第119話 よく回っている迷宮
街道は東へ折れて半日で良くなった。
轍は深いのに走りやすい。踏まれ続けた底が締まって雨の抉りが埋まっている。北を三日歩くあいだに人とすれ違ったのは四度きりだった。こちらでは昼のうちに数えるのをやめた。
空の車が西へ下り、積んだ車が東へ上がる。行き違うたびに御者が顎だけ動かして挨拶をした。ドーランも同じ動かし方をした。
「この道は誰が直してる」
「商会だ」
手綱を持ち替えながら答えが返った。
「道が荒れりゃ車軸が折れる。折れりゃ荷が遅れて値が動く。……直したほうが安いんだよ」
宿場を二つ通った。どちらも灯が入っていて、馬の継ぎ場に空きがなかった。
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坑が見えたのは二日目の昼過ぎだった。
山の裾が削られて段になっている。段ごとに口が開いていた。三つ。いちばん下の口は荷車が二台並んで入れる幅がある。上の段には木組みの櫓が立ち、綱が坑口へ吸い込まれていた。
ずり山の裾を回ると音が変わった。
鎚の音。巻き上げの軋み。人の声。飯場から湯気が上がっていて、その手前に洗い場があった。水は樋で引いてある。洗い場に女が三人立っていた。
子どもが走っていた。
ユークは荷台の後ろからその子を目で追った。坑のそばに子どもがいるということは、坑のそばに家があるということだ。家があるということは、この穴が明日も明後日も開いていると誰も疑っていないということだった。
人の数はすぐに分からなくなった。二百人と聞いていた。数えるつもりで見ているうちに列が動いて、数えていた列の後ろに別の列ができた。
灰環の坂を思った。
二年でやってきたことを順に並べると、坑口の前を掃くところから始まって、水を配るところまで来ている。人はまだ増えていない。飯場はない。洗い場に立つ者もいない。
ここには全部あった。
引っかかったのは炉底ではなかった。自分の胸のほうだった。着いていない場所から来た人間が、着いている場所を見て一瞬うらやましがっている。その一瞬に気づいて、ユークは荷の縄を結び直した。
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荷下ろしは下の段の受けでやった。
番が二人立っていて荷札を見て通す。ドーランが名を告げると帳面に書き込まれた。書いていたのは若い男だった。
二十そこそこに見える。前掛けの上から筆入れを提げて、荷の数を目で数えてから書く。書いてからもう一度数えていた。
「三十二で合っています」
「合ってる」
「では受けます。……こちらは同行の方ですか」
「照会の同行だ」
ドーランが短く答えた。若い男は頷いて人数だけを書いた。名は訊かれなかった。
ケイスと名乗った。シェルド商会の書役だという。
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差配の名は道中に聞いていた。
「サヴィルってやつだ。坑の中のことは全部あれが決めてる。……ハウルのグニェルの名を出しときな。あの二人は昔、同じ切羽にいた」
サヴィルは下の坑口の脇にいた。
五十の手前に見えた。肩と首の境がなく、手の甲に古い黒が入っている。坑で入った粉が皮に残るとああなる。上がってきた石を一つ持ち上げて、割れ口を日に当てて見ていた。
「ハウルのグニェルに世話になってる」
石を置いてこちらを見た。
「グニェルを知ってるのか」
「帳面を見せてもらった」
「あれが帳面を見せたのか」
サヴィルは笑わずに鼻から息を出した。
「三十年前に同じ切羽にいた。……あんた、坑の人間じゃねえな」
「荷の同行だ」
「だろうな。手が違う」
ユークは自分の掌を伏せた。伏せてから、伏せたことのほうが答えになったと思った。
「訊いてもいいか。口が三つあるが、三つとも同じ層へ落ちてるのか」
「上の二つは古い。今は風を通すのと荷を上げるのに使ってる。掘ってるのは下の一つだ」
「風は」
「よく通る」
答えが早い。訊かれ慣れた問いへの答え方ではなく、毎日自分で確かめている者の答え方だった。
「三年前に向きを変えたと聞いた」
「荷の話でか」
「増えたと聞いた」
「増えた」
サヴィルは坑口のほうへ顎をやった。
「改定で通達が来た。掘進の向きを直せと。……役所の紙にしちゃ書いてあることは間違ってなかったよ。層の傾きに沿って落とせってだけだ。そのとおりにした」
「その前は」
「横へ追ってた。親方の代からそうだ」
「変えて」
「増えた」
石が一つ荷台へ放られた。乾いた音がした。
「事故は」
「減った」
これも早かった。
「三年で怪我人は二人だ。どっちも足で骨は折れてねえ。……その前の三年は九人いた。うち一人は戻ってこなかった」
指では数えなかった。数えなくても出てくる数だった。
「粉が立たなくなったのが大きい」
「粉」
「下のほうが湿ってきた。昔は乾いてて、掘るたびに粉が立った。粉は目に入るし肺にも入る。何より前が見えねえ。……今は濡れてる。濡れてりゃ立たねえよ」
