第124話 確かめに来た人
向きを戻して四日目だった。
坑は動いている。人も減っていない。減ったのは上がってくる石の量だけだった。
秤の前で荷役が数を読み上げる。読み上げが先週より早く終わる。それだけのことが四日続くと詰所の空気が変わった。
ケイスは朝から帳面を開いて卓に着いていた。日付は入っている。上がった量も入っている。その隣だけが白い。
「まだ書けないか」
ケイスは筆を置いた。
「書ける言葉がないんです」
白い欄を指の腹で押さえてから手を離す。
「落ちた月は落ちたぶんの理由が要ります。事故でも天候でも人手でもないと書けば、では何かと訊かれます」
「訊きに来るのは誰だ」
「上の受けです。……もう来ています」
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商会の使いは前の晩に着いていた。
痩せた男で声を荒らげない。詰所の隅の腰掛けに座って、坑口へ下りるサヴィルを毎朝見ている。見るだけで何も言わない。
その日の昼にだけ口を開いた。
「来月も落ちますか」
「落ちる」
「いつまでです」
「分からん」
「戻る見込みだけでも伺えれば、こちらは待てるのですが」
サヴィルは掌の粉を布で拭いた。拭き終わるまで返事をしなかった。
「差配の判断だ」
使いはその一言を書き取って、書き取ったものを見下ろして息を吐いた。息の吐き方まで行儀のいい男だった。
ユークは戸口の内側から見ていた。
渡した言葉は一つきりだ。灰環の名は出していないし紙にもしていない。出さなかったぶんだけ、あの男は一人で立っている。
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昼前に山道から人が上がってきた。
馬は連れていない。三人だ。先頭が女で、後ろの二人が筆の入れ物を腰に提げていた。
ケイスが立って外を見た。
「今年でしたか」
「何がだ」
「土地の検分です。等級を直した年から三年ごとに来ます」
彼は前掛けを外して丸めた。
「王領台帳方です。採れる量は見ません。山と水と道と村を見に来る人たちです」
ユークは空き地のほうへ目をやった。荷車には布がかけてある。かけてあるだけだ。
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一行は詰所の手前で足を止めた。
女は肩と袖の埃を掌で払った。襟の内側へ指を入れてもう一度払う。書役の二人も同じ順で払った。決まった手順の動きだった。
払い終えてから戸を叩いた。
ユークはその一部始終を見ていた。前に灰環の卓へ立った男は埃を落とさなかった。落とすことを思いつきもしなかったのだと、あとになって分かった。
「王領台帳方の検分に参りました。アンセルと申します」
高くも低くもない声だった。
「三年前の改定に伴う土地側の見直しです。坑の中へは入りません。見るのは水と地面と村のほうです」
ケイスが日数を訊いた。
「三日いただきます。今日は帳面を拝見します。明日は下の沢と村へ回ります。人手はお借りしません」
供の二人は荷を土間の隅へ寄せて、それきり動かなかった。奥へ入ろうとする者はいなかった。
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帳面は昼のうちに開かれた。
アンセルは頁を繰る手が速くなかった。一枚ごとに指を止めて、止めた場所を書役へ短く言って写させる。
半分ほど来たところで顔を上げた。
「確かめさせてください。三年前の改定で掘る向きを変えた。変えたあとから下段が湿ってきた。粉が減って量が増えた。この順で合っていますか」
「合っています」
「ありがとうございます」
ケイスの言い方をそのまま繰り返してから、彼女はまた頁へ戻った。
ミレアが戸の脇でわずかに身じろぎした。ユークにはその理由が分かった。相手の言葉を要約して合っているかを先に訊いてから進む。同じことをする人間を二年見ている。
次に彼女が訊いたのは飯場のことだった。何人ぶんの湯が沸くか。洗い場の水はどこから引いているか。子どもは何人いるか。
ケイスは数を出せなかった。子どもを数える欄がなかったからだ。
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手が止まったのは月の後ろのほうだった。
