第125話 整えると欄が落ちる
朝の詰所は昨日より人が少なかった。
夜番が下りたあとの時刻を指定してきたのはアンセルのほうだった。坑が動いているあいだは人の出入りが少ない。そのぶん卓が空く。
彼女は控えの束から三枚を抜いて卓へ置いた。墨はもう乾いていた。
「昨夜のうちに書きました。読んでいただいてから話します」
書役の一人が三枚を間を空けて並べた。並べる幅まで決まっているらしかった。
ユークは立ったまま見下ろした。字は小さくない。読ませるために書かれた字だった。
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一枚目は炉底のことだった。
「こちらの運用に灰環の見方を正式に採り入れます」
アンセルは紙の端へ指を置いた。
「土地の側の検分に、坑の下の水と地面の見方を足します。今年ぶんから入れられます。差配の判断で向きを戻したという書き方が、指針に沿った見直しという書き方に変わります」
ケイスが息を吸う音がした。
彼は自分の帳面へ目を落とした。四日ぶんの白いところは昨日のまま空いている。次の月には月の欄ごと空くはずだったところだ。
「……理由が立ちますか」
「立ちます。上へ出す紙に書けます」
「書ける言葉があるということですか」
「あります。私が持ってきます」
ケイスは頷きかけて途中で止めた。喜んでいいのか確かめる顔だった。それから帳面の綴じ糸へ指を掛けて、掛けたまま短く息を吐いた。
ユークはそれを横から見ていた。この若い書役は昨日まで、閉じられない帳面を膝に載せて座っていた。
サヴィルは戸の柱に肩を預けたまま動かなかった。何も言わない。自分の掌で数えた男は紙の話に口を出さない。
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「二枚目は灰環のことです」
アンセルは二枚目を卓の中央へ寄せた。
「王領の台帳へ地所として載せます。載れば、迷宮の側の欄は埋まりやすくなります」
ミレアの筆が止まった。
「監督院の台帳の管理者の欄ですか」
「はい」
「あれは二年半空いています」
「存じています。空いた欄は毎年繰り越されます。繰り越された欄は誰も直しません」
アンセルは声を上げなかった。数を読むときと同じ高さだった。
「私が決めるのではありません。持ち帰って諮ります。ただ土地の側に名が載っていれば、諮るときの通りが違います」
ユークは自分の指先を見た。
その欄を埋めるための紙を、これまで何度書き直したか覚えている。書き直すたびに突き返された。突き返す側にも悪意はなかった。様式に合わないというだけだった。
「同行の名義も、そのときに整います」
アンセルは付け足すように言った。
ミレアの手が綴りの上で止まった。ユークにはその止まり方の意味が分かった。
坂を下りる前の晩に、院の様式で書かれた一行がある。監督院の照会に関する同行。差出はヴェッセルの名で、院の承認は取っていない。
この人はそれを見ている。見ていて咎めない。
「今は何も申しません」
アンセルは紙の端を揃えた。
「正式に登録が下りれば、あの一行はその付随になります。付随になったものを後から拾う人はいません」
ミレアは何も言わなかった。言えば認めたことになり、黙れば黙ったことが読まれる。
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「三枚目です」
彼女は自分の控えから昨日の紙を出して卓へ戻した。角の擦れた紙だった。
「回ってきたこれを、正式な様式へ整えて受理します。差出のない紙は問い合わせのまま止まります。整えれば読まれます」
「どの様式へ写しますか」
ミレアの声はいつもより低かった。
「迷宮の処分票と、村から領へ出す届けです」
「一枚だけ、いま写してみてよろしいですか」
「どうぞ」
書役が空の様式を二枚出した。ミレアは筆を執って処分票のほうから始めた。
迷宮名。所在。危険等級。採集等級。調査の日付。処分の別。
筆が備考の欄まで来て止まった。
ユークは卓の縁から覗いた。備考の脇には注記が入っている。処分の実施に関することのみ記すこと。
落とした翌年から井戸が濁ること。三年目に人が移ること。畑の一角が下がること。どれも処分の実施に関することではない。
ミレアは届けのほうの様式へ筆を移した。戸数。反別。納めの高。水汲みの場所。増減の理由。
こちらには落とされた穴を書く場所がなかった。
「……写せません」
彼女は筆を上げた。
「どちらへ写しても半分が消えます」
