第118話 番号で呼ばれる穴
村を出るとき通りに人はいなかった。
板壁の紙はそのまま留まっていた。角の丸くなった紙を誰も剥がしていない。剥がされないというのは読まれ続けているという意味ではないが、捨てられてもいなかった。ユークはそれだけ確かめて荷車の後ろへついた。
道は村外れで二つに分かれていた。
東へ抜ける轍の深いほうと、斜面を登る細いほうだ。細いほうに轍はない。草が真ん中まで伸びていて、その伸び方が何年ぶんなのかは見ただけでは分からなかった。
ドーランは分かれ目で馬を止めた。
「俺はここで待つ」
「来ないのか」
「荷を穴のそばへ寄せる商人はいねえよ。験がどうのって話じゃねえ。寄せたところで一文にもならねえ」
御者台から降りる気配はなかった。
「半日だ。日が傾く前に戻れ。戻らなけりゃ先へ出す」
「分かった」
ユークは荷台の後ろへ回って空樽の板へ手を当てた。重さは返ってくる。ただ返るまでに一拍あった。坂の下で測ったときにはなかった一拍だ。
蓋を外すとグランは自分で這い出した。地面へ降りてから一度だけ北西を向いた。
止めなかった。止めれば命令になる。向きを確かめるだけならこの一体の勝手だ。
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斜面は思ったより登りやすかった。
道が残っている。三代ぶん踏まれなかった道が形だけ薄く残っていて、下草がその形をなぞって生えていた。通わなくなった道は消えるのではなく、こうして残るものらしい。
中腹でミレアが足を止めて綴りを開いた。
「ここです」
斜面に窪みがあった。窪みの奥が石と土で塞がっている。積んだのではない。上から落として詰めた形だ。石の色が周りと違った。焼いた跡が黒く残り、その黒が雨で流れて下の草を灰色にしている。
高さは人の背より低い。屈んで入る口だったのだろう。
「名前は」
「ありません」
ミレアは頁を指でなぞった。
「処分票に番号があるきりです。北方七区の二十七。処分の年と方法。焼いて塞いだ、と」
「名の欄は」
「初めから空白です。付けられなかったのではありません。書く決まりがないんです」
二十七という数は現地のどこにも書かれていない。番号で呼ぶ者はここに一人もおらず、名で呼ぶ者はもういない。イルサはあっちだと顎で示しただけだった。
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ユークは口の前に立って耳を澄ませた。
静かだった。
塞がれた穴なのだから当たり前だと最初は思った。何も出てこないし何も動かない。処分済みとはそういうことだと台帳も言っている。
立っているうちに違和感のほうが濃くなった。
灰環のいちばん下も静かだった。水が鳴らなかった。鳴らないのに膝の骨まで重さが響いていた。押さえられているものが下にあるから、あの静けさには厚みがあった。
ここには厚みがない。
足の裏に何も来ない。硬い土があるだけだ。押さえている静けさではなく、何もない静けさだった。
ルーメを籠から出した。
布を開けると光は思ったより弱かった。灰環の外へ出てから細り続けている。それでも灯苔精は斜面を漂って、塞がれた口の前を低く一往復した。
それきり止まった。
脈を写すときこの一体は光を薄く引き伸ばして地面へ這わせる。灰環の底では黒い岩の上に太い流れが浮かんだ。ここでは光が這うだけで何も浮かばない。二往復目も同じだった。高さを変えても同じだった。
「写すものがないんだな」
パス越しに返ったのは戸惑いでも詫びでもない。ない、という平らな感触だった。灯苔精は意味を読まない。あるものはあると写し、ないものはないと返す。
ないと分かるのは、あるものを先に見たからだ。灰環の底を見ていなければ、ここは静かな斜面でしかなかった。
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グランは口の脇の岩へ角の根元を当てていた。
しばらく動かない。それから同じ場所を二度こすった。手つきに覚えがあった。灰環の底で床をなぞったときと同じだ。
返ってきたのは短かった。
――外れてる。
「噛み合わせがか」
――外れてる。ずっと下まで。
ユークは屈んで岩へ掌を当てた。掘る者の目は持っていない。それでも並べて言われれば、分かることがある。灰環の底の岩は割れたい向きへ割れずに噛み合わされていた。無理に組んであるから力が抜けない。ここの石はその裏返しだ。噛んでいたものが外れて、外れたまま落ち着いている。
誰かが外したのではない。塞いだ者は上から石を落としただけだ。
押さえる者がいなくなって、あとは時間が外した。
組んだ器はそういうふうにできている。一枚外れれば隣が動く。動けばその下が動く。灰環ではその一枚に手をかけかけて止められた。ここでは止める者が誰もいないまま下から順に外れていった。
