第134話 新しい紙にも欄はない
穂先が動いた。
ミレアの声が終わってから半拍あった。書役の一人が控えへ筆を下ろして、動かして止めた。
レンドルは票へ置いた掌をそのままにしている。
「今のは、そのまま書いてよろしいですか」
ミレアの返事が遅れた。
押さえという語をこの卓で出したのは今のが初めてだ。出した先に筆がある。三日のあいだ彼女が言葉を探すのを横で見たのは、これで二度目だった。
「……お書きください」
「書きます」
彼は書役のほうを見なかった。
「その語でしたら先の照合の写しにございます。私の手元へも回っております」
ユークは卓の下で指を組んだ。
あの人は持ち帰ると言った。持ち帰った紙は本院で綴じられて、綴じられたものはこの卓まで下りてきている。伏せていたつもりはない。それでも自分の口以外の場所から同じ語が出たのは初めてだった。
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「では伺います」
ミレアが背を伸ばした。
「この票に押さえの欄は入りませんか」
「入りません」
「欄の数は決まっているのですか」
「決まっておりません。試しの段階ですので増やす余地はございます」
増やす余地はある、と彼は本当に言った。
「ただ、その欄は入りません」
「面倒だからじゃないんだな」
「違います」
レンドルは票の隅を指で押さえた。押さえたまま少し置いた。
「この票は遡りません。作った日より前の土地には付きません。そこまでは今朝申し上げました」
「聞いた」
「遡りませんので、古い紙に空欄は生まれません。……並ぶまでは」
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ミレアの筆が止まった。
「並ぶ」
「十年回します。十年のあいだに土地は入れ替わります。票の付いた土地と付かなかった土地が、同じ棚に並びます」
「並べば」
「訊かれます。この欄が空いている土地は、なぜ空いているのか」
ユークは天井の梁を見た。
十日あまり前に同じ卓で聞いた形と同じだった。空欄には問いが付く。問いは決裁を遡る。あのときはそれが、様式を直した場合の話だった。
今日のこれは直していない。作ったばかりの紙で、去年の分がそもそも無い。
それでも同じところへ落ちる。
「新しい紙だから作れる、というものではありません」
レンドルは票を卓の中央へ戻した。
「新しい紙も、古い紙と同じ棚に入りますので」
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「……欄は、紙の中にあるんじゃないのか」
声に出すつもりはなかった。
「と申しますと」
「二枚並べたときに、初めて欄になるのか」
レンドルは少し考えた。三日で初めて間を置いた。
「そう仰る方もおいでです」
良いとも悪いとも付かなかった。
ユークは票をもう一度上から見た。水。地形。道。戸数。出入り。この紙の中には押さえがどこにも無い。無いものは、この一枚を見ているかぎり誰にも見えない。並べる相手が現れた日に初めて形になる。
欄は紙と紙のあいだにあった。
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ミレアが二の矢を継いだ。
「では、書けない理由を書く欄は」
「それも欄です」
「備考でしたら」
「備考も欄です。名が違うだけです」
「様式の外に添える紙でしたら」
「添えた紙は綴じません。綴じない紙は、次に読む者へ渡りません」
ミレアは口を閉じた。
三つ出して三つとも同じところへ落ちた。持っていないのではない。持っているものが全部同じ壁に当たる。
足りないところを見る方法を自分はまだ持っていない、と彼女が言ったのは先の月だ。方法を一つ作った先に何が待っているかは、あのとき誰も言わなかった。
「いつなら作れる」
ユークが訊いた。
「作れる時はございません」
「十年経っても駄目か」
「十年経てば、十年ぶんが空きます」
答えの速さは前に来た者と同じだった。中身だけが違っている。
「その欄を作るかどうかを決めるのは誰だ」
「本院です」
「あんたは」
「私は写す者です」
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「一つ訊いていいか」
「どうぞ」
