第123話 留守の砦
六日目の朝も坂の下は静かだった。
ザグレスは受付台の隅に紙を広げて眺めていた。慣れない紙だ。
村の書役の字で三行ある。日付。村の名。止める、の二文字。理由の欄はどこにもない。
この紙が坂を上ってきたのは二日前だった。
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四日目の昼だ。
書役は息を切らして上がってきて懐から出した紙を台へ置いた。下にオドルの判が押してあった。
ザグレスは受け取って口を開きかけた。開きかけて閉じた。
訊きたかったのは一つきりだ。どれくらい濁った。
訊けば書役は答える。答えを聞いてから板を落とせば、こちらは聞いた側になる。濁りが薄ければ一日待ちたくなる。待っても誰も咎めない。咎める者がいないから次は二日待つ。
紙から理由の欄を落としたのは、そういう手を先に潰すためだった。
「分かった」
それだけ言って台を離れた。
枝の栓は裏手の石組みにある。差してある板を抜くだけだ。自分の手は要らないとユークは言った。実際に要らなかった。
板を抜くと水は向きを変えて谷へ落ちた。
落ちる音は思っていたより長く続いた。畑を何枚も潤せるだけの水が岩の割れ目へ吸われて消えていく。
もったいねえ話だな、とオドルなら言う。ザグレスは音が細るまでそこに立っていた。
その日の夕方から村では沢へ登る列ができたと、あとで聞いた。片道で日が傾く。桶は一度に二つまで。年寄りのぶんは若い者が二度目に登って運んだ。五日目には腰を痛めた者が二人出た。
書役はその数を毎朝一行ずつ書きに上がってくる。ミレアの決めた形だった。
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六日目の昼前だった。
受付台の脇の柱に細い糸の端が結んである。坂の下の網に触るものがあると、この端が震える。
読み方はユークが出る前に一度だけ教わった。数と間隔だけだ。誰が来たかまでは分からない。
端が二度震えて止まり、また二度震えた。
人が二つ。荷はない。歩調が揃っている。
急ぐ足でも忍ぶ足でもなかった。ザグレスは煙草を胸へ戻して門の外へ出た。
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上がってきたのは旅装の書役が二人だった。
どちらも筆の入れ物を腰に提げている。前の一人が布に包んだものを抱えていて、包みの結び目に国の紋の下げ札が通してあった。
「王領台帳方の先触れの者です」
男は坂を上りきったところで足を止めて名乗った。詰めてこない。押してもこない。
「灰環迷宮の管理をなさっている方へ、封をひとつお届けに上がりました」
「留守だ」
「お戻りは、いつごろになりますか」
「決まってねえ」
男は困った顔もしなかった。布に包んだものを解いて封を出す。蝋に国の紋が押してあった。
「差し支えなければ、お預かりください。中身のご返事は急ぎません。受け取っていただければ結構です」
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ザグレスは手を出さなかった。
胸には書面が一枚入っている。出る前の晩にミレアが書いて渡したものだ。紙を受け取らない権限。
使う日は来ねえだろうと自分で言った。言った相手がいま門の外に立っている。
畳んだそれを開いて日へ向けた。字は追える。追えるが、書いてあるのは受け取らないほうの形だけだった。
受け取らなければどうなるかを頭の中へ並べた。
この二人は坂を下りて宿場で紙を書く。届けようとしたが受け取られなかったと書く。嘘は一字もない。読む側は拒んだと読む。
受け取ればどうなるかも並べた。
受け取ったという一行が先に立つ。中を読んだかどうかは誰にも見えない。読んでいないと言えばそれは言い分になる。
どちらにしても書かれる。書かれる中身が違うだけだ。
「預かる」
ザグレスは言った。
「だが開けねえ」
男が顔を上げた。
「開ける権限がねえからだ。ここの責任者は二人とも留守だ。俺は門の番をしてるだけの男だぞ」
「……なるほど」
「封のまま置いとく。戻ったやつが開ける。それでいいなら受け取る」
男はしばらく考えてから頷いた。
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封へ手を伸ばす前に、ザグレスは半刻待てと言った。
「字の書ける奴を呼ぶ」
「私どもで書きますが」
「あんたらが書きゃ、あんたらの言い分だ」
人をやって坂の下の書役を呼び戻させ、その日の二組目に入っていた冒険者を坑口から上げさせた。
待つあいだ、先触れの男は門の柱の影で汗を拭いていた。
「よい水が出ると聞きました。井戸へは今も行っておりますか」
「今は止めてる」
男の手が止まった。
「故障ですか」
「村が止めろと言ったからだ」
「……村が、ですか」
後ろの書役が筆を出しかけた。ザグレスはその手のほうを見た。
「書くなら村の書役に書かせろ。止めたのは村だ。書く筋も村にある」
「ですが、私どもは見たことを」
「あんたらが見たのは止まってる栓だけだ。止めた理由はあんたらの目には映ってねえ」
男は少し黙ってから、後ろの書役へ筆を戻させた。
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書役が上がってくると、ザグレスは板を渡して台の前へ立たせた。
「見といてくれ。見たままでいい」
「何を書けば」
「時刻。封が閉じてたこと。誰も中を見なかったこと。それと、その場にいた者の名だ」
彼は自分の手を後ろへ回した。
「俺は書かねえ」
「なぜです」
「俺が書きゃ、俺の言い分だ。あんたが書けば、見た者の記録だ」
書役は筆を持ち直して日付から書きはじめた。
冒険者の二人は最初きょとんとしていたが、名を書けと言われて律儀に自分の綴りを教えた。
封は台の上で一度も開かなかった。
先触れの男は書き終わるまで立って待ち、書き上がった紙を覗いて時刻が合っていますと言った。それだけだった。
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揉めたのは帰り際だ。
書役の若いほうが坂の上の道を見ていた。その先に灰環の口がある。
「せっかく上がったのですから、口だけでも見ておきたいのですが」
悪気はなかった。仕事のうちだと思っている顔だった。
「見えるとこまでなら好きにしろ。柵から先は入れねえ」
「入りません。近くで見るだけです」
男は歩きだした。止める前にもう二十歩ばかり進んでいた。
その足が柵の手前で鈍った。
乾いていたはずの土が薄く粘っていた。モルトが井戸の底から浚い上げた泥だ。転ぶほどではない。ただ一歩が二歩ぶんの手間になる。
男が足元へ目を落とした拍子に、口の左手の枝道で足音が鳴った。
小石を蹴って走り抜ける音だった。フェズだ。姿は見せない。音だけを置いて奥の行き止まりへ流れていく。
「……今のは」
「獣だな」
男は音のしたほうを見た。見たきり動かなかった。動けば柵から離れることになる。
ザグレスも動かなかった。誰も命じていない。命じられる者がここにいない。前から組んである形が、そのまま動いただけだ。
土が足を鈍らせ、音が気を逸らし、坂の下の糸が男の足取りを一歩ずつ並べていく。
誰も触っていない。誰も奥へ入れていない。追ってもいない。
男はしばらくして向きを変えた。
「……失礼しました」
「そうしろ」
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柵の内側では冒険者の一人が石を拾っていた。
ザグレスはその手首を掴んで下ろさせた。
「置け」
「勝手に入ろうとしたぞ」
「入ってねえ。粘っただけだ」
握った指を開かせて石を土へ落とさせた。
「一人でも押してみろ。明日には襲われた話になる。……押されたほうがどれだけ丁寧に書いたところで、押した話のほうが先に着く」
冒険者は口を尖らせたが、それきり何も言わなかった。
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二人が坂を下りていったのは昼過ぎだった。
封は台の上へ置いたままにした。書役の書いた紙をその下へ敷いて、上から石を載せた。
ザグレスは腰を下ろして煙草をくわえた。火はつけなかった。
紙は二枚増えた。井戸を止めた日の一行と、今日の一行。どちらも自分の字ではない。字の下手な男が留守を預かるのに、これ以上の形は思いつかなかった。
それから気になったのは、もっと前のことだった。
あの二人は宿場を通って来ている。国の紋を提げた一行が街道を北から下ってくれば、宿場では前の晩から話になる。どこの誰がどこへ何を届けに行くか。供の数。泊まりの日数。
外を歩いていれば三日前に耳へ入っていた。
三日あれば中身の見当もついた。見当がついていれば、預かるか預からないかをもっと落ち着いて選べた。
中に座り込んだら風向きが読めなくなる。前にそう言ったのは自分だ。
言ったとおりになっていた。
男は急ぎませんと言った。
急がない紙を、二人がかりで坂の上まで運んでくるものだろうか。
ザグレスは坂の下へ目をやった。糸はもう震えていない。震えていないことは、どこか別の道で足が動いていない証しにはならなかった。




