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第133話 新しい紙

 朝のうちに樋の先まで下りた。


 板は昨日のまま落ちている。受けの底は乾いていた。村へ落ちる水はここで止まっている。


 止まっているぶん槽の流れは静かだった。雨の来ない日が十二になっても、落とす先がなければ底は舞わない。


 モルトを上げた。三日の限りはもう越えている。越えたぶんは村が昨日埋めた。水から出たこの一体は動きが鈍い。詰所の裏の日陰へ寄せた。当分は戻さない。


 坂の下からリクが上がってきた。桶は提げていない。


「まだ白い」


「底は」


「動いてねえ」


「では今日は汲まないでください」


「汲まねえよ。昨日の分が甕に残ってる」


 リクは道の草を蹴って戻っていった。


---


 土間へ入ると卓の端の紙が表を向いていた。


 厚い。罫の墨が新しい。灰環の綴りに使う紙のように角が擦れていない。裁ったばかりのものだと触れる前に分かった。


 レンドルはもう椅子に着いている。控えの束は三つとも紐が掛かったままだった。三日目の朝になっても解く気配がない。


「これは何ですか」


 ミレアが先に訊いた。


「これから使う様式です」


「今のものではなく」


「今のものではありません。試しに刷った分をお持ちしました」


 彼は紙の向きを卓の中央へ変えた。


「まだ一件も綴じておりません」


---


「土地を落とすかどうかを決める前に、土地の側の見立てを先に付けます」


「見立てと申しますと」


「そこに何があるかです。今は落としたあとに書きます。落とす前には書きません」


「順が逆だということですか」


「逆かどうかは申しません。今はそういう順だというだけです」


 ミレアは紙を動かさずに上から読んでいった。


 水。地形。道。村の戸数。出入りの人数。


 欄はそれだけだった。行の幅も罫の間も揃っている。書役でなくても書ける並びだった。


 ミレアの指が二つ目の欄で止まった。息を吸って、そのまま止めていた。


「……よくできています」


「私が作ったのではありません」


「どなたが」


「様式掛は十一人おります。誰の案かは票に残りません」


「名は」


「〈見立て票〉と申します。仮の名です」


---


 ユークは紙の左端を指で押さえて上から下まで二度読んだ。


 水があるか。地面が下がっていないか。道が通っているか。村に何戸残っているか。人が入っているか。


 北へ三日の村の井戸は、桶に汲んでも底の石が見えなかった。畑の一角が下がっていた。どちらも誰の紙にも入っていない。村の書役の控えに入っていたのは他所への移りに丸が一つだけだ。あの書役は間違えていない。書ける欄がなかった。


 この票なら二行で入る。水と地形の欄に、桶の底の見え方と畑の沈みが入る。


 七つのうちの一つでも落ちる前にこれが回っていれば、止まった村があったかもしれない。


「これはいい紙だ」


「そう仰る方が多いです」


「多いのか」


「今のところお見せした先はどこも同じことを仰います」


 この二年半で外から来た紙を良いと思ったのは初めてだった。


---


「七つの村には付かないのか」


「付きません」


「落ちたあとだからか」


「落ちたあとだからです。この票は遡りません。作った日より前の土地には付けません」


「遡らせないのは面倒だからじゃないな」


「違います。遡れば決裁が開きます。開かない形にしたので作れました」


 十日あまり前に同じ卓で聞いた根と同じだった。言い方だけを変えて戻ってきている。


 うちのは戻らねえ、と老婆は言った。だが、うちのが何だったのか誰も書かなかったってのは書いといてくれ、とも言った。


 この票は書かない。書ける欄はある。書ける欄ができて、そこへ書く相手のほうが過去にいない。


---


「ただ、遡らない紙には拠り所がありません」


「拠り所」


「去年の同じ票と並べられません。並べる相手がないので、書き方は最初の一件で決まります」


 彼は紙の隅を指で押さえた。


「初めに綴じられたものがそのまま見本になります。次に書く者はそれを見て書きます。その次の者も見ます」


「直せないのか」


「直せます。直した記録が残ります。残れば、なぜ直したのかを訊かれます」


「訊かれるだけだろう」


「訊かれるだけです。訊かれるだけのことが十年続きます」


 穂先が動いた。書役は今の遣り取りをそのまま写している。


---


 昼前に一度庭へ出た。


 シルクスは坂の下の曲がりで網の張り直しを終えている。刻は変えていない。グランは坑口の脇で寝ていて、板越しの返りは昨日と同じだけ遅い。ルーメは井戸端の柱の根方で灯を落としたままだった。フェズは詰所の屋根で背を伸ばしていた。