「その語が何を指すのかは訊かないのか」
「伺いません」
「知りたくないのか」
レンドルは控えの端を指で揃えた。
「伺えば、伺った者の言い分になります。……それに、伺ったところで入る欄がございません」
訊かれないので答えずに済んだ。
答えずに済んだぶん、この砦がいちばん重いものを抱えていることは三日目の紙にも残らない。安全なのはこちらで、安全なぶん何も残らないのもこちらだった。
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レンドルは頁を繰る手を止めた。
「私が入ってから、欄は二つ増えました」
誰も訊いていない。
「三十年で二つです」
「何の欄だ」
「一つは事故の紙の、運び出しにかかった刻です。もう一つは水利の届けの、届け出た者の続柄です」
自慢でも愚痴でもなかった。数を読み上げるときと同じ高さで、そのあとに何も付けなかった。
ユークはその手つきを知っていた。
確かめれば自分は当主でいられなくなると書いてきた男がいる。理由のところに三代という数を並べていた。動機はまるで違う。数だけ置いて口を閉じる形はよく似ていた。
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湯は今日も朝のうちに卓の端へ置いてある。三日とも同じ場所だ。三日とも誰も手を伸ばさなかった。
レンドルは控えを閉じてから椀を取った。
断りはしなかった。ミレアが半分腰を浮かせて、それから座り直した。
彼は半分ほど飲んで椀を置いた。
「……これは、良い水ですね」
書役の穂先が上がった。
少し置いてから彼は言った。
「今のは書きません」
穂先が下りた。
ユークは椀の縁を見ていた。
この人は三日のあいだ良し悪しを一つも言わなかった。言わないと決めている人が一度だけ言って、自分で消した。消した回数を数えもしなかった。
湯を出すかどうかはこちらで決められる数少ないことの一つだと、ミレアは三日前に言った。決められた一つがようやく届いて、届いたところが紙に残らなかった。
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昼を過ぎて書役の一人が外へ出た。
空き地の樽を数え直して戻ってくる。外で数える先はそれだけだった。
シルクスの糸は昼のあいだに二度震えた。坂の下から上がりかけて途中で引き返した足だ。宿場の者だろう。上げるなとザグレスに頼んである。
モルトは詰所の裏の日陰にいる。村の板が落ちたままなので槽の流れは静かで、底へ入る用がない。グランは坑口の脇から動かない。ルーメは布の下だ。フェズは屋根から庇の影へ移っていた。
五体とも持ち場にいる。三日目にできることは、そこにいることだけだった。
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午後の半ばに手が空いた。
受付台の脇でミレアが控えを胸に抱えたまま立っていた。
「欄は作れないそうです」
「作れないな」
「先の月に伺ったのは、直せば遡るという話でした。今日のは、直さなくても並べば遡るという話です」
「一段外だな」
「外です。私たちが押していたのは紙でした。紙の外に棚があります」
彼女はそこで止めた。
ユークは土間のほうへ目をやった。
欄は作れない。作れないものを二年半頼み続けてきた。頼む相手が変わっても答えが変わらないなら、変えるのは頼み方のほうだ。
欄が駄目なら何が残るか。
考えかけて止めた。まだ形になっていない。形にならないうちに口へ出せば、それこそこの卓で写される。
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束が下げられる前にレンドルは票を手に取った。
向きを変えてユークのほうへ置く。
「記入は現地でしていただきます」
「あんたが書くんじゃないのか」
「写せるところまでは私が下書きを入れます。そのあとはそちらです」
「書けない欄はどうする」
彼は紙の上端を指で揃えた。
「書けない欄は、空けたまま返していただいて構いません」
日取りを告げたときと同じ高さの声だった。
ユークは票を見た。
欄は五つある。五つとも書ける。この紙に書けない欄は一つも無い。
それでもこの人は、空けてよいと言った。
書役が新しい控えを開いた。日はまだ半分残っている。