「水が増えたのか」
「増えた。汲むぶんが増えたのは面倒だがな。それを足しても釣りが来る」
サヴィルは石を拾い直して割れ口をこちらへ向けた。
「掘りやすい層に当たったんだ」
良い知らせだった。ここまでの話は全部が良い知らせでできている。向きを直した。量が増えた。粉が減った。人が死ななくなった。並べ方のどこにも無理がない。
灰環の下で見たものを思い出しかけて、ユークはそこで自分を止めた。
あそこは水の穴でここは岩の穴だ。読めた並びを持ってきて当てはめようとしている。配分の先に何かあるはずだと二年思い込んでいたときと、手つきが同じだった。
訊けることはまだある。訊いてから並べればいい。
「湿ってきたのは、向きを変えたあとか」
サヴィルは石を置いた。
「……そうだな。あとだ」
それだけ言って、彼はもう次の石を見ていた。
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夕方、詰所の卓でミレアがケイスの帳面を見せてもらっていた。
ユークは戸の脇に立っていた。覗けば同行者の顔でなくなる。
卓の上で頁が繰られる音がしばらく続いた。
「日付が一日も飛んでいませんね」
「飛ばすと後で分からなくなりますから」
「訂正のところも残っています」
「消すなと言われました」
ケイスは筆入れの紐を直した。
「上の様式では、直したときは二本線で残して脇へ直しと初めの数を並べます。私はそう教わりました」
ミレアは最後の頁まで繰ってから、もう一度初めへ戻した。戻して同じ速さでもう一度繰った。
「どうかしましたか」
「いえ」
ミレアは束を閉じた。
「よく整っています」
ケイスは目を伏せて耳のあたりを掻いた。
「整えるのが仕事ですから」
それから顔を上げて、少し早口になった。
「あの、読むのがお早いですね」
「昔、こういう紙を書く側にいました」
「役所ですか」
「役所です」
ケイスは頷いて、綴じ方が古いと言われたことがあるのだと相談を始めた。ミレアは糸の掛け方を二通り教えて、上へ出す前に何度見るのかと訊いた。
三度です、と答えが返った。
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寝るのは飯場の裏の小屋を借りた。
横になる前にユークは指を折った。
灰環を出て六日。三日はとうに過ぎている。濁りを抑えていられるのは三日だとモルトは言った。四日目から追いつかない日が出る。
村が井戸を止めたかどうかは、ここでは分からない。止めたという報せは追いかけてこない。止めていいと言って置いてきた以上、止まっていて当たり前だった。
数えたところで何も変わらない。それでも毎晩数えていた。
窓の外で詰所の灯がまだ点いている。中で人が動いていた。夜でも人がいるということは、夜でも誰かが紙を書いているということだ。
ミレアがザグレスへ渡した書面を思い出した。紙を受け取らない権限。あれを書いたとき、使う日は来ないだろうと二人とも思っていた。来ないと思うものほど先に書く。四つに畳んだそれが今、留守を預かる男の胸に入っている。
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荷車は受けの脇の空き地に入れてあった。
ユークは灯の届かないところで荷台の板へ手を当てた。
返る。返りは昨日より遅い。向きだけは狂わなかった。板の下で角が北西を指している。距離が延びても、そこだけは正確だった。
籠の布を指で開いた。ルーメの光は透けなかった。近づけて初めて分かる程度に、布の内側がわずかに温い。
板へ戻した掌に、遅れて別のものが来た。
言葉ではない。パス越しに来るのは形と重さだけだ。
塞がれた穴の前では何も来なかった。畑の撓みの上でも、土は緩んでいるというだけだった。ここは違った。地面の下に厚みがある。灰環のいちばん下に立って膝の骨まで響いたときと、同じ種類の重さが板を通って上がってくる。
ユークは手を離した。
他人の穴だった。まだ何も頼んでいない。
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飯場の外の腰掛けで坑夫が湯を飲んでいた。
灯が一つ下がっていて、そこだけ明るい。サヴィルは輪の端に座って自分の掌を見ていた。話は荷の値と来月の休みと、下の段の梯子のことだった。
湯気が薄くなったころ、サヴィルが誰にともなく言った。
「……当たりの層にしちゃあ、鳴りすぎるんだよな」
誰も返さなかった。
若いのが笑って湯を注ぎ足し、隣の男が梯子の話へ戻った。サヴィルもそれきり掌を膝へ置いた。言った本人が、言ったことを追いかけていない。
ユークは椀を持ったまま動けなかった。
訊き返す口が開きかけたところで飯場の戸が開いて、中から人が出てきて話が流れた。
卓の向こうではケイスが今日ぶんの帳面を閉じて紐をかけていた。三十二の荷。上がった量。夜番の名。全部がその中に入っている。
鳴る、という言葉はどこにも入らなかった。
書く欄が、どの帳面にもない。




