第120話 鳴る岩
交代は日の出前だった。
飯場の前に列ができる。湯を飲んだ順に下の坑口へ吸い込まれていった。上がってくるほうは顔が黒い。すれ違いざまに短く言い合う。それだけで引き継ぎが済んでいるらしかった。
サヴィルは口の脇で人数を数えていた。
ユークは列が切れるのを待ってから寄った。
「昨日、鳴ると言ったな」
サヴィルは坑口から目を離さなかった。
「言ったか」
「湯を飲みながら」
「坑は鳴るもんだ」
数え終えてからようやくこちらを向いた。
「岩は動く。動きゃ音が出る。鳴らねえ坑があったら、そっちのほうが気味が悪いよ」
「当たりの層にしちゃあ、と言った」
サヴィルの顎が止まった。
「……言ったな」
「なぜ気になった」
「親方の言い草だ」
彼は坑口の板へ手をついて中を覗いた。
「よく採れる層は静かなもんだ、ってな。理屈は聞いたことがねえ。年寄りの言うことだよ」
答えを避けたのではなかった。続きを持っていない止まり方だった。
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ユークは半日その言葉を持って歩いた。
上の段の古い口を見せてもらった。ずり山の裾を回った。洗い場の樋の水を掌に受けると冷たかった。濁りはない。飲めるのかと訊くと坑夫は笑った。飲んでるよ、と言われた。
鳴りは音だ。音は残らない。
残るのは岩のほうだった。灰環の底で分かったことは全部あの一体の角が拾ってきたものだ。ここでも同じやり方をするしかない。そしてそれは他人の坑へ自分の獣を入れるということだった。名目のどこにも入っていない。荷の同行者に、そんな行いはついてこない。
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昼過ぎに下の坑口の脇でサヴィルを捕まえた。
「頼みがある」
「言え」
「連れているものがある。岩を触らせてほしい」
サヴィルの目が細くなった。
「連れてる」
「掘る獣だ。角で岩に触れる。触るだけだ。掘らせない」
長い間があった。
「駄目だ」
早くも遅くもない断り方だった。
「ここは商会の坑だ。登録もされてる。魔物を入れたと知れりゃ等級に響く。響けば人の飯が減る。……それに、あんたが何者かを俺は知らねえ」
「分かった」
ユークは引いた。
押せば通ったかもしれない。通せばここで作れるものが一つ減る。決めるのは払う側だ。灰環の外へ出たからといってそこを変える気はなかった。
少し離れてからミレアが低く言った。
「押しませんね」
「押さない」
「では、こちらは紙にしません。頼んだことも断られたことも書きません」
「書いたら」
「書けば、断ったほうが記録に残ります」
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ユークが次にサヴィルの前へ立ったのは日が傾いてからだった。
持っていったのは理屈ではなかった。
「下段の交代が終わったあとに人を全部上げてほしい。空になってから入る。付き添うのはあんた一人でいい。入るのは切羽の手前までだ。切羽には近づけない」
サヴィルが顔を上げた。
「爪は土に入れさせない。角だけだ。合図は梯子の柱を三度打つ。打ったら何も訊かずに上がる。時間は半刻。過ぎたら中で何が起きていても上がる」
「……」
「灯は落としてもらう。連れのもう一体が光を出す。ほとんど出ない光だ。坑の灯があると読めない」
「もう一体いるのか」
「いる。こっちは何もしない。地面の中を写すだけだ」
サヴィルは腕を組んだまま長く黙った。
「そいつは何ができる」
「岩の噛み合わせが読める」
「直せるのか」
「直せない」
ユークは言い直さなかった。
「読めるだけだ。直し方は連れていない」
サヴィルの首が浅く動いた。段取りの話になってから彼は一度も口を挟んでいない。
「……半刻だ。俺が付く。書役には言わねえ」
「帳面は」
「点検と書く。嘘じゃねえよ。点検だ」
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樽の蓋を外すとグランは自分で這い出した。
板を伝ってくる重さは朝より軽い。灰環の外では自分で魔力を補えない。連れて出て七日になる。使えば減る。減ったぶんは戻らない。
ずり山の陰を通って坑口まで下ろした。夜番はもう上の飯場に寄っている。
下段までは梯子が三本と斜坑が一本あった。
支保の木は新しい。三年ぶんの新しさだ。歩くと足の下で細かい水音がした。壁に掌を当てると水が指の腹に薄く付く。滴るほどではない。昼に坑夫が良い層だと言っていたのはこのあたりだった。掘っても粉が立たない。
サヴィルが灯を落とした。
