第132話 手が使えない日
雨は十一日降っていない。
門の外へ出ると坂の土が指の腹で崩れた。空は昨日と同じ薄い青だった。雲の切れ端も出ていない。
ユークは坂を少し下りて網の根方へ指を当てた。
返ってきたのは人の足ではない。低い連なりが切れ目を挟んで続いている。
沢の音だった。曲がりの先の斜面を落ちていく水の音を、糸はいつも拾っている。拾っても使い道がないので二年半誰も読んでいない。
今朝は読んだ。
細い。先の月に同じ場所で拾ったときより明らかに細い。晴れているのは坂の上だけではなかった。村が沢まで上がって汲むとしたら、上がった先の水が今この状態にある。
シルクスは糸の交わりで脚を折り畳んだまま動かない。刻を変えていないので張り直しは日暮れまでない。
ユークは指を離して坂を上った。
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土間の席順は昨日のままだった。
レンドルは控えの束の四冊目を開いている。頁を繰る速さも声の低さも昨日と変わらない。書役の穂先が動いて止まる音だけが、朝のうちから規則正しく続いていた。
ミレアは卓の端で朝の水位を控えへ入れた。入れてから筆を置かずに表を見ている。
「また右です」
「二日続けてか」
「右へ寄るのは二日続けてです。下がりはじめは一昨日で、昨日より深いところで底になりました」
ユークは横から表を覗いた。
下がり方に迷いがない。晴れが四日続いたときの形と同じで、その先も知っている。昼を過ぎれば槽の流れが緩む。緩めば底の泥が舞う。舞ったものが村の井戸へ届くまでは半日ほどしかかからない。
直す手なら分かっている。
村へ回している枝の付け根を指一本ぶん緩めれば流れが持つ。盤の前に立って仮認証の感覚を伸ばし、締まりを少しだけ戻す。それで済む。二年半で何十回もやってきた。
ユークは椅子から立った。
土間を出て廊下の突き当たりまで歩いた。壁の手前で足を止めて、それから同じ道を戻った。何をしに出たのかは自分でも言えない。
座り直したとき、書役の一人がこちらを見て控えへ何か書いた。
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昼前に受付台の脇でミレアが訊いた。
「触れば、書かれますか」
声は落とさなかった。落とせば落としたことのほうが目につく。
「書かれる」
「昨日の分にはもう入っています。名のない運用と」
「入ってる。だが書かれてるのは誰の名でもないってところまでだ」
ユークは卓の縁を指の背で叩いた。
「触れば誰の手かが入る」
「……空いた欄と埋まった欄は違いますね」
「違う。空いてるうちは、あれはまだ誰のものでもない」
ミレアは頷いて筆を持ち直した。
二年半、盤の前で手を動かしてきたのはユークひとりだ。書かれた一行は消えない。消えないものを一つ増やす代わりに戻せるのは、井戸の澄み具合が三日ぶんだった。
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昼前にグランの返りが変わった。
板越しに来るのは掘っていい線と掘ってはいけない線の区別だけだ。今返ってきたのは線ではなく重さの偏りだった。
ユークは詰所を出て第五沈殿槽まで下りた。
グランは南の縁で前脚を折っている。角の先で土を二度突いた。
突いた場所が沈んでいた。指の三本ぶんほど。乾きが続いて縁の締まりが抜けている。今日の水量なら越えないが、流れが戻ったときにここから外へ逃げる。
この一体は場所を教える。教えるだけだ。角で押せば沈みは広がる。
ユークは詰所から鍬と板を運んで自分で突き固めた。ミレアが上から石を落として寄越し、二人で縁を作り直した。半刻かかった。終わるころには背中まで濡れていた。
直せた。
直せたが、これは今日いちばん軽い問題だった。
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モルトは朝から底にいる。
流れが緩んだぶん泥は舞う前に沈む。沈んだところを浚うのがこの一体の仕事で、晴れが続けば浚う量が毎日増える。本気で底へ入りはじめたのは水位が下がりだした日からだ。今日で三日目にあたる。
昼を過ぎたころ、浚った量と舞う量が並んだ。
並べば追いつかない。三日までだと村へ言ったのはひと月あまり前で、その三日目が今日だった。
ルーメは布の下に置いたままにした。壁の脈を写す手はこの一体にしかない。写せば紙になる。紙になったものは卓の上へ出る。
フェズは詰所の屋根にいた。朝から一度も下りていない。
五体とも働いている。働いても足りない。足りない一寸を埋める手だけが、この砦では今日使えなくなっている。
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リクが坂を駆け上がってきたのは昼を過ぎてすぐだった。
門の手前で膝に手をついて息を継いだ。
「井戸が白い」
「どのくらいですか」
「桶に汲んだら底の石が見えねえ。朝は見えてた」
ユークは坂の下へ目をやった。
「昼のうちにもう一段濁ります」
「止まるのか」
「今日は止まりません」
リクは息を整えてから顔を上げた。
「ユークさん、直せねえのか」
ユークは答えを口の中で作った。