緩めば下が動く。動けば上を押していた力が抜けて土地が沈む。沈んだ土地の水脈は濁る。
言葉としてはもう知っていた並びだ。今日はそれが足の下にある。
昨日握った畑の土は下から支えを抜かれた緩み方をしていた。水汲み場を覗いて底の石は見えなかった。あの二つはこの斜面の続きだった。順番の最後の二つだけを先に見ていたことになる。
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グランが前足を動かした。
塞いだ石の縁に爪をかけて浅く土を掻いた。掻いてから角をこちらへ向ける。訊いていた。
「やめろ」
声のほうが先に出た。
掘角竜は爪を離した。
ユークは自分の手が動いていなかったかを確かめてから口のほうへ目を戻した。
中を見たいのは本当だった。石を一抱えぶん除ければ、器の形が見える。噛み合わせがどこから外れたのかも辿れるかもしれない。
できない理由が二つあった。
一つは灰環の底で言われたのと同じだ。抜けたあとの何がどう座り直しているのかを誰も知らない。落ち着いているものを動かして、動いた先を戻す手はこちらにない。
もう一つは紙だった。他人の領の処分済みの穴を無断で掘れば一行になる。無資格の男が処分票の穴を開けた、と。書かれれば、灰環がこれから出す紙は一枚残らずその一行の後ろに並ぶ。
「掘れませんね」
「掘れない」
同じ結論に別の道から二度着いた。灰環では緩むから抜けなかった。ここでは緩むものがもうないのに、それでも抜けない。
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下りながらミレアが控えを読み上げた。
脈がない。噛み合わせが外れている。畑の一角が撓んでいる。水汲み場の底が見えない。
四つとも本当のことだった。四つ並べても紙にはならない。
「そう見えた、で終わります」
ミレアは足元を見ながら言った。
「見た者のことも書けません。無資格の男と、院を辞めた女です。読む側は先に肩書きを見ます」
ユークは黙って歩いた。
前任の査察官が残した一行を思い出していた。土地の下の何かを押さえている。あれは正しかった。正しくて、翌年には制限のかかった棚へ入った。正しさが足りなかったのではない。確かめようのない書き方だったから、確かめないまま仕舞える形になった。
今日持ち帰れるものも同じ形をしている。
「跡は駄目だ」
斜面を下りきってユークは言った。
「掘り返せないものは証拠にならない。三日歩いて分かったのがそれかと言われたら返せない。……だが分かった」
「無駄足だったとは書きません」
ミレアは綴りを閉じた。
「そう書けば、無駄足だったことになります」
要るのは押さえている最中の現物だった。それも灰環ではないほうの。
灰環しかないと思っていた。灰環しか見ていなかっただけかもしれない。
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分かれ道でドーランは馬の腹を撫でていた。
「早かったな」
「穴を見ただけだ」
「何かあったか」
「何もなかった」
ドーランは鼻を鳴らして御者台へ上がった。
「そりゃ良かったじゃねえか」
ユークは言い返さなかった。何もなかったというのが今日いちばん重い報せだと、この男に伝える言葉をまだ持っていない。
グランを樽へ戻すのに昨日より手間がかかった。自分では入った。板を伝ってくる重さが朝より軽い。ルーメの籠は布をかけると光の透けがほとんど分からなかった。
連れて出て四日目になる。日数を数える欄はどこの帳面にもない。ユークは頭の中でだけ数えた。井戸も同じ数だけ数えている。濁りを抑えていられるのは三日だとモルトは言った。三日はもう過ぎた。
過ぎた先を決めるのは村だ。決めていいと言って置いてきた。置いてきたぶんだけ、こちらは何日目かを数えるしかできない。
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荷車が東を向いたところでミレアが行程の紙を開いた。
地名の並びが北で一度切れて、そこから東へ伸びている。
「二日です」
ミレアは紙の端へ指を置いた。
「坑口が三つ。人が二百人。三年前の等級改定のあと、採集も安定運用も上がっています」
「炉底だな」
「炉底です」
ドーランが振り向かずに言い足した。
「門の前は掃いてあるし番も立ってる。積み下ろしの列が道まで出てたぞ。……止まりかけてる穴ってのは、まず門の前が汚ねえもんだ」
掃かれた門。増えた荷。上がった等級。この街道で炉底の話をすると、そういう言葉しか出てこない。
余りは押さえたあとに漏れるものだ。漏れが増えたなら、押さえのほうで何かが起きている。灰環の下を見たあとの目には、そのどれもが裏から読めてしまう。
根拠は灰環一つぶんしかない。言えば人の生業に触る。
ユークは紙の東の端を見ていた。
まだ立っている穴まで、二日だった。