闇になる。坑の中の闇は外の夜より重かった。
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角の根元が岩へ当たる音がした。
しばらく何も来ない。それから重さが返った。
――組んである。
灰環の底で同じものが返ったときは膝の骨まで来る厚みがあった。ここは浅い。手首の先で止まる。それでも同じ言い方をしていた。割れたい向きへ割らせず、噛ませて力を逃がしてある。誰かが並べた。並べた者はもういない。
ユークは壁へ手を伸ばしかけて止めた。
触っても何も返らないのは分かっていた。灰環の底でもそうだった。読むのは角のほうで、こちらは読まれたものを受け取るだけだ。
そこへもう一つ返ってきた。
――動いてる。
「崩れかけてるのか」
――ちがう。ずれてる。ゆっくり。
灰環では返らなかったものだった。あそこの噛み合わせは組まれたところに座ったままだ。ここは座っていない。ごく遅い方向へ噛みが逃げていっている。
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布を開けるとルーメの光は蝋燭ほどもなかった。
灰環の外へ出てから細り続けている。それでも灯苔精は壁際へ寄って光を薄く引き伸ばした。
黒の中に筋が浮いた。
灰環の底では太い流れが横へ寝ていた。ここは違う。細い筋が壁の中を上へ向かっている。何本もあった。真上ではない。割れ目に沿って斜めに、上へ。
ユークは筋の行き先を目で追った。追った先に切羽がある。坑夫が毎日掘っている面だ。
押さえたものの余りが上へ来る。
灰環では水が上がってきた。ここは岩が割れて欠片が上がってきている。上から押さえて余りが漏れる形は同じだ。漏れているものが違う。押さえているものも違う。
掘りやすい層に当たった。粉が立たなくなった。水が増えた。
どれも本当だった。本当のまま意味が裏返る。
灰環はハズレの野良だと言われてきた。あれは数えられていなかっただけだ。ならば数えられていない穴はほかにもある。
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角が上がった。
――来る。
ユークは梯子の柱を三度打った。
打つ音より先にサヴィルの声が上へ飛んでいた。訊き返しはない。坑の人間は退けと言われたら先に退く。
上では夜番が下りかけていた。
斜坑の途中で列が止まって逆流する。梯子の口で上がる者と下りようとした者が鉢合わせた。
その中をユークたちが上がった。
布はかけていた。四つ足は隠しきれなかった。
地面が鳴ったのはそのあとだった。
音は低い。腹に来る。切羽の側で天井が落ちた。落ちたのは一抱えほどの塊が数個で、埃のほうが長く残った。
誰もいない場所だった。
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坑口の外で人数を数え直すのに四半刻かかった。
全員いた。怪我人もいない。夜番の頭が下段まで降りて、切羽の手前までなら明日から使えると言って上がってきた。
サヴィルは何も説明しなかった。
説明のないほうが坑では普通だ。理由はあとで聞く。それで三十年やってきた者たちだった。
ただし見た者はいた。
若い坑夫が仲間の肩を叩いて笑っている。
「なあ、今の。獣がいたぞ。荷の獣がなんで下にいるんだよ」
誰も答えない。答えないだけで否定もしない。
ユークは立ったまま聞いていた。口を挟めば挟んだぶん残る。挟まなくても残る。
ミレアが横へ来た。
「五人です」
「数えたのか」
「梯子の口ですれ違った者を数えました。……一人は口が軽そうでした」
「止められないな」
「止めれば、止めたことが残ります」
ミレアは綴りを開かなかった。
「灰環の獣が登録迷宮の坑にいた。書かれるとすればその一行です。人が助かったことは、そのあとに書かれません。……助けたことが、そのまま弱みになります」
分かっていた。分かっていて降ろした。
払うと決めた代価がまた一つ増えただけだ。
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人が引けてからサヴィルが落ちた石のところへ戻った。
灯を近づけて割れ口を見ている。前の日に上がってきた石を見ていたのと同じ手つきだった。
しばらくして、顔を上げないまま彼は言った。
「あんた、なんで分かった」
ユークは答えなかった。
答えられなかった。下に何があるかを言えば、その次に外し方を訊かれる。訊かれて答えれば、この坑の外へも同じ話が出ていく。
サヴィルは急かさなかった。
灯の下で石の割れ口だけが白く光っていた。