直せると言えば、その手はどこにあるのかという話になる。直せないと言えば嘘になる。
答えなかった。
リクは待った。待ってから井戸のほうを一度見て、それ以上は訊かなかった。
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オドルが上がってきたのは日が傾く前だった。
桶は持っていない。坂が嫌いだと言った男が、ひと月のうちに二度この坂を上ってきたことになる。
「白くなったな」
「なりました」
「四日目からか」
「今日で三日目です。三日目の途中で追いつかなくなりました」
ユークは先に言った。
「今朝、沢の音を拾いました。先の月より細っています」
「そりゃ聞きたくねえ話だ」
「聞かせないわけにいきません」
オドルは受付台に手をついて坂の下を見た。
「量りが片方だけ重くなってる。腰をやった二人はまだ畑へ出てねえ。この前ので、うちは沢を二度は歩けねえぞ」
「歩けないと思います」
「歩けねえが、泥が溜まってからじゃ月が要るんだろう」
「要ります」
「なら今だ」
オドルは土間の脇へ歩いていった。板は前と同じ場所に立ててある。手をかけて一度持ち上げ、それから落とした。
水の音が変わった。
ユークは口を開いた。開いて何も言わずに閉じた。助かりましたと言えば、今日の判断をこちらが誘ったことになる。
「戻すのはいつだ」
「板はいつでも上げられます。ただ配る量が揃うのは、あの人たちが坂を下りてからです」
「二日か」
「二日です」
オドルは振り返らずに坂を下りていった。
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夕方までにもう一度リクが上がってきた。
水は白いままだが底は動いていない、とだけ言って戻った。舞った泥は途中で止まった。元が切れたので溜まる前に落ち着いた。
ひと月あまり前、井戸端でこの理屈を並べたのはユークのほうだった。
並べた相手が今日それを使った。
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束が下げられる前に、書役が今日の控えを読み上げた。
レンドルは頁の途中で指を止めた。
「今日の水位が下がっています」
「下がった」
「三日続けてです」
「三日続けてだ」
「理由は」
ユークは短く答えた。
「晴れが続いてる」
穂先が動いた。
「雨のない日数は天候の欄に入ります」
入って、それで終わりだった。
「配分は」
「変えていない」
「変えていない、と書きます」
続いて村への回し量の頁になった。
「今日から落ちています」
「落ちた」
「これは、どちらの判断ですか」
「村だ」
レンドルは書役の穂先が止まるのを待ってから顔を上げた。
「理由の欄は空きます」
「空けてくれ」
彼は頷きもせずに次の頁へ移った。
訊かれたら自分の口から言うと決めてある。理由は、と訊かれた。晴れが続いていると答えた。嘘ではない。
嘘ではないものを選んで並べるのは、二年半この砦の紙でやってきたことだった。
都合がよかったと思った自分のことは、書く欄がどこにもない。
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灯を落とす前にユークは庭へ出た。
フェズは屋根から下りて詰所の戸の前に座っていた。今日は一度も呼んでいない。呼ぶ用がなかった。
足の向きを作らせるなら、作る相手が坂を歩いていなければならない。レンドルは門から一歩も出ていない。書役も空き地までしか出ない。導線を敷く場所そのものがなかった。
ミレアが戸口から出てきて同じほうを見た。
「使う場面がありませんでしたね」
「禁じるまでもなかった」
ユークは庇の端を見上げた。
「……だが、決めたことは決めたことだ」
ミレアは何か書きかけて、書かずに帳面を閉じた。
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坂を上がってくる足音がした。
ザグレスは門を潜らずに立ったままだった。煙草は指に挟んだきり口へ持っていかない。
「井戸が白いってな」
「白い」
「上のは知ってるのか」
「数字は見てる。井戸は見てない」
ザグレスは坂の下へ顎をしゃくった。
「宿場では灰環が水を止めたって言い方になってる」
「村が落とした」
「そりゃ下じゃ通らねえよ。栓は砦の側にあるんだからな」
「通らないな」
ザグレスは煙草を耳へ挟んだ。
「あんた、今日は何をした」
「槽の縁を突き固めた」
「それだけか」
「それだけだ」
彼は少し黙ってから背を向けた。
「手があるのに使わねえのは、無いのより疲れるぞ」
彼は坂の途中で一度立ち止まり、それから下りていった。足音は闇の途中で聞こえなくなった。
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土間へ戻ると卓は片づいていた。
束は三つとも紐が掛かっている。書役は明日の分を出していない。代わりに卓の端へ紙が一枚だけ伏せて置いてあった。
厚い紙だった。灰環の綴りに使っているものより固い。近寄らなくても墨の匂いが分かる。乾ききっていない。
ユークは触らずに灯を落とした。
明日あれが表を向く。




