第127話 欄を一つ
詰所に灯は一つしか残っていなかった。
夜番が下りたあとの卓は広い。その広いところへケイスが座って帳面を開いていた。筆は硯の縁に置いたきりだった。
ミレアが湯の残りを椀へ移して卓の端へ置いた。ケイスは頭を下げたが手は伸ばさなかった。
開いた頁には日付が入っている。坑口も段も入っている。白いのは理由の欄だけだった。
ケイスが口を開いた。
「明日、月の紙を出します」
ユークは戸口の腰掛けへ腰を下ろした。
「出すには帳面を閉じないといけません。閉じるには、この四日を書かないといけません」
「書けないんだな」
「書けません」
---
「様式のどこにも入りませんか」
ミレアは向かいへ腰を下ろしていた。
「入りません。事故ではありませんし、天候でも人手でもありません」
ケイスは欄の名を指で順に押さえていった。指は最後の欄で止まってそこから先へ行かなかった。
「差配の判断と書けば中身を訊かれます。答えられなければ、答えられなかったと書かれます」
「書かずに出したら」
「理由なしの減産になります。理由なしは来年の等級に響きます」
灯の芯が縮んで卓の隅が暗くなった。
ユークは黙っていた。
閉じられない帳面は上へ出せない。出せない紙は商いを止める。数えられないものの前で帳面が止まるのを、この坑ではもう四日続けている。
ケイスが目を上げた。
「灰環では、こういうときはどうされているのですか」
訊かれるだろうとは思っていた。
「言えない」
若い書役はまばたきをした。
「意地悪で言わないんじゃない。俺が何か言えば、この坑の紙に俺の名が入る。入った紙は来年別のことに使われる」
ユークは指を組んだ。
「野良の穴が登録迷宮の帳面を書き換えたと読まれたら、あんたの首も差配の首も一緒に飛ぶ」
ケイスはミレアのほうを見た。ミレアは膝の上で手を重ねたまま動かさなかった。
「私も同じです。申し上げません」
---
それから長かった。
ケイスは頁を見ていた。見ながら綴じ糸を指で弾いていた。弾く音だけが二十回ほど続いた。
やがて彼は筆を取った。
書いたのは欄の中ではなかった。一番下の欄のさらに下に、まだ罫の入っていない余白がある。彼はそこへ定規を当てて線を一本引いた。
線の左の端へ字を入れる。
ユークは紙の上へ目を落とした。
――鳴り。
「量は書けません」
穂先は紙から離れなかった。
「石の量なら数えられます。鳴りは数えられません。……ですから聞いた回数だけ書きます。日付と、切羽の位置と、聞いた者の名です」
「証しにはならんぞ」
「なりません」
彼は次の行へ移った。
「ですが来年また量が落ちたとき、この頁を繰れば同じ字が並びます。並べば誰かが繋げます」
---
「上へ出す紙には写せないな」
「写せません。様式にありませんので、写せば差し戻されます」
ケイスは書き終えた行を見下ろした。
「こちらにだけ残します」
「叱られるか」
「叱られます」
彼は初めて椀へ手を伸ばした。冷めた湯を一口飲んでから小さく息を吐く。
「ですが、叱られる理由なら書けます。……四日ぶんの理由は書けなかったのに、妙な話です」
ユークは何も言わなかった。
言うことがなかったのではない。この若い書役が今やったことへ、こちらから足せるものが一つもなかった。
---
翌朝、サヴィルが詰所へ来た。
ケイスが頁を開いて見せると、彼は肩越しに長く覗いていた。それから小屋へ戻って油紙の包みを提げてきた。
欄のない帳面だ。日付があって、書きたいことが書きたい長さで書いてある。
彼はその日の行の下へ線を引いた。この帳面に線が入るのは初めてらしかった。定規がないので坑木の切れ端を当てていた。
「役所は分けたがるが、商いは分けられん」
ユークは手を止めた。
同じ言葉を前に聞いている。採った量と井戸の水位と街道の荷の値を同じ頁に並べた男が、ちょうど同じ順で言った。
「誰かに聞いたのか」
「誰にも聞いてねえよ」
サヴィルは炭を持ち直した。
「坑の人間はだいたい同じことを言う。分けて書いたら損をするからだ」
ミレアは自分の綴りへ掌を置いたまま開かなかった。
あとで理由を訊くと、控えるが持たないと言った。見たことは覚えるが灰環の綴りへは写さない。写せばこちらが書かせたことになる。
---
その日の午後、サヴィルはユークを詰所の裏へ呼んだ。
別の包みから出てきたのは炭で写した紙だった。折り目が四つある。折り目のところの字が擦れていた。
「奥の古い切羽だ。三年前に捨てた。俺しか入らねえ」
紙には壁がそのまま拾ってあった。継ぎ目のある石。石の面に彫ってある字。
誰かが応えたのではない。前からそこにあったものを人が炭でなぞっただけだ。
「読めるやつがいたら訊こうと思ってた。……十年持ってた」
ユークは紙を明るいほうへ向けた。
一つ目。接続。
二つ目。循環。
三つ目で指が止まった。
灰環の並びなら、ここは配分だった。同じ字ではない。似てもいない。
四つ目に当たる位置にも彫りがある。線が三本と跳ねが一つ。それだけだった。
「読めるか」
「二つは読める。三つ目は読めない字だ。四つ目は一画も分からない」
サヴィルが鼻を鳴らした。
「半分か」
「半分だ」
---
紙を返す前に、ユークは自分の手つきをもう一度疑った。
灰環の四つ目は鎮だった。だからここも鎮だと、さっき一瞬だけ思いかけた。
