第129話 見せられないものを数える
朝のうちに綴りを全部出した。
卓に載りきらず床へ二列並べた。二年半ぶんある。革の背が揃って並ぶと低い壁のように見えた。
ミレアは端から順に背へ手を当てて数えていった。
「三十一冊です」
「厚いな」
「厚いです」
彼女は昨夜まとめた束を最後に置いた。指の腹ほどの厚みしかないものが三十一冊の脇へ並ぶと紙屑にしか見えない。
「名前の話ですが」
「先に数える」
ユークは白紙を引き寄せて硯を近くへ寄せた。
「中身の分からんうちに背へ字を入れると、書いた字のほうへ中身が寄る。名は最後だ」
ミレアは言いかけてやめた。やめた顔は納得した顔だった。
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書いていないものを挙げてくれと言うと、彼女は迷わなかった。
「中枢の並びです。押さえのことも」
ユークは紙の左端へ一と書いた。
深いところの形と脈の通り方は写しにも一行も入れていない。入れれば外し方の見本になる。決めたのは二年前で、迷う余地はどこにもなかった。
「二つ目は五体です」
「働きは日ごとに取ってあるだろう」
「取ってあります。取ってあるのはうちの綴りです。外の様式には、迷宮で魔物を使っている欄がありません」
彼女の指が頁の途中で止まった。
「写せる形に直すと一行になります。無登録の魔物を五体、常時」
「そこで切れるのか」
「切れます。何をしていたかは、その行のあとに入りません」
ユークは二と書き足した。
「三つ目は村への配水だ」
「取り決めの紙は村にあります。こちらに写しはありません」
「作らなかったんじゃない。村が持つと決めた」
「はい。ですから様式で言えば、差出のない取り決めです」
四つ目は自分のことだった。
仮認証の感覚を細く伸ばして枝の付け根の締まりを緩める。運用表に書いてあるのは配分が通常か細りかだけで、誰が締めたのかを書く欄はどこにもない。二年半それで済んできた。
「四つ目は俺だ。枝を触ってることを書いていない」
「書けば」
「無資格の人間が迷宮の機構を動かしたと読まれる」
「読まれます」
五つ目でミレアの筆が止まった。
「井戸端です」
「昨夜写しただろう」
「写しました。写したのは去年と一昨年の分を、私が思い出しながら書いたものです」
彼女は自分の書いた頁へ掌を置いた。
「決まったのは声です。承知したのも声でした。あとから書いた紙は、書いた者の言い分にしかなりません」
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五つ書き終えてユークは紙を上から下まで眺めた。
一つ目は書かないと決めた。二つ目は欄がない。三つ目は村のものだ。四つ目は書けば読み違えられる。五つ目は声で決まった。
書かなかったのは一つだけで、残る四つは書けなかった。
並べると見分けがつかない。どれも同じ顔をして空いている。
「貧しく見えるどころではありませんね」
「そう作った」
「作りました。……作ったのは私です」
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「出せない、を二つに分けます」
ミレアは白紙の右側へ縦線を引いた。線の左へ一つ目と二つ目が寄る。
「出せば誰かが危ない紙です。押さえと五体」
線の右へ三つ目と五つ目が移った。
「出せば意味が変わる紙です」
「変わるか」
「変わります。井戸端の取り決めを様式へ入れれば、取り決めは条文になります」
ミレアは筆の尻で紙の端を軽く叩いた。
「条文は一度受理されれば翌年も同じ形で回ります。一日ずつ決め直す形は残りません」
ユークは椅子の背へ体を預けた。
二年前にあの井戸端で言ったことがある。まとめて承知は取らない。決めるのは払う側だ。
あれを紙にして役所の様式へ落とせば、紙の上ではまとめ承知と同じ顔になる。言葉が残って中身だけ抜ける。十日ばかり前に卓の向かいで見たばかりの手つきだった。
「危ないほうは出しません。意味が変わるほうは、こちらでは決められません」
「村だな」
「村です」
「四つ目はどっちだ」
「どちらにも入ります」
「なら俺の口から言う。訊かれたらだ」
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昼を過ぎてから坂を下りた。
行けば砦の使いだ、とザグレスは言った。そのとおりだと思う。だが使いをやれば、村は使いの持ってきた話として受け取る。決めるのは村だと言いに行く役は、こちらが自分で行くほかない。
十日ばかり雨がない。道の土が白く乾いて足の裏で粉になった。
井戸端では女が二人で桶を並べていた。片方が会釈をして、もう片方は坂の上へ目をやった。国が来るという話はここまで届いている。
オドルは畑の縁の石に腰かけていた。
「上まで行かずに済んだな」
「こちらから来ました」
「そりゃいい。俺は坂が嫌いだ」
用件は減るほうから言った。順番はこの井戸端で覚えたものだ。
「明後日の朝から役所が上がってきます。土地の検分です。そちらの帳面にある配水の取り決めを、見せろと言われる目があります」
「見せたらどうなる」
「そのまま写されます。写された取り決めは、あちらの様式のどれかへ入れられます。入れば名前が変わります」
「名前が変わったら、うちの井戸の水は減るのか」
「減りません。堰の話も出ていません。作る紙も作らせる者もいません」
「なら大した話じゃねえ」
「減りません。減らさないと決めた重さのほうが変わります。いまは一日ずつそちらが決めています。様式に入れば、順は毎年あちらの勘定で決まります」