四日ぶん、量の隣が白い。
「ここだけ理由が書かれていませんね」
ケイスの喉が動いた。
「……はい」
「差配の判断とは書かないのですか」
「四日ぶん続きました。……次の月も同じなら、月の欄ごと空きます」
「空きますね」
アンセルは白いところへ指を置いたまま少し黙った。
「書けないものを埋めておくと、来年これを読む人が読み違えます。空けておいてください」
ケイスが顔を上げた。
「……叱られませんか」
「私は叱りません。上のことは知りません」
彼女は指を離した。
「現場が理由を言えないまま止めるときは、たいてい言えない理由のほうがあります。止めた中身は訊きません」
ユークは柱に背を当てたまま動かなかった。
押してきたら押し返す言葉は用意してあった。押してこない相手へ返す言葉は持っていなかった。
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夕方に一度だけ紙が止まった。
書役が写した数を読み上げたところで、ケイスが遠慮がちに卓へ寄った。
「あの、そこは八ではなく三です」
アンセルは自分の控えを見た。
「……私の写し間違いです。ご指摘ありがとうございます」
二本線を引いて脇へ直しと初めの数を並べる。ケイスが教わったとおりの形だった。
直してから彼女は書役へ言った。
「今日の写しはもう一度突き合わせます。私が読んだところは私が間違えます」
ケイスは自分の帳面へ目を落とした。耳のあたりが赤かった。
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名が割れたのはその日の暮れだった。
アンセルが土間で草鞋の紐を締め直しながら、顔も上げずに言った。
「失礼ですが、ノストとおっしゃいますか」
ミレアの手が綴りの上で止まった。
「……名簿を、どこかで」
「院の様式の講習です。書式の直しを出した方の欄にその名がありました。顔は存じません」
彼女は立ち上がって膝の埃を払った。
「着いてから半日かかりました。人の顔を覚えるのが遅いのです」
ミレアはユークを見なかった。見ないことが答えになる場面だった。
ユークは柱から背を離した。
「灰環の管理をしている。ユーク・フェルドだ」
言ってから、坂を下ろすときに自分で決めたことを思い出した。名が出た瞬間に、問いは値踏みへ化ける。街道へ下ろした紙から灰環の名を抜いたのはそのためだった。
いま抜いた名を自分の口で戻したことになる。
アンセルは驚かなかった。
「承知しました。……灰環へは、先に一通お届けしているはずです」
ユークは顔を動かさなかった。
聞いていない。坂を出てから報せは一度も来ていない。中に座っていれば知っていたはずのことを、外へ出ているほうが知らずにいた。
「留守の者が受けているはずだ」
「受け取っていただけたなら、それで結構です」
それだけだった。書役へ向き直って一行を言う。灰環の者が同行している。日付と場所。声の高さは数を読み上げるときと変わらなかった。
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その晩、ミレアは小屋の板の上へ紙を広げた。
「明日の朝いちばんに渡します。こちらから見せるものと見せないものを先に切ります」
「向こうは見せろと言ってないぞ」
「言われてから切ると、切ったことが拒んだ記録になります」
書いたのは三行だけだった。灰環の者は照会の同行として来ている。炉底の運用には関与していない。坑の減産について灰環は指図をしていない。
ユークは三行目を指で辿った。
「本当のことだな」
「本当のことだけを書きました。本当でないことを書かずに済むうちに書いておきます」
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翌朝、アンセルは坑口の前で足を止めた。中へは入らずにサヴィルへ訊いた。
「下から汲み上げた水は、どこへ捨てていますか」
「樋で沢だ」
「増えていますか」
「増えた」
「いつからですか」
サヴィルは首の後ろを掻いた。
「……三年より前じゃねえな」
彼女は礼を言って樋のほうへ歩いていった。
