端は、その場で書けば書けました」


 彼女は自分の書いた頁へ掌を置いた。


「決まった日に一行入れておけば記録でした。去年と一昨年の分を先の晩に思い出して書いたので、書いた者の言い分になりました」


「補いのほうは」


「数えれば数えられます。掌を石へ当てれば返ってきます。二年半毎日返ってきています。誰も数えませんでした」


 残る一つは線のどちらにも入らなかった。村への配水は村の紙にある。書いてある。書いてある先が村だというだけだ。


「二つは、こちらの落ち度です」


「井戸端はお前じゃない。まとめて承知は取らないと決めたのは俺だ」


「私が書く側です」


「補いも、俺が後だと言った」


 ミレアは言いかけてやめ、線の引かれた紙を胸へ戻した。


---


 炉底から戻る道で、欄が無いことにこちらが助けられた日がある。


 人が助かったことを書ける欄が向こうの様式にも無かったので、こちらの一行は書かれずに済んだ。得をした。それだけだと思って、それきり喜べなかった。


 喜べなかった理由をあのときはうまく言えなかった。


 同じ穴が次に誰の下で開くかは決まっていない。今日は下がこちらだったというだけだ。


「隠したのか、書かなかったのか」


 ユークは坂の下へ目をやった。


「他人が決める前に、こっちで分けておく」


「分けた紙はどうしますか」


「出さない」


「出せば言い訳になりますね」


「なる。分ける先はうちの卓だけだ」


 ミレアは頷いた。


 炉底の若い書役は、正式の様式の余白へ自分で線を引いて欄を一つ作った。上へ出す紙には写せないので、あの帳面にだけ残る。叱られると分かって引いた線だった。


 同じ形のものが、こちらにも要る。要ると思っただけで、今日は線を引かなかった。


---


 土間へ戻ると束はもう紐が掛かっていた。


 三日ぶんの控えが三つ、卓の東の端に揃っている。レンドルは票だけを手元に残していた。


「明朝発ちます」


「返事は」


「私は返事を持ちません。票と控えを本院へ出します」


「いつ返る」


「分かりません」


 彼は票の向きを変えてユークの側へ置いた。


「三つ目と五つ目は、そちらで取れるならお取りください。取れなければそのままで結構です」


「取れないと思う」


「では、そのままです」


---


 書役が灯を寄せた。


 レンドルは最後の一枚を控えへ移しながら、誰へでもなく言った。


「書いていないものは、私には無いのと同じです」


 筆は止まらなかった。


「悪いという意味ではありません」


 ユークは何も返さなかった。


 咎められていない。この人は咎める場所にいない。三日いて、こちらの何一つに良いとも悪いとも言わなかった。


 二年半この砦が守ってきたものは、今日その言い方で数えられた。


---


 灯を落とす前に庭へ出た。


 板は昼のまま落ちている。村へ落ちる水は止まったままで、槽の流れは静かだった。井戸はまだ白いと朝にリクが言っていった。


 シルクスは坂の下の曲がりにいる。網を張り直す刻は三日とも変えていない。


 モルトは日陰から動いていない。上げたのは今朝だ。動きはまだ戻っていない。


 グランは窪みで寝ていた。板越しの返りは半拍ぶん遅いままだ。


 ルーメは布を掛けたままにしてある。壁の脈を写す仕事は待たせたきりで、待たせた日数はもう三十を超える。


 フェズは詰所の戸の前に座っていた。三日のあいだ一度も呼んでいない。


 五体とも今日も持ち場にいた。持ち場にいたことは票の五つの欄のどこにも入らない。門の帳面にも入らない。無登録の魔物を五体、常時。外へ出るのはその一行だけだ。


 働いた分は今日も一行にならなかった。


---


 土間の灯を細くしてから、ミレアが卓の端の綴じを手前へ引いた。


 二枚目の書き直しだった。


 灰環の実物と数字が合うことのほかに、七つの数字がある。そのあとに二つある。二つのうち片方には名を書いていない。


 彼女は紙を卓の中央へ置いて、指を離した。


「……これを、いつ出しますか」


 ユークは紙を見た。


 名を伏せた紙は、書いていないものの多い紙だ。


 書いていないものの多い紙がどう読まれるかは、今日この卓で聞いたばかりだった。

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