オドルは膝の上で指を組んだ。組んでから鼻で息を吐いた。
「うちの紙はうちのだ」
言い方は短かった。
「見せろと言われりゃ見せる。渡せと言われたら渡さねえ」
「見せるのはいいんですか」
「うちの帳面に、見られて困ることは一つも書いてねえ。書いてあるのはいつ細らせて誰が承知したかだ。承知したのはこっちだぞ」
オドルは坂の上へ顎を向けた。
「困るのはあんたのほうだろう」
「困ります」
「じゃあ余計に見せる。うちが承知して細らせたって字が、そっちの言い分になるならな」
ユークは頭を下げた。下げてから、礼を言う場面ではないと気づいた。この人は灰環のために決めていない。自分の村の紙をどう扱うかを決めただけだ。
桶を提げたリクが上の道から下りてきた。
「明後日か」
「明後日の朝です」
「水を見に来るのか」
「紙を見に来ます」
リクは桶を井戸の縁へ置いて中を覗いた。
「じゃあ井戸は見ねえのか」
「見ないと思います」
「もったいねえな。いま底の石がいちばんよく見えるのに」
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砦へ戻ると日が傾いていた。
「群れはいつもどおりにさせる」
ミレアは受付台の帳面を閉じた。
「隠されないのですね」
「隠せば、隠したことが一行になる。いつもどおりなら、いつもどおりが一行になるだけだ」
網はいつもの曲がりまで張ってある。シルクスに張り直させるのは朝と日暮れで、その刻も回数も検分の三日は変えない。
モルトは槽の底にいる。雨がないぶん流れが緩く、底の泥は舞う前に浚わせておく。三日ぶんの猶予はこの一体が作っている。
グランは坑口の脇の窪みで寝ていた。板越しの返りは半拍ぶん遅いまま戻らない。重い石を持たせるのは当分やめてある。
ルーメは布の下でまだ光らない。壁の脈を写す仕事は待たせたままだ。
フェズは、と考えたところでユークは手を止めた。
ミレアが先に口を開いた。
「一つだけ先に伺います」
「言え」
「順路のことです」
それだけで足りていた。
あの一体は人の足の向きを作れる。見せたくない場所へ寄らない道を、匂いと音だけで一本引ける。誰も言い出さないまま、その手はもう卓の上に載っている。
「使わない」
「はい」
「道徳の話じゃない。一度でも足の向きをこっちで作ったら、そのあとにこっちが見せる紙は全部その下へ入る」
「疑いの下ですね」
「そうだ。見せた紙まで疑われる。……隠すな。見せられないものは、見せられないと言え」
ミレアは筆を取り、少し置いてまた下ろした。
「訊いてよかったです」
「訊かなきゃ使ったか」
「使いません。ですが、使わないと決めた者がどこにもいない状態になります」
その差は分かった。決めていないものには、いつか誰かが必要に迫られて手を伸ばす。
フェズは詰所の屋根の上にいた。日暮れの風で尾の毛が逆立っている。呼ばずに中へ戻った。
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日が落ちてから一覧を清書した。
紙は一枚に収まった。
二年半この砦を回してきたものの半分が、様式の側から見れば一枚の裏まで届かない。書き上がった紙は前進の顔をしていなかった。この一覧が言っているのは要するに、この砦がどれだけ紙の外で回っているかということだけだ。
「隠している束、と読まれない名前が要ります」
「そんな名があるか」
「ありません」
ミレアは束の背へ指を当てた。
「名を付けなければ目録に載りません」
「無いことにはできない」
「はい」
ユークは束を手前へ引いた。
「書いていないもの、でいい」
「……そのままですね」
「そのままだ。隠したとも書けなかったとも言ってない」
「読む人は隠したと読みます」
「読むだろうな」
彼は束を彼女の側へ戻した。
「無いことにするよりましだ」
ミレアは細い筆へ持ち替えて背へ字を入れた。乾かしてから目録の最後へ一行足した。三十二冊目になった。
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灯を落とす前に彼女の手が止まった。
「ひとつ、どちらにも入らないものがあります」
ユークは戸口で振り返った。
「危ないほうでも、意味が変わるほうでもありません」
「何だ」
「五体が毎日どれだけ補われているかです」
言われるまで、それが一覧に載るものだとは思っていなかった。
灰環の中にいるあいだ、五体は流れから絶えず補っている。外へ出れば止まる。二十一日であそこまで鈍った。炉底の坂道で自分が数え上げた理屈で、そこまでは去年から分かっていたことだ。
「戻りきってないな」
「戻っていません。戻る速さも、私たちは知りません」
彼女は空いた紙の端を指で押さえた。
「書いていません。書けないのでもありません。誰も数えたことがないのです」
ユークは戸の外の暗がりを見た。坂の下の道は黒く沈んでいる。
「後だ」
「はい」
「明後日の朝までに要るものじゃない」
言ってから、自分でも雑な返事だと思った。だが検分は明後日で、卓には名の付いたばかりの束がある。順番はもう向こうが握っている。
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寝る前に槽の縁まで下りた。
水面は暗い。流れの音は昼と同じだけしている。
掌を石へ当てると重さが返ってきた。昨日と同じ重さだった。二年半、毎日返ってきている。
数えたことは一度もない。
書いていないものの一覧は、もう束になって卓の上にある。見せられないものは見せられないと言うほかない。
言う相手の名を、こちらはまだ知らなかった。