アンセルは否定しなかった。むしろ待っていたように頷いた。
「はい。ですから両方へ写します」
ミレアが顔を上げた。
「両方に写せば、二枚になります」
「二枚になります。そのうえで、それぞれの綴りへ入ります」
「入ったあと、その二枚を並べる人は」
「様式が違いますので、同じ卓には出ません」
言い切ったあと、彼女は少し考えてから言い足した。
「私は隠していません。並ばないということも今お伝えしています」
ユークは口を開かなかった。
この人は騙していない。手順を読み上げているだけだ。手順どおりに進めば、跨いで書いた紙は丁寧に二つへ割られて、割られた先は二度と同じ卓に載らない。
こちらが二年かけて作った一枚が、正式な受理の途中でほどける。
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「配る順番のことも様式に入るのか」
ユークは訊いた。
「入ります」
アンセルは三枚目の裏へ項目を書き出した。
「〈地域配分優先区分〉です。周りの村へどれだけ回すかを書く欄です」
「うちは書面に取ってある。地域の必須をいちばん上に据えると」
「その中身がこの区分に入ります。言葉はそのままでは残りません。区分の番号になります」
「順位は誰が決める」
「毎年の勘定で決まります」
ユークは項目の名を見た。
「村ではないんだな」
「村の分は区分の中で扱われます」
「細ったときに止めろと言う口は」
「区分の見直しの申し出になります。年に一度です」
彼女は隠さなかった。訊けば全部答えが返ってきた。返ってくるたびに、こちらの持っている型が一つずつ項目名へ翻訳されて中身だけが抜けた。
減るぶんを先に言う欄はない。決めるのは払う側だと書く欄もない。まとめて承知を取らないという型に至っては、様式そのものが年に一度のまとめ承知でできている。
ミレアが確かめるたびに、答えは正しかった。相手の様式の知識のほうが上だった。
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昼になって一度散会した。
ユークは詰所を出て空き地の荷車へ寄った。
板へ掌を当てる。返りは来る。来るまでの間がまた一つ長い。籠の布の内側は昨日より温みが薄かった。
灰環を出て十四日になる。連れて出られる見当より三日多い。
断る理由なら並べられる。だが並べたものは全部こちら側の事情だった。
断れば、四日ぶんの白い欄は白いまま残る。理由の書けない減産を続けた差配は次の月には座っていない。院の承認を取らずに一行を書いた男の名は宙に浮いたままになる。
こちらが型を守った損を、この坑の人間が払う。
二年前に村の井戸端で決めたことがある。減るぶんを先に言う。得を先に言わない。あの型を作ったのは、払わせる側が黙って決めるのを禁じるためだった。
いま黙って決めようとしているのはこちらだった。
ユークは掌を板から離した。
受けるか断るかで考えている限り、どちらを選んでも払うのはよそだ。ならばその線から降りるしかない。
閉じるか開くかで迷ったときに使った手が一つある。答えのほうから選ばずに、条件のほうを先に立てる。
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午後の卓には灯が入っていた。
アンセルは三枚を元の順に並べ直して、書役に写しを取らせていた。ケイスも呼ばれて隅に座っている。
「返事をいただけますか」
「一つ訊きたい」
ユークは卓の前へ立った。
「三枚とも、正式な様式へ入れる話だな」
「はい」
「その様式には、採れた量と事故の数と人の出入りの欄がある」
「あります」
「土地の欄もあるんだな」
「私どもの側にあります。水と地面と道と人の数です」
ユークは頷いた。
「そのどれにも入らないものが一つある」
彼は紙のほうを見なかった。見ればまた並んだ項目の話になる。
「この坑の下で、岩が上から押さえられている。押さえが緩めば地面が動く。それを書く欄が、あんたの様式にも向こうの様式にもない」
アンセルは黙って聞いていた。
「押さえの欄を、一つ作ってもらえますか」
彼女の筆が止まった。
止まったまま、しばらく紙の上へ下りてこなかった。灯の下で影だけが動かない。
やがて彼女は顔を上げて、書役の二人を見た。
「外で待っていてください」
二人が立ち上がった。ケイスも帳面を抱えて腰を上げた。アンセルはそれを止めなかった。
戸が閉まった。
書役を下がらせたということは、これから話すのが書けないことだという意味だった。




