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第131話 写せません

 卓は昨日の並びのままだった。


 東の端に控えの束が三つ。西へ灰環の綴りを積んで、あいだに書役が二人座る。真ん中の椅子だけが空いていた。


 レンドルは日が指二本ぶん上がってから土間へ出てきた。挨拶はない。椅子を引いて腰を下ろし、積みの上から三冊目へ手を伸ばした。


 目録の順ではなかった。


 ミレアが浅く息を吸ったのが横で分かった。三十二の背のどれから開かれるかは昨夜のうちに誰にも読めず、彼女は五通りまで並べ替えを考えていた。開かれたのはそのどれでもない。


「水位の控えです」


「拝見します」


 水差しは朝のうちに卓の端へ置いた。日が高くなっても椀の位置は変わらなかった。


---


 彼は頁を繰るのが速くない。


 指の腹で端を送り、途中で止める。止めた場所の日付と欄の名だけを書役へ言う。声は低く二度は言わない。穂先が動いて止まる。それだけが半日続いた。


 その手つきをユークは知っていた。


 十二日ほど前に同じ卓へ着いた人も、同じように指を止めて、止めた場所を短く言った。あのときも書役は二人いた。手つきは同じで、あとは何もかも違う。


---


 昼前にミレアが写しの側へ目をやったまま動かなくなった。


「どうした」


「短すぎます」


「何がだ」


「穂先の止まっている間です」


 彼女は膝の上で指を二度折った。


「二年半、自分が一行にどれだけ書いてきたかは覚えています。あの間では日付と数しか入りません」


 ユークも書役の手元を見た。見ても字は読めない。読めなくても、動いて止まるまでの長さなら分かる。


 ミレアは卓の向かいへ向き直った。


「一つ伺ってよろしいですか」


「どうぞ」


「先の月の三日は配分を細らせています」


「拝見しました」


「理由はその下に書いてあります」


「書いてあります」


「写されませんでした」


「写しません」


 レンドルは頁を戻した。戻す手もやはり速くない。


「よく書かれています」


 ミレアは黙った。


「ですが、この形では入りません」


---


 入らない理由を彼は順に言った。


 配分の様式にある欄は日と量だけである。細らせた理由を書く欄は次の紙にあって、次の紙は事故の紙である。


「事故ではありません」


「事故ではありません。ですから入りません」


 ミレアが半歩前へ出た。


「こちらの綴りは日付の順だと昨日申し上げました」


「伺いました」


「同じ日の出来事を二つの綴りへ割らないためです」


「割れば私の手が入ります」


 彼は控えの端を指で揃えた。


「割る場所を決めるのは割る者です。私が決めれば、その先はこちらの言い分になります。ですから割りません」


「割らなければ」


「入りません」


 ミレアの喉が動いた。


 ミレアは口を開かなかった。反論の筋道はいくつも立つ。だがどれも今ある様式の内側で組んだもので、相手が守っているのは様式より前の筋だった。


---


 昼の休みに土間を出て、二人で受付台の脇に立った。


「褒められました」


「褒められたな」


「あれは、落とすときの言い方です」


 彼女は塀の外の木を見ていた。


「怒鳴られたことなら何度もあります。数字が違うと言われたこともあります。どちらも直せます」


「今日のは直せないか」


「直す先がありません」


 ユークは黙って聞いた。


 跨いだままの形で綴じると決めたのは彼女で、あの判断は今も正しい。正しいことと入ることは、この卓では別の話だった。


 炉底では、書けないものが書かれないまま帳面が閉じられなかった。ここは逆だった。書いてある。書いてあるのに、写す先がない。


 書けないのは向こうの紙の話だった。写せないのは、こちらの紙の話として返ってくる。


---


 午後に筆が三度止まった。


 一度目は村への配水だった。


「回した量が日ごとにあります」


「あります」


「取り決めの紙はどちらに」


「村です」


「写しは」


「ありません。村が持つと決めました」


 穂先が上がったまま下りてこなかった。


「これは、どこの様式ですか」


「どこの様式でもありません」


「では、差出のない取り決めです」


