第117話 穴のあとの村
北の道は聞いていたより悪かった。
雨で抉れた轍が三日ぶん続いて荷車は一日に二度は止まった。ドーランは轍を見るたびに舌を打ったが道を変えるとは言わなかった。北を回らずに東へ抜ける道はない。
昼のあいだユークは荷車の後ろを歩いた。空樽の底にグランがいる。板越しに重さが伝わってくるだけで鳴きもしないし動きもしない。ルーメの籠は布をかけて荷の隙間へ挟んである。布を開けるのは火から離れた夜だけにした。光は坂の下で見たときより細い。
人とすれ違ったのは三日で四度きりだった。
馬を継ぐ宿場を一つ過ぎると畑も柵も間遠になった。ミレアは歩きながら行程の紙へ道の様子を書き足していく。ユークは誰にも名を訊かれなかった。荷の同行者に名を訊く者はいない。
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三日目の夕方に村へ入った。
最初に妙だと思ったのは静けさではなかった。家が壊れていないことだった。
通りの左右に家が並んでいる。屋根も落ちていないし壁も抜けていない。ただ戸が閉まっている。閉まった戸の前に草が伸びて、伸びた草が踏まれないまま立っている。井戸へ向かう道だけ土が締まっていて、そこから枝分かれした細い道は草に埋もれていた。
人が去った村は荒れるのだと思っていた。荒れていない。形のまま止まっている。
「半分ってところだな」
ドーランが荷台の縁へ手を置いて言った。
「昔はこの通りだけで二十軒あった。……俺が荷を入れてた頃の話だ」
「今は」
「今は聞くまでもねえ」
彼は馬の口を桶へやりに行った。行きがけに一度も家のほうを見なかった。
村の名はヴァレといった。宿はない。空き家の一軒を貸すという話になって、鍵はかかっていなかった。中は埃だけで、竈の灰まで残っていた。出た者は片づけて出たのだ。
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水汲み場は村の真ん中にあった。
ユークは縁へ寄って中を覗いた。
底が見えない。
深いからではなかった。縄の長さで測ればクルン村の井戸とそう変わらない。桶を落として上げれば水はちゃんと来る。手に受けて匂いを嗅いだ。饐えてはいない。飲める水だ。ただ濁っている。器へ取れば向こうが透けない程度に濁っていて、その濁りを誰も気にしていない。
村の女が桶を受け取ってそのまま炊事へ持っていった。濾しもしないし置きもしない。ここではこれが水だった。
朝いちばんに覗くと底の石が見える。クルン村でリクがそう言ったとき、あれは自慢の形をしていなかった。井戸の話をしていただけだ。同じ話がここでは裏返っている。
北の村から流れてきた人が去年それを見て黙った、とあの少年は言い添えていた。黙った相手がどの家から出てきたのかを、ユークはそのとき訊かなかった。訊いていれば、この通りのどの戸だったかまで分かったかもしれない。
「珍しい話じゃねえよ」
ドーランが後ろから言った。
「街道が細りゃ人は町へ出る。井戸が良かろうが悪かろうが荷の来ねえ村から人は減る。どこでもそうだ」
「そうだな」
ユークは頷いた。頷いても縄から手を離さなかった。
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翌朝、村の西の畑を見に行った。
麦の刈り跡が残っていて、その一角だけ色が違う。近づいて理由が分かった。低い。畝の列がそこだけ緩く沈んでいて雨の跡が筋になって溜まっている。段になっているのではない。撓んでいる。
「そこは昔もっと高かったよ」
声は畑の端から来た。
小柄な老婆が籠を提げて立っていた。腰は曲がっているが足取りは確かで、こちらを見る目に驚きがない。旅の者を見慣れているのではなく、驚くだけの張りが残っていない目だった。
「高かった、というのは」
「うちの人が生きてた頃はな。あっちで転がした桶がこっちへ転がってこなかった」
老婆は籠を持ち替えた。
「今は転がってくる」
イルサと名乗った。字は読めないと先に言った。
ユークは撓みの縁へ屈んで土を握った。締まり方が均していない。踏み固めた土の硬さではなく、下から支えを抜かれた土の緩み方だった。
沈んだと書いた紙はどこにもない。田畑の反別は変わっていない。反別は面のことしか書かない。面の高さが下がっても数は一つも動かない。
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その晩ミレアが村の書役の家へ上がった。
書役は六十過ぎの男で、目が悪くなったからもう書きたくないとこぼしながら控えの束を出してきた。ミレアは灯を近づけて頁を繰った。ユークは框に腰を下ろして待った。院の紙は出さなかった。役所の紙を出せば、こちらは役所として扱われる。
繰る音がしばらく続いてから止まった。
「四です」
ミレアが顔を上げずに言った。
「増減の理由の欄です。四に丸が付いています。他所への移り、の四です」
「毎年か」
「毎年です。十二年ぶん全部が四です」
嘘ではない。人は本当に町へ移った。移った先まで書役は書き添えている。一字も間違っていない。
クルン村は違った。去年の届けで五に丸を付け、その他の脇へ村の書役の字で井戸濁りと五文字だけ入れてある。凡例が許すいちばん遠くまで伸ばした形だった。
「こちらの書役さんは、井戸のことを知らなかったわけではありません」
ミレアは束を閉じた。
「濁っているのかと訊いたら、そりゃあ濁ってるさと返ってきました。ではなぜ書かなかったのかと訊いたら、書く欄がどれか分からなかったと」
