第126話 欄は増やせません
戸が閉まってからも彼女はしばらく口を開かなかった。
筆を置いて穂先を指で整える。整え終わってから顔を上げた。
「欄は、増やせません」
それだけだった。前置きも詫びもなかった。
ミレアが綴りを閉じた。
「本院の決裁が要るという意味ですか」
「要ります。様式は一度作れば下まで下りますので、直すには判が要ります」
「では、諮っていただくことはできますね」
「できます」
アンセルは控えの束へ掌を置いた。
「諮ればどう返るかは私が先に申し上げます。そのほうが早い。……役所の面倒くささの話ではありませんので」
彼女は指を一本立てた。
「押さえの欄を作ります。作った欄を今年の分だけに入れるわけにはいきません。様式は綴りごと通ります。去年の分にも、十年前の分にも、同じ欄が並びます」
「並べば」
「空欄になります」
ユークは卓の縁へ手を置いた。
「落とした穴の分が、か」
「全部です」
ミレアの筆が紙の上で止まった。
「空欄には請求が付きます」
アンセルは指を二本にした。
「なぜ空いているのかを書け、と誰かが言います。書けば、落とした年の判断を書くことになります。書けなければ、書けない理由を書くことになります」
「訴えになるのか」
「なり得ます。訴えは決裁を遡ります。落とすと決めた者と、承認した者と、その上で判を押した者へ」
彼女は指を三本立てた。立てたまま少し置いてから下ろした。
「三代ぶんです」
「三代前なら、押した者はもういないだろう」
「おりません」
「なら何が困る」
アンセルは控えの端を揃えた。
「今その様式で回っているものが全部です。処分の別が動けば、そこに紐づいた徴収も、所有も、山への入りようも動きます。動けば、動いた先で今住んでいる人が困ります」
ユークは天井の梁を見た。
「過去を直すと、今が崩れるのか」
「崩れます。ですから直しません」
彼女は一度だけ息を置いた。
「国は間違えられます。ですが、間違えたと書ける欄がありません」
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ユークはその一行を頭の中でもう一度なぞった。
迷宮の綴りと土地の綴りに因果を書く場所がないと知ったとき、あれは灰環の不運だと思った。次にそれがどこでも同じだと分かった。
ここでもう一段めくれた。欄がないのは誰かが隠したからではない。書けるようにすれば自分の過去が開く。だから国は自分のためにその欄を持たなかった。
押さえの欄がないことと、間違いの欄がないことは同じ形をしている。作らなかったのではない。作らないことで立っている。
ミレアが束から目を上げた。
「では、七つの村は」
「なかったことにはしません。書き直します」
「書き直すというのは処分票を直すということですか」
「いいえ」
答えは短かった。
「これから出す様式のほうを直します。落とすかどうかを決める前に、土地の側の見立てを付けます。次からです」
「……過去には」
「触れません。触れられません」
ミレアはそれ以上訊かなかった。
ユークにはその黙り方が分かった。食い下がっても相手が正しい。正しいことを、この卓で誰よりよく知っているのは彼女だ。
北の村の空き家の前で、老婆が桶を地面へ下ろした。あの人は井戸を戻せとは言わなかった。二十年前から戻らないと分かっていると言った。求めたのは記録のほうだった。
その記録を書ける場所が、この人の側にもない。
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「返事をする」
ユークは椅子を引いて立った。
「一枚目は俺が返事をする話じゃない。坑の運用は差配と商会のものだ。持っていくなら俺のいないところで話してくれ」
「承知しました」
「三枚目は、いまは整えないでもらいたい。整えれば半分落ちる。落ちた半分を戻す様式がない以上、二枚に割るのは早い」
アンセルは短く考えてから頷いた。
「止めておきます。差出のない紙は問い合わせのまま置けます」
彼女は二枚目へ指を置いた。
「では、これは」
ユークはその紙を見た。
二年半この欄のために紙を書いてきた。突き返されるたびに書式を直した。直せばいつか通ると思っていた頃もある。欲しかったものがいま、向きまでこちらへ揃えて置かれている。
「欄がないなら、まだ埋めません」
アンセルの手が止まった。
「お断りになるということですか」
「断ってない。まだだと言っている」
彼は紙の端を指で押さえた。
「埋めた欄は動かせない。埋めたあとで押さえの欄ができても、こちらはもう区分の中だ。……空いてる欄なら動く」
「期限は」
「切らない」
言ってから、二年前に村の井戸端でしたことを思い出した。まとめて承知は取らない。決めるのは払う側だ。あの型を初めて役所へ向けて使っていた。
アンセルはしばらく卓を見ていた。
「……それは、私では書けない返事です」
「書けないか」
「受けたとも断られたとも書けません。持ち帰ります」
二枚目が控えへ戻された。戻す手つきは来たときと同じに丁寧だった。
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書役を呼び戻す前に彼女はもう一つの束を開いた。
聞き書きの綴りだった。三日のあいだに坑夫から拾った言葉が日付の順に並んでいる。
