第130話 確かめない人
網が動いたのは日の出からいくらも経たないうちだった。
坂の下の曲がりで一度。間を置いて二度。糸の震え方で人数までは出ない。出るのは間だけで、その間が二つと一つに割れていた。
ユークは門を開けたまま受付台の脇に立った。ミレアは目録を胸の前で抱えている。
「二つと一つだ」
「三人と伺っています」
「三人だ。一人だけ遅れてる」
---
木の間から先に出てきたのは若い男が二人だった。腰に筆の入れ物を提げている。
二人は空き地の手前で荷を下ろした。下ろしてから会釈をした。
「王領台帳方です」
「伺っています」
一方が荷の紐へ手をかけて、それから手を離して空き地のほうへ歩いていった。積んだままの樽の前で足を止める。口の中で数を数え、控えを開いて写した。
それから戻ってきて紐を解いた。
ミレアは目で追ったが何も言わなかった。ユークも言わなかった。数を数えるのがこの人たちの仕事で、まだ何も始まっていない。
---
三人目は間があってから上がってきた。
五十半ばの男だった。旅装は書役と同じもので、袖にも裾にも坂の土が上がっている。門の手前で足を止め、片手を膝へ置いて息を整えた。
整えるのに時間をかけた。
終わるとそのまま歩き出した。
埃は払わなかった。
ユークは動かずに見ていた。炉底の山道を上ってきた三人は、戸を叩く前に肩と袖を掌で払った。襟の内側へ指を入れてもう一度払った。決まった手順の動きだった。
この人にはその手順がない。
「王領台帳方 本院 様式掛のレンドルと申します」
息の残った声だった。名乗りのほかには何もつかなかった。
「灰環の管理をしている。ユーク・フェルドだ」
「ノストと申します。記録と外向きの一切を預かっています」
「三日いただきます」
---
土間へ通す前にミレアが目録を差し出した。
「本日お見せするものの目録です」
レンドルは受け取って上から下まで一度だけ見た。
「こちらの綴りは様式の順ではなく日付の順に綴じてあります。同じ日の出来事が二つの綴りへ分かれないようにしたためです」
レンドルは頷かなかった。書役の穂先へ目を落としてから顔を上げた。
「今のは、そのまま書いてよろしいですか」
ミレアの口が半分開いた。
「……そのまま、と申しますと」
「いま仰った言葉です。私が言い換えれば、それは私の言葉になります。写すなら仰ったとおりに写します」
彼女は目録を持ち直した。
持ち直してから同じことをもう一度言った。今度は前より短かった。書役の穂先が動いて止まった。
ユークは横で見ていた。二年半、この人の書いた紙を何百枚も見ている。言葉に詰まったところは数えるほどしか見ていない。
そのまま書いてよいものなど、口から出た言葉には一つもない。
---
「一つ訊いていいか」
「どうぞ」
「前に来た人は来ないのか」
レンドルは荷の紐を膝の上で巻いた。
「照合を済ませた者が続けて検分に入りますと、照合と検分が一つの手に入ります。分けるのが様式です」
早かった。考えて出した答えではなく、訊かれるまでもなく決まっている類のものだった。
「あの人が何かしたわけじゃないんだな」
「存じません。手続きの話です」
ユークはそれ以上訊かなかった。
誰も罰していない。誰も間違えていない。正しい理由であの人はこの坂の外にいる。
---
卓に着く前にレンドルは先に告げた。
「三日のあいだ私は砦から出ません」
「出ない」
「はい。奥へは参りません。坑も見ません。下の村へも降りません。井戸も見ません」
ミレアの手が止まった。
「見なくていいのか」
ユークが訊くと、彼は初めてこちらの顔をまっすぐ見た。見たのは短かった。
「見たものは書けません。見た者の言うことになりますから」
「見たほうが正しく書けるだろう」
「私が見て正しいと思ったことは、私が正しいと思ったという記録になります。次にこれを読む者はここにおりません」
彼は控えの束を卓の端へ寄せた。
「様式は誰が読んでも同じに読めなければ様式ではありません」
---
ミレアが半歩前へ出た。
「土地の検分は現地の確認を経るものと様式にあります。第四項です」
「あります」
「では」
「その項は、今はそう書きます」
彼女の言葉が途中で止まった。
「……今は、と仰いましたか」
「申しました」
レンドルは控えを開いた。
