第121話 採れた量しか書けない
朝の詰所は人が入れ替わり続けていた。
夜番の頭が下段の様子を告げに来て、坑木の受けが来て、飯場の女が湯の桶を置いていった。ケイスはその全部を捌きながら卓の右手に開いた帳面へ筆を入れている。
ユークは戸口の内側の腰掛けに座って見ていた。
昨夜のことを書いているのだと分かったのは、彼が日付を二度確かめたからだった。
「事故はどこへ書くのですか」
ミレアが横から訊いた。筆は止まらなかった。
「ここです。日付と坑口と段と種別と負傷の数」
「昨夜のは」
「種別が落盤で負傷が零です。零は二度数えました」
書き終えてから、ケイスは頁をしばらく見ていた。
「何か抜けていますか」
「いえ」
ミレアは首を振った。振ってから、抜けているものの名は言わなかった。
書かれていないのは、なぜ落ちた場所に誰もいなかったかだった。
「退避のことは」
「備考へ一行入れます。現場差配の指示による、と」
「理由は」
ケイスは筆を持ったまま顔を上げた。
「事故が起きた理由を書く欄はあります。起きなかった理由を書く欄はありません」
困った顔ではなかった。様式のつくりの面白いところを教えている顔だった。
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三年前の通達の写しを借りたのは昼前だった。
ケイスは棚の下から綴りを出してきた。改定の年ごとに分けて綴じてあり、指を入れればその頁が開く。ミレアは卓の空いたところへ通達を置いた。
置いて、手が止まった。
ユークには止まった理由がすぐに分からなかった。
「並べるものがありません」
ミレアの声は低かった。
「前とは違います。あのときは二枚ありました。落とす側の紙と、暮らす側の紙です。別の役所が別の様式で作って綴じる先も別でした。だからあいだに隙間を空けて置けたんです」
彼女は通達を卓の真ん中へ寄せた。
「これはあちらの帳面と同じ筋の紙です。同じところが出して同じ様式で受けて同じ綴りへ入ります。並べても隙間ができません」
卓の上に紙が一枚あった。
ユークは立って卓の縁から覗いた。二枚を突き合わせてあいだに線を引く。灰環でずっとやってきた手つきだった。突き合わせる相手がない。
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通達そのものは短かった。
掘進の向きの指針。層の傾きに沿って落とすこと。向きを直せば切羽の面が安定して支保の負担が減り、粉が立ちにくくなる。末尾に効率と事故率の見込みが数字で添えてあった。
読み違えようのない紙だった。書いた者は坑を知っている。知っている範囲で正しく書いてある。
「違反じゃないんだな」
「違反ではありません。むしろ、このとおりにしなかったほうが指導を受けます」
ユークは指で末尾を辿った。効率。事故率。粉塵。
どれも人の飯と命に直につながる項目だった。並べてある数字にも嘘はない。実際に量は増えて怪我人は減った。サヴィルが早口で答えられるほど、はっきりと減った。
「これを書いた人は、下に何があるか知らないな」
「知りません」
ミレアは通達の裏を返した。裏は白かった。
「知る欄がありませんから、知る必要も起きません」
「向こうの帳面の欄を、もう一度言ってくれるか」
「採れた量。事故の件数。坑道の維持費。滞在の可否。ほかに人の出入りと坑木の数があります」
「土地は」
「ありません」
ユークは頷いた。
削ったものを削ったと書く場所がない。書けるのは量が増えたということだけで、増えたという知らせだけが上へ行く。
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午後、ユークは坑口の脇でサヴィルを待った。
上がってきた彼は、その日も先に石を持ち上げて割れ口を日に当てた。指の腹で断面を撫でてから荷台へ放る。それから顔を上げた。
「昨日のことなら、まだ訊かねえよ」
「別のことだ。あんたの帳面を見せてほしい」
「帳面」
「商会へ出すほうじゃない。自分で付けてるほうだ」
サヴィルは掌を腰の布で拭いた。
「なんで付けてると思う」
「グニェルが付けてる」
彼は鼻から息を出した。
油紙に包んだ厚いのが詰所の裏の小屋から出てきた。開くと字が大きかった。日付。切羽の位置。上がった石の色。水の出た場所。支保を入れ替えた本数。風の抜け方。