 三日目の庭もいつもどおりだった。いつもどおりのぶんは今日も一行にならない。


---


「なぜうちに見せた」


 椀は今朝も卓の端にある。手は伸びていない。


「土地の側の記録がいちばん厚いところから始めます」


「厚いのか」


「厚いです。二年半で三十二冊。台帳に載っている土地でも、これだけ揃っているところは多くありません」


 ユークは横のミレアを見た。


 この砦の綴りは実際より貧しく見えるように作ってある。作った当人がそう言ったのは四日前だ。貧しく見せるために作った紙が、外から来た者の目には他のどこよりも厚い。


「載っていない土地に検分は回らないと聞いた」


「回りません」


「ならどうして回った」


「この票の用には、一度落としたものを載せ直すかどうかも入っております」


「落としたものを、か」


「はい。そちらは一度落ちております」


 落ちた場所を落ちたままにするか、もう一度並べ直すか。決めるのは票ではない。票はその前に置く紙だ。


「載せ直すのは、こっちに得か」


「得かどうかは申しません」


「なら何が変わる」


「載れば毎年検分が回ります」


 それだけだった。良いとも悪いとも付かない。


---


「あなた方を、この紙の最初の記入例にします」


 声の高さは今までと変わらなかった。


「決まりですか」


「決めるのは本院です。私は写せるかどうかだけ申します」


 彼は紙の上へ掌を置いた。


「……写せます」


---


「使われるのですね」


 ミレアの声だった。


「受ければ、うちのやり方があの票の書き方になります」


「なります」


「書き方になれば、書く者を選びません」


「選びません。誰が書いても同じに読めなければ様式ではありませんので」


 ユークの中で二つが同時に立った。


 自分がいなくても回る形になる。二年半そこを目指してきた。同じ形になった日から、自分は例外を作れなくなる。


 細ったら止めていい。理由は訊かない。あれは条文にすると通らない。通る形に直せば、順は毎年の勘定で決まる。


「載れば名も出るな」


「出ます」


 写しに名を書かず、一枚目も名を伏せて出した。二年使ってきた手だ。載った日からその手は使えない。値を訊きに来る者は、坂の下でもう二人待っている。


---


 ミレアは票の端を押さえたまま動かなかった。


「……断れば、この紙は別のどなたかの型で作られますね」


「作られます」


「作られた紙も回りますね」


「回ります。遅れます。今年には出ません」


「遅れたぶんは」


「その年に落ちる土地が、去年と同じ書き方で落ちます」


 ミレアは口を閉じた。


 断る理由はこちらにしかない。断った損はよそが払う。ひと月足らず前にこの卓で受けたのと同じ形の圧が、まったく別の入口から来ている。


 あのときは守ると言われた。今日は使うと言われた。


 守られるのを断るのと使われるのを断るのは、断り方が違う。


---


 卓の上に新しい紙が一枚ある。


 あの人は山道を下りる前に、増やせるのは新しい紙のほうだと言った。自分では作れないとも言った。分からないと言われた紙が、十日あまりで裁たれて罫を引かれてここにある。


「本当に作ったんだな」


「作りました」


「早いな」


「早くはありません。中身は前からありました。刷ったのが先の月です」


 ミレアが票へ向き直った。


 指を上の欄へ置いて、下へ順に落としていく。


 水。地形。道。戸数。出入り。


 指は紙の下端で止まった。止まる場所がなかったからだ。


 彼女はもう一度上から落とした。同じところで指が余った。


「レンドルさん」


「はい」


「押さえの欄が、ありません」

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