「次の様式に同じ項が入るかどうかは、私には申し上げられません」
ミレアは口をつぐんだ。
押し返す言葉なら彼女はいくつも持っている。持っているのは今ある様式の言葉で、相手はその様式が変わる側にいる。
---
昼前にザグレスが上がってきた。門の外の石へ腰を下ろして、中を覗く格好のまま動かない。
「爺さんのほうは何だ」
「様式掛だそうだ」
ザグレスは煙草に火を点けずに口の端へ挟んだ。土間の戸が開いて、書役の一人が控えを抱えて出てきてまた入っていった。
「怒鳴らねえ」
「怒鳴らないな」
「値踏みもしねえ。褒めもしねえ」
彼は煙草を指へ戻した。
「……あれは、こっちを見てねえぞ」
「何を見てる」
「紙だ。俺が見てきた役人はだいたい人を見る。金づるか厄介事かのどっちかでな。見られりゃ腹は立つが、腹の立つ相手には言い返せる」
彼は立ち上がって膝を払った。
「坂の下に三人ばかり張ってる。宿場の連中だ。検分の話を聞きに来たやつらだ」
「上げないでくれ」
「上げねえよ。下で聞いてる。上がるのは一日に一度だ」
坂を下りる背は途中で一度も止まらなかった。
---
昼を過ぎて目録が返ってきた。折り目も付いていない。
ミレアはそれを裏返してからまた表へ戻した。
「最後の行で止まりませんでした」
「三十二冊目です。背に字を入れたのは昨夜です」
「訊かれなかったか」
「訊かれません。開く順は向こうが決めます。今日はあの束の番ではないというだけです」
書役の一人が土間から出てきて、詰所の屋根を見上げた。
フェズが庇の端にいる。日向で背を伸ばして毛を舐めていた。
書役はしばらく見上げていた。それから控えを開いて何か書き、また入っていった。
ユークは呼び戻さなかった。いつもどおりにさせると決めたのは昨日だ。隠せば隠したことが一行になる。いつもどおりなら、いつもどおりが一行になる。
なる、と決めたのはこちらで、どんな一行になるかを決めるのは向こうだった。
---
午後になってユークは自分の息が楽になっていることに気づいた。
この人は下りない。中枢へは誰も入らない。深いところの形も脈の通り方も、三日のあいだ紙の上へ出ない。いちばん重い一つが、始まる前から見られずに済むと決まっている。
卓の上の一覧の一つ目は、開かれる前に安全になった。
望んだ形ではなかった。
押さえを見せずに済むのは、この人が確かめない人だからだ。確かめる人が坂を上ってきていたら、こちらは三日ぶん息を詰めていた。息が楽なほうを喜んでいる自分がいる。
同じ理由で井戸の底も紙にならない。槽の音も、網の張り方も、村の桶の順も紙にならない。昨日リクが言ったのは、いま底の石がいちばんよく見えるということだった。見に来る者はいない。
この砦の二年半は、三日のあいだ一行も外へ出ない。出ないぶん安全で、安全なぶん何も残らない。
---
湯は昼のうちに出した。
こちらで決められるのは湯を出すかどうかだけだとミレアが言ったのは三日前だ。彼女は言ったとおりにした。
椀は卓の端に置かれて、日が傾くまでそこにあった。
レンドルは手を伸ばさなかった。断りもしなかった。控えを繰る手の脇で湯気だけが細くなっていった。
---
夕方に荷がほどかれた。
控えの束が三つ出て、書役が卓の端へ順に積んだ。明日から開く分だという。
レンドルは紐を巻き取りながら、思い出したように言った。
「そういえば、こちらへ伺うようにと書いてきたのは前の検分の者です」
ユークは手を止めた。
「回してよいという紙を、あの人が書いたのか」
「私は紙を見ておりません。回ってきた順で申し上げますと、そうなります」
彼はそれきり束の一つを開いた。訊き返す気配はなかった。良いとも悪いとも言わない。順を言っただけだった。
ユークは戸口の外へ出た。
山道を下りる前に、あの人は新しい紙のことを言った。言ってから、自分では作れないとも言った。
その人が、こちらへ検分を回す紙を書いていた。
引き継ぎのつもりだったのかもしれない。こちらのためだったのかもしれない。どちらでもない仕事の順だっただけかもしれない。
訊く相手はもうこの坂にいない。
卓の上の束の背には昨夜入れた字がある。書いていないもの。読む人は隠したと読みます、とミレアは言った。
その背を明日読むのは、こちらを見ていない人だった。