四に丸を付けた男も五に丸を付けた男も、自分の紙の上では正しい。片方は正しく書いて井戸を消し、片方は正しく書いて五文字だけ残した。差は書いた者の善し悪しではなかった。凡例の作りだ。
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朝、集会小屋の板壁に紙が留めてあるのをミレアが見つけた。
見覚えのある形だった。土地がなぜ痩せるのかだけを並べた紙。濁る。移る。細る。減る。灰環の名は真ん中になく、端に一度あるきりだ。
雨に当たった跡があって角が丸くなっている。読まれてはいる。破られてもいない。
「届いていますね」
「届いてるな」
ユークは板壁の前に立った。ここまで来たのかという実感より先に、来て何になったのかという問いが立った。
読んだ者は読んだ。読んで、そのまま留めておいた。
イルサが桶を提げて通りかかり、足を止めた。
「あんたらの紙かね」
「私たちが写した紙です」
ミレアが答えた。イルサは紙を見ずにこちらを見ていた。字が読めないと先に言った人だった。
「読んでもらったよ。若いのに読んでもらった」
「どう思われましたか」
「よく分かったよ」
老婆は桶を持ち替えた。
「濁って、出ていって、細って、減る。うちの順番だ。……それが分かって、うちの井戸が戻るのかね」
ユークは答える前に一度息を吸った。誤魔化す言い方が三つばかり浮かんだ。どれも半分は本当のことで、残りの半分は先の話へ逃げる言い方だった。
「戻りません」
そう言った。
「抜けた押さえを後から入れ直す手を、誰も持っていません。俺も持っていない。この紙は、この村の井戸を澄ませるための紙ではありません」
イルサは黙っていた。責める顔もしなかった。責められたほうが楽だったとユークは思った。
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「じゃあ何しに来たんだ」
声は横から来た。
二十代の男が鍬を担いだまま歩み寄ってきて、板壁の紙を顎で示した。
「その紙もあんたらか」
「そうです」
「今さら来て何を書くんだ。書いたら水が澄むのか。婆さんの畑が上がるのか」
男の目は据わっていなかった。据わっていないぶん言葉が止まらない。
「うちの親父は最後まで待ってたぞ。役所が何か言ってくると思って待ってた。死ぬまで待ってた。何も来なかった」
ユークの口の中まで言葉が出かかった。自分たちは役所ではない。書くのはこの村のためではなく次のためだ。並べれば通る理屈だった。通る理屈だから始末が悪い。
言えばこの村は説明された側になる。説明された側は二度と口をきかない。
彼は黙った。
こういうときに肩へ手を置いて一言で流す男がいる。桶が傾いてるぞ、とだけ言って場の温度を一段下げる男だ。その男は今、灰環の砦で留守を預かっている。連れて来られなかったのではない。連れて来なかった。あの選び方の代価がここで出ていた。
ドーランも荷台の陰から動かなかった。荷を入れなくなった側の人間が今さら何を言えるのかという顔をしていた。
ミレアが筆を置いた。書く手を止めることでしか答えられない場面がある。
男は舌打ちをして畑のほうへ歩いていった。
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しばらくしてイルサが桶を地面へ下ろした。
「あれの親父は真面目な男だったよ」
それだけ言って板壁のほうへ顎をやった。
「うちのは戻らねえ。それは分かってる。あんたが今そう言ったからじゃない。二十年前から分かってた」
風が空き家の草を鳴らした。
「……だが、うちのが何だったのか、誰も書かなかったってのは、書いといてくれ」
ユークは老婆を見た。
「書きます」
「うちの井戸が濁ったのは運が悪かったからだと、みんなそう言ってた。わたしもそう言ってた。運が悪いってのは誰も悪くねえってことだ。それで二十年やってきた」
イルサは桶を持ち上げた。
「運じゃねえなら、書くとこがあるだろ」
ミレアが板を開いて筆を執った。日付を書き、村の名を書き、それから老婆の言葉をそのまま写した。一字も足さない。一字も減らさない。
ユークは自分がなぜ三日も北へ歩いたのかを、そこでようやく言葉にできた。
「この村の証言は、この村を救いません」
筆の先を見ながら言った。
「調べるのは戻すためじゃない。次を減らすためだ」
言ってからこれは村の前で口にする言葉ではないと思った。だがイルサは頷いた。
「そのほうが正直でいい」
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荷は昼前に出ることになっていた。
ドーランが馬を繋ぎ直し、ミレアが控えの写しを畳んで束へ入れた。ユークは荷台の樽の位置を直しながら、西の畑の撓みをもう一度眺めた。あの緩みの下に何があるのかは土を握っただけでは分からない。分かる手は樽の底にいる。人目のある村の中で出すわけにはいかなかった。
板へ手を置くと、坂の下で確かめたときより手応えが軽かった。灰環の外にいるあいだ、この一体は持って出たぶんを減らしながら歩いている。あと何日ぶん残っているのかを数える欄は、どこの帳面にもない。
出がけにイルサが通りへ出てきた。
礼を言いに来たのだと思ったが違った。籠も桶も持たずに立っていて、村外れのほうへ顎をやった。
「穴は、あっちだ」
ユークは顔を上げた。
「……もう誰も名前で呼ばねえけどな」