欄はどこにもない。行の長さもまちまちだった。書きたいだけ書いて、書くことのない日は日付だけで終わっている。
ユークは頁を繰る手を一度止めた。
これだと思った。灰環では役所の紙と村の紙が別々にあって、別々だから並べられた。ここにも別の言葉で付けたものがある。
「これは上へ行くのか」
「あれが写す」
サヴィルは詰所のほうへ顎をやった。
「月の終わりに持ってく。向こうの欄へ入るように直して、それが商会から上へ行く」
ユークは手の中の厚いものを見下ろした。
二冊目ではなかった。同じ一冊の前の段だ。ここで何を書こうと、通る場所は一つしかない。
「鳴りのことは書いてないな」
「書いてねえ」
「なぜ」
「入る欄がねえ」
サヴィルは粉の付いた指を頁の上で止めた。
「俺の言葉で書くぶんには何を書いてもいい。だが写すときに向こうの欄へ入れられねえものは、写す若いのが困る。困らせても等級は上がらねえよ。……余計なことを書く現場だと見られるだけだ」
「書かないほうが真面目に見えるのか」
「見える」
彼は帳面を閉じて油紙を戻した。
「一度だけ言ったことはある。去年だ。口で言った。……書けとは言わなかった」
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ユークはずり山の裾まで歩いて足を止めた。
二年、灰環は運が悪かったのだと思ってきた。役所が処分の紙と暮らしの紙を分けたせいで、あいだの因果が落ちた。分けた者がいて、分けた線があって、線を消せば繋がるはずだった。
違った。
ここには分けた者がいない。帳面は一つで、揃っていて、日付が一日も飛んでいない。書いている者は嘘を書かず、写す者は消すなと教わったとおりに写している。それでも押さえは出てこない。
最初からその欄を作らなかっただけだ。
灰環が落ちたのは、あの穴が特別に不運だったからではなかった。
「……前と、違う」
声に出してみて、自分の探し方のほうが間違っていたと分かった。分かれているものは繋げば見える。ここは繋ぐ相手がない。書く場所そのものがない。
構造は、思っていたより一段下にあった。
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夕方の詰所で、ミレアがケイスに一つだけ訊いた。
「坑の人が気づいたことは、どこへ入りますか」
ケイスは筆を置いた。
「気づいた、というのは」
「数えられないほうです。音とか、湿りとか、こういう年は良くないとか」
しばらく返事がなかった。
彼は自分の綴りへ手を伸ばして去年の月末の頁を開いた。指がその頁の上で止まって動かない。
「……去年、差配から一度言われました」
「なんと」
「当たりの層にしては鳴るな、と」
ケイスは頁から目を離さなかった。
「私は、どの欄へ入れればいいのか分からなくて、そのまま出しました。事故ではないので事故の欄には入りません。量でもありません。維持費でもありません。……入る欄がないものは、書けないので」
言い終わってから彼の顔から色が抜けた。
「私は、何を間違えましたか」
ミレアはすぐには答えなかった。
「間違いを探すと、たぶん見つかりません」
それから彼女は自分の話をした。
「私も一度、同じところで止まりました。あのときは帳面が二枚ありました。二枚あれば並べられます。並べれば、片方に無いものが見えます」
ミレアは卓の上の一枚を指で押さえた。
「ここは一枚です。一枚で足りているように見えるものの、足りないところを見る方法を、私はまだ持っていません」
ケイスは頷かなかった。頷ける言葉ではなかった。
ユークは口を開きかけてやめた。どこの役所のものでもない紙を作って置く場所を増やす。答えの形だけなら持っている。だが口にした瞬間に、それを作った穴の名が卓へ出る。
ケイスは帳面の綴じ糸を撫でて、それから顔を上げた。
「……これ、どこに書けばいいんですか」
誰も答えなかった。
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戸が開いた。
サヴィルが濡れた肩のまま入ってきて、卓の脇で足を止めた。下段から上がったばかりだった。掌にはまだ粉が付いている。
彼はユークを見た。
「昨日のことは訊かねえと言った」
掌が卓の縁へ置かれる。
「訊き方を変える」
灯が一つ揺れた。
「で、どうすりゃ直る。うちの坑には二百人いる」