樋は山の裾を斜めに回って沢へ落ちている。落ち口で屈んで水を掌に受けた。しばらく見てから書役へ何か言って書かせた。それから沢を下っていった。
ユークはついていかなかった。ついていけば、見ている理由を訊かれる。
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戻ってきたのは日が落ちてからだった。
沢の下には村が二つある。彼女は両方の井戸を覗いてきたという。書役の写しには井戸の深さと、底の石が見えるかどうかが並んでいた。
ミレアが控えを見せてもらって指を止めた。
「増減の理由の欄がありますね」
「あります。四が他所への移り、五がそのほかです」
「そのほかには、何が書けますか」
「書いた人が書けたことだけです」
アンセルは控えから手を離した。
「ここへ来る前に街道の北を回りました。七つあります。四に丸の付いた村と五に丸の付いた村があって、五のほうには井戸のことが書いてありました」
「並びは、どうでしたか」
「揃っていました。揃っている理由は、まだ書けません」
ミレアはそれ以上訊かなかった。訊けば、こちらが並びを先に知っていたことになる。
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小屋へ戻る前に、ユークは空き地の荷車へ寄った。
板へ掌を当てる。返りは来る。来るまでの間が昨日より一つ長い。籠の布へ指を入れると内側の温みが薄かった。
灰環を出て十三日になる。
連れて出られる日数の見当より、もう二日多い。あと何日置けるかはどこにも書いていない。書いていないから、こちらの掌で数えるしかなかった。
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三日目、アンセルは詰所と坑口とずり山を行き来した。
サヴィルとも二度話した。二度とも短い。掘る向きと支保の本数と、上がってくる石の割れ方。訊いたことには全部答えが返っていた。
サヴィルは鳴りの話をしなかった。
訊かれなかったからだ。彼女の紙には水と地面と人の数の欄がある。掌が数えた間を書く欄はない。
ユークはそれを離れて見ていた。この人は照合が強い。並んだ数字の食い違いなら見つける。だが坑の闇で掌の下にあくものには、まだ手が届いていない。
届いていないほうがいい。届いた日には、届いたことを書く欄を彼女も探すことになる。
昼過ぎに一度だけ、彼女はユークへ直に訊いた。
「灰環では水を配っておられるとか」
「配っている」
「量は決まっていますか」
「村と決めた」
それで終わりだった。どう決めたのかも、誰が決めるのかも訊かれなかった。訊けば線を越えると分かっている者の止まり方だった。
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三日目の夕方、卓の灯が入った。
アンセルは帳面を閉じて、書役の二人に外で待つように言った。ケイスも呼ばれてその場に残された。
彼女は自分の控えの束から一枚抜いて卓へ置いた。
角の擦れた紙だった。ユークはそれを見た瞬間に息の置き場を間違えた。
灰環の名はどこにも入っていない。迷宮を落とした翌年から土地がどう痩せていくのかを、順番だけ並べて問うている紙だった。
ラスティアの帳面へ紛れさせて坂を下ろしたものだ。
「これは、どちらで書かれたものですか」
ユークは答えなかった。
アンセルは急かさなかった。
「問い合わせとして回ってきました。差出はありません。回ってきたものは読みます。読んで、確かめられるものは確かめます。それが私の仕事です」
彼女は紙の上へ掌を置いた。
「北の七つを回りました。ここの帳面を三日見ました。沢の水も村の井戸も見ました」
灯の芯が短くなっていた。
「あなたの紙は、正しいと思います」
ユークは動かなかった。
二年半のあいだにこの坂を上ってきた者は、みな値で測っていった。暫定を追認する紙は来た。否定も肯定もせずに退いた者もいた。正面から正しいと言われたのは初めてだった。
喉の奥が一度詰まって、それから冷えた。
正しいと認められたところで坑の下の押さえは一寸も戻らない。北の村の井戸も戻らない。分かっている。分かっていてなお、体のどこかが緩みかけていた。
アンセルは紙を控えへ戻して留め具を掛けた。
「ですから、正式にします」