その癖には覚えがある。配分こそ灰環の仕事だと二年思い込んで、つい先に剥がされたばかりだ。並びが同じところまでで先も同じだと決める目が、あのとき何を見落としたか。
水を配っていない穴が、配分と同じ字を持っているはずがない。当たり前のことだった。当たり前のことを危うくまた飛び越えるところだった。
「読むのはやめとくか」
サヴィルが訊いた。
「読むには元手が要る」
ユークは紙を畳んで渡した。
「うちは中枢まで下りるのに二年かかった。下りているあいだ、村へ回す水が細った。読むと決めた日からどこかが細る。……どこが細るかは、ここの人間にしか分からない」
「決めろってのか」
「今は決めなくていい。決めるのがあんたたちだと言ってる」
サヴィルは包みを結び直した。結び終えてから紙を胸の内側へ入れた。
「……今は決めねえ」
---
発ったのは翌朝だった。
荷は行きより軽い。それでも歩きは行きより遅かった。
樽の中のグランは板越しの返りが半拍どころではなくなっている。ルーメは布の下でもう光らない。脈を写すことはまだできるはずだったが、ユークは頼まなかった。
五日目の昼に坂の下の道へ入った。
入ってすぐ、板へ当てた掌の下から間が消えた。重さがまっすぐ返ってきた。
灰環の流れはこの道のどこかまで届いている。どこまでかを測ったことは一度もなかった。
出て二十一日になる。連れて出られる見当より十日多い。
---
坂を上りきると門は開いていた。
ザグレスは受付台の内側に座ったまま煙草を口から外した。
「遅えぞ」
「遅くなった」
台の上に石が載っている。石の下に紙が二枚。上が封で、蝋の紋は割れていなかった。
「開けてねえ」
「聞いてる。……先触れの二人だな」
ザグレスの眉が動いた。
「知ってんのか」
「本人に会った。炉底にいた」
彼はしばらく黙ってから煙草を台へ置いた。
「先に着いたのは人のほうか」
「人のほうだ」
封を切ると中は短かった。王領台帳方が近く土地の検分に回る。その折に灰環へも立ち寄りたい。日取りは追って知らせる。差出は書役の名で、検分官の名はどこにもなかった。
急ぎませんと言った男は正しかった。急ぐ必要がなかったのは、書かせた側の人間がもう坂の外を歩いていたからだ。
「三日早く読んでたら、何か変わったか」
「変わらねえな」
ザグレスは煙草を拾って火のない先を見た。
「変わらねえが、俺は知っといたほうがよかった」
椅子が鳴った。
「もう座らねえぞ。三日前に知ってなきゃいけねえことを、俺は知らずにいた。中に座り込んだら風向きが読めなくなると言ったのは俺だ。言ったとおりになった」
---
オドルが上がってきたのは夕方だった。
桶を持っていない。手ぶらで坂を上ってくる村の年寄りを、ユークは初めて見た気がした。
「三日止めた」
受付台の前でそれだけ言った。
「四日目から三日だ」
「助かりました」
オドルの口が半分開いて、それから閉じた。
「……そりゃ、こっちの言うことだろう」
「止めると決めたのはそちらです。止めたから底に泥が溜まらなかった。溜まっていたら、戻すのに月がかかりました」
オドルは台の木目を親指でこすった。
「沢は遠かったぞ」
「遠かったと思います」
「腰をやったのが二人だ」
「聞きました」
彼はそれ以上言わなかった。言わずに、来たときと同じ手ぶらで坂を下りていった。
礼を言われるとは思っていなかった背中だった。
---
その晩、ミレアは卓へ二枚目を広げた。
灰環の実物と数字が合うことだけを書いた紙だ。ひと月前に書いて、それきり出していない。
彼女は上から順に線を引いて消していった。
「足りません」
「一つでは、たまたまが一つだ」
「はい。……二つ目は見ました。ですが、二つ目の名は書けません」
筆が置かれた。
「炉底と書けば、あちらの減産にこちらの名が付きます。付いた紙は、あの若い書役の欄ごと引っ張られます」
「名を伏せたまま二つと書けるか」
「書けます。弱くなりますが書けます。……七つの数字と、名のない二つです」
出せる形にはまだ遠かった。遠いが、ひと月前の紙よりは近かった。
---
夜が更けてから、ユークは中枢まで下りた。
二十一日ぶりだった。壁の並びは何も変わっていない。
接続。循環。配分。鎮。
これを世界の並びだと思って読んでいた。今日から違って見える。これは灰環の並びだ。ほかの穴には、ほかの並びがある。
炉底の壁は三つ目からもう違った。四つ目は一画も読めなかった。読める場所が一つ増えて、読めない字は倍になった。
ザグレスが置いていった問いは、押さえているのは灰環だけか、だった。
答えは持って帰った。灰環だけではない。そして危ないのは見捨てられた穴のほうではない。誰にも触られない穴は押さえたまま黙っている。等級が上がって、規則どおりに整えられて、真面目に回っている穴のほうが削られていく。
台帳に載っている迷宮は七つどころではない。
欄は増やせないとあの人は言った。増やせるのは新しい紙のほうだとも言った。そして自分は決める側ではないとも言った。
では決める側は誰だ。
いつか読んだ書簡の最後の一行が、こういうときにだけ戻ってくる。筆の運びだけが変わっていた一行だ。
――次に来るのは、私のような者ではありません。
ユークは灯を上げて壁の字を見た。
この世界は、数えられていないものの上に建っている。数えられていないほうが、たぶんまだずっと多い。