ユークは字が見えない位置にいるふりをした。見えていた。
――先に退けと言われた。
――言ったのは荷の同行者だ。
二枚離れたところにもう一つある。若い坑夫の名の下だった。
――下に獣がいた。
アンセルは二つの頁を開いたまま見比べていた。片方へ指を置き、離し、もう片方へ置く。
どちらも書ける。どちらも書かなければ誰も気づかない。
戸の外で書役が板を鳴らした。
「まだです」
顔は上げなかった。
筆は持ったままだった。持ったまま長く止まっている。
やがて彼女はユークを見た。
「一つだけ伺います」
ユークは待った。
「……坑に入ったものは、何ですか」
答えなかった。
答えれば一行になる。無登録の魔物が登録迷宮の坑にいた。人が助かったことは、その一行のあとに書かれない。
ミレアが口を開きかけた。
アンセルは掌を上げてそれを止めた。書役を外へ出したときと同じ動きだった。
「いえ」
少し置いてから続いた。
「訊かなかったことにします」
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筆が下りた。
日付と場所を先に書く。それから一行だけ足した。
――下段にて落盤。負傷なし。退避は現場差配の指示による。
嘘は一字もない。実際に退かせたのはサヴィルだった。声を上へ飛ばしたのも彼だ。
ただ、誰が先に読んだのかは、どこにも残らなかった。
書き終えて、彼女は次の紙を引き寄せた。筆はまだ持っていた。
「こちらは書きます。同行の名義です。院の承認を経ていません」
ミレアの肩がわずかに動いた。
「……はい」
「これは私が咎めることではありません。ですが、書かない訳にもいきません」
筆は止まらなかった。
「落盤のほうは、書かなくても誰も困りません。名義のほうは、書かないと、次に同じ書き方をする人が困ります」
ユークはその理屈を追った。
筋が通っている。腹が立つほど通っている。この人は制度の代わりに喋っているのではない。制度と同じ筋で生きているだけだ。
書き終えると彼女は筆を置いた。
置いてから誰にともなく言った。
「……私は今、欄のないことを、自分の都合に使いました」
ミレアが何か言おうとして、言わなかった。
「一度だけです」
控えが閉じられた。戸のほうへ短く声がかかり、書役の二人が入ってきて卓の紙を元の順に並べ直した。
部屋は何ごともなかった形へ戻った。
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外は冷えていた。
空き地の隅でミレアは腕を組んだまま山道の暗がりを見ていた。
「あの一行は十日もすれば院の綴りに入ります」
「咎めないと言ってたぞ」
「咎めません。書き留めるだけです」
息が白くなった。
「咎めなら処分になります。処分には重さと期限があって終われば消えます。書き留められたものは消えません。あの人が次に何かを書くとき、上の人間はまずその一行を見ます」
「効くな」
「いちばん効きます」
ユークは坑口のほうを見た。灯が二つ、斜面を下っていく。夜番だった。
助けたことがそのまま弱みになる、とミレアはあの晩に言った。
今日その弱みは書かれずに済んだ。書かれなかったのは、人が助かったことを書ける欄があの人の様式にもなかったからだ。
欄がないから押さえが数えられない。欄がないから助けたことも数えられない。同じ穴が、今日はこちらの側へ都合よく開いた。
得をした。それだけだ。
喜べなかった。次に同じ穴が開くとき、そこへ落ちるのがこちらでない保証はどこにもない。
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翌朝三人は日が高くなる前に発った。
書役が荷を背負い、アンセルは草鞋の紐を締め直してから肩と袖の埃を払った。着いた日と同じ順の動きだった。
灰環を出て十五日になる。連れて出られる見当より四日多い。掌の下の返りは昨日よりまた一つ遅かった。
ケイスが詰所から出てきて頭を下げた。彼女は下げ返してから思い出したように向き直った。
「一枚目の話は差配と商会へ改めて出します。あなた方の名は入れません」
ユークは黙って頷き返した。
アンセルは山道のほうへ一歩下がってそれから足を止めた。
「欄は増やせません」
言い直すような言い方だった。
「……増やせるのは、新しい紙のほうです」
「新しい紙」
「今ある様式を直せば遡ります。まだ何も綴られていない紙なら、遡るものがありません」
「作れるのか」
「私では作れません」
彼女は襟の内側へ指を入れてもう一度払った。
「持ち帰って諮ります。返るかどうかは私には申し上げられません」
それだけ言って山道を下っていった。書役の二人が同じ歩幅で続いた。
三つの背が木の間へ消えるまでユークは見ていた。
この人は確かめる人だった。照合して、足で回って、正面から正しいと言った。二年半で初めてのことだった。
そして決める側ではなかった。
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詰所へ戻ると、ケイスが卓に着いていた。筆は持っていない。
開いた頁の四日ぶんの空きは、来たときと同じ幅で空いている。
書ける言葉を持ってくると言った人は、それを置かないまま山を下りていった。