 ミレアがすぐに返した。


「差出はあります。村と砦です」


「取り決めの差出は、様式を持つ側に付きます」


 レンドルは顔を上げなかった。


「どちらもお持ちでないので、付きません」


---


 二度目は名だった。


「仮の管理者と伺いました」


「そうだ」


「台帳の欄は空いています」


「空いてる」


「では、この運用は誰の名で行われていますか」


 ユークは答えを探した。


 探すまでもなかった。二年半、探しても無かったものだ。


「俺がやってる。名はどこにも載ってない」


「載っていない、と書きます」


 少し置いてから彼は続けた。


「名のない運用、になります」


 穂先が動いた。動いて止まるまでが今日でいちばん短かった。


---


 三度目は群れだった。


「魔物のことを伺います」


「聞いてくれ」


「常時、五」


 ユークは口を開いた。


 必要なときだけだ、と言いかけて止めた。言えば通る。通ったあとで庭を見られれば、通したことのほうが残る。


「五だ」


「常時、と書いてよろしいですか」


「常時だ」


 ミレアが横から足した。


「五体の働きは日ごとに取ってあります。網の張り直し、槽の底浚い、坑口の見回りです」


「その欄はありません」


「一行でも入りませんか」


「一行なら入ります。無登録の魔物を五体、常時。そのあとが入りません」


 彼女は言い直そうとしてやめた。


 昨日の朝に自分の口から出た行が、そのままの形で外の紙へ移っただけだった。


---


 日が傾くまで庭はいつもどおりだった。


 シルクスは坂の下の曲がりで網を張り直している。刻を変えていないので、書役の一人が空き地へ出た時分にちょうど糸が震えた。震えたことはこちらにしか分からない。


 第五沈殿槽ではモルトが底へ潜ったまま上がってこない。晴れが続いて流れが細っているぶん、浚う手間は昨日より長くかかっていた。


 坑口の脇でグランが寝そべっている。ルーメは布の下で光らない。


 書役は樽の数を数え、屋根を見上げた。庇の端で毛を舐めているフェズのところで目が止まって、それから控えへ何か書いて中へ入った。


 網が拾ったものは紙にならない。槽の底の泥も紙にならない。五体は今日も朝から動いていて、動いたぶんはどこにも残らない。残るのは屋根で毛を舐めていた一行だけだ。


---


 夕方にザグレスが上がってきて、門の外の石へ腰を下ろした。


「今日は何を見てった」


「紙だ」


「三日ぶん紙を見て帰るのか」


「帰る」


 彼は煙草を口の端へ挟んで、火は点けなかった。


「宿場じゃ、もう登録されたことになってる」


「まだ何も決まってない」


「決まってねえのは知ってる。決まる前に値を訊いてくる奴が二人いた。今年の石屑がいくらで出るかとよ」


 立ち上がって膝を払い、それだけ置いて下りていった。


---


 束が下げられたのは日の落ちる前だった。


 今日開いたのは六冊で、三十二のうちの六冊だった。


 枝のことは訊かれなかった。


 昨日、訊かれたら自分の口から言うと決めた。決めたとおりに待っていた。誰も訊かなかった。


 訊かれなかったことは写らない。写らないものは無い。


 ユークは卓の下で指を組んだ。今のところ、あれは無いままだ。


---


 灯を落とす前にミレアが自分の綴りを開いた。


 開いたまま、しばらく頁を送らなかった。


「私は、書くべきものを書いてきたと思っていました」


「書いてる」


「はい」


 彼女は行の頭を指でなぞった。


「書いています。書いたところが、写らないだけです」


 ユークは何も言わなかった。


 言えることがあるとすれば、その形にしたのは正しかったという一つだけで、それは今日いちばん役に立たない言葉だった。


 ミレアは筆を取って今日の水位を入れた。


 入れてから穂先を上げずに止まった。


「谷が右へ寄りました」


 ユークは表を覗いた。折れの底が昨日より半分ぶん低い。


 雨は十日降っていない。晴れが続けば余りが減る。減れば枝の締まりを緩める。緩める手は、この卓の内側にある。


 戸を開けると外の風は乾いていた。


 明日も晴れる匂いがした。


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