第116話 名も置いていく
クルン村へ下りたとき霧はまだ畑の上に残っていた。
井戸端にはもう人がいた。オドルが桶を縁へ置き、リクが縄を巻く手を止めてこちらを見る。水汲みの手が四人。ミレアは半歩下がって立ち、ザグレスは井戸から離れた石に腰を下ろして煙草をくわえていた。火はつけていない。
ユークは懐の紙に手をやらなかった。先に出すのは紙ではない。
「しばらく留守にします」
最初にそう言った。
「何日になるかは分かりません。……先に、減るぶんの話をします」
オドルは何も言わずに桶の縁へ手を置いた。
「水は止まりません。配る量も減らしません。留守のあいだ、枝は今の開き方のまま回ります」
「それなら困らんが」