第122話 やめることだけを言う
詰所の裏は風が回らなかった。
積んだ坑木の陰に灯が一つ下がっている。芯が短い。明かりの輪は足元にしか届いていなかった。
サヴィルはその輪の外へ立った。怒鳴らない。腕も組まない。ただ動かなかった。
動かない男の前では、こちらの口のほうが先に乾く。
ユークは持ってきたものを頭の中でもう一度並べ直した。並べたうちで外へ出していいのは一つきりだった。ほかは出した途端に別のものへ化ける。
「掘る向きを、三年前に戻してくれ」
灯の芯が小さく鳴った。
「……戻す」
「層の傾きに沿って落とすのをやめる。三年前の向きへ戻す。それだけだ」
「それだけってのはなんだ」
「言えるのがそれだけだという意味だ」
サヴィルの喉が動いた。
「下に何があるかは言わねえのか」
「言わない」
「戻せばどうなるかも言わねえのか」
「言わない」
風のない裏庭で、坑木の匂いだけが濃くなった。
「理由も言わずに、採れる量を半分にしろってのか」
声は大きくなかった。大きくないぶん重かった。
「うちの勘定は月で回ってる。半分になりゃ来月の頭に商会から人が来る。書役が上へ出す紙には理由の欄があるんだ。事故か、天候か、人手か。どれでもねえなら差配の判断と書くしかねえ」
彼は坑木の端へ掌を置いた。
「判断の中身が書けねえ差配は、次の月には座ってねえ。……俺の首は俺のもんだ。飛ぶのは構わねえよ。だがな、飛んだあとに座るやつは通達どおりに掘る」
ユークは黙って聞いた。
「それでも戻せと言うんだな」
「言う」
「なんでだ」
答えなかった。
答えれば次に外し方を訊かれる。それは炉底で止まらない。深部の形と脈を書いた紙を一枚も外へ出さないと決めたのは、押さえの外し方の見本になるからだった。
目の前にいるのは外そうとしている男ではない。二百人を上げて下ろして三十年数えてきた男だ。
それでも紙は手を選べない。
サヴィルは待った。待って、返らないと分かると背を向けた。
「今日は聞かなかったことにしとく」
足音が詰所の角を回って消えた。
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ミレアは坑木の反対側に立っていた。
「押しませんでしたね」
「押せば、決めるのがこっちになる」
「では、こちらの手当てを先に言います」
彼女は綴りを開かなかった。開かないまま指を一本立てた。
「今の話は灰環の名で出しません。口だけです。紙にしません。あなたが言ったという事実は、砦の綴りにだけ残します」
「向こうには残らないな」
「残せません。残せば炉底の減産が灰環の指図になります。……減った月の紙に灰環の名が入ったら、次に読む人はこう読みます。野良の穴が登録迷宮の採れる量を止めた、と」
ユークは灯の芯を見た。
二年かけて村と作ってきた型がある。減るぶんを先に言う。決めるのは払う側だ。今の裏庭ではその型を守った。守った結果として何も動いていない。
型は正しかった。正しくても二百人の上には何も届かない。
「ミレア」
「はい」
「言葉でやるのは、たぶんここまでだ」
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ユークは飯場の前で待った。
サヴィルが湯の桶を返しに出てきたところへ寄った。
「一つだけ頼みがある」
「まだあるのか」
「一緒に、下まで降りてくれませんか」
サヴィルの手が止まった。
「なんでだ」
答えなかった。
言葉を足せば足したぶん、降りる前に決着がついてしまう。
サヴィルは長く見ていた。それから桶を板の上へ置いた。
「……夜番を上げる。半刻だ」
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樽から出したグランの重さは前の晩よりまた軽かった。
灰環の外へ出て八日になる。ここでは自分で魔力を補えない。使ったぶんは減ったままだ。
下段には三人と一体だけになった。夜番は全員上へ上がっている。梯子の口には見張りが一人だけ残った。
灯が消えた。
闇が来た。
どこかで水が落ちている。落ちる間隔は揃っていない。
支保の木が一度軋んで、それきり止まった。
誰も喋らなかった。
耳のうしろで自分の息の音が大きくなった。それも数えているうちに聞こえなくなった。
坑が静まるのに思っていたより時間がかかった。
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角の根元が壁へ当たる音がした。
角の先が壁を横へ辿って、一点で止まった。
ユークは手探りでサヴィルの腕に触れた。触れた腕を引いてその場所へ導いた。
「ここへ掌を置いてくれ」
布と岩が擦れる音。
しばらく何も起きなかった。
「……何もねえぞ」
答えなかった。
闇の中でサヴィルが少し体を寄せ直したのが分かった。
「何もねえと言ってる」
それにも答えなかった。
急がせれば急がせたぶんだけ、あとで彼の中に残るものが減る。
水がまた落ちた。
どれくらい経ったのか分からなくなった頃、サヴィルの息の間が変わった。
「……遅えな」
彼の声はさっきより小さかった。
「来た。……途切れた。また来る」
掌の下にあるのは音ではなかった。間だった。
耳では拾えない。掌が数えている。
「なんだこりゃ」
ユークは黙っていた。
サヴィルが掌を岩から離さないまま動きを止めた。
「……こいつ、前にも触ったことがある」
闇の中で声だけが続いた。
「三年前だ。向きを変える前の切羽で支保を入れ替えた。あのとき手を突いた。同じ間があいてた」
「気に留めたか」
「留めなかった」
短い息。
「良い層に当たったって話のほうが先にあったからな」
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それから彼は長く黙った。
やめたのではなかった。黙ったまま掌を岩に置いている。掌の下では間があき続けている。
「……もっと前にもある」
声が変わっていた。
「二十年よりもっと前だ。別の坑だよ。若えころ、下働きで入ってた」
水の音。
「同じ間を聞いた。手じゃねえ、あのときは耳で聞いた気がしてた。夕方に落ちて三人埋まった。掘り出したのは次の日だ」
ユークは灯を点けなかった。
「誰か書いたのか」
「誰も書かなかった」
布が擦れた。掌の位置を直したらしかった。
「……俺もだ。俺は書かなかった」
サヴィルの息が一度深くなった。
「違うな。書かなかったんじゃねえ。書くところを教わらなかったんだ」
その先を彼は言わなかった。
怒鳴りもしなかった。泣きもしなかった。掌を離さないまま、闇の中で長く黙っていた。
その黙りが誰に向いているのかは、ユークにも分からなかった。少なくともこちらではなかった。
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上がるまでにさらに半刻近くかかった。
坑口の外の空気は乾いていて冷たかった。
サヴィルは掌の粉を腰の布で拭いた。拭いてから、拭ききれなかったものを見るように掌を灯へ向けた。
「明日から向きを戻す」
ユークは黙って聞いた。
「理由は俺が言う。……言えるとこまでな」
礼は言わなかった。
言えばこちらが指図した側になる。指図した側になった瞬間に、戻す判断は彼のものでなくなる。
代わりに一つだけ渡した。
「掘るなと言ってるんじゃない。鳴ってる向きを掘るなと言ってる」
サヴィルは灯の輪の中でしばらくその言葉を置いていた。
「……それは俺の言葉にするぞ」
「そうしてくれ」
彼は坑口の板を掌で二度叩いた。それから見張りへ何か短く言って、飯場のほうへ歩いていった。
渡した紙は一枚もない。深部の形も脈の通り方も一行として出していない。
確かめたのは彼のほうだった。
届かせるのに要ったのは証拠ではなく、確かめられる場所へ連れて行くことだった。
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翌朝の詰所は静かだった。
差配が坑口で向きの話をしたらしく、夜番の頭が首をひねりながら降りていったと聞いた。
ケイスは卓に着いていた。筆を持っていない。
ミレアが入ると彼は立ち上がった。顔から色が抜けている。
「差配から聞きました」
「向きのことですか」
「はい」
彼は帳面を両手で押さえた。
「採れる量が落ちます。三割か、もっと落ちるかもしれません。落ちたぶんは月末の紙に出ます」
「理由の欄がありますね」
「あります」
ケイスは頁を開いた。開いたまま指が動かなかった。
「事故ではありません。天候でもありません。人手も減っていません。……差配の判断と書けば、中身を訊かれます」
彼は顔を上げた。
「減った理由を、どの欄にも書けません」
卓の上で灯が一つ揺れた。
坑では一人の男が三十年ぶんを掌で確かめて、明日から向きを戻すと言った。
紙のほうは一行も動いていなかった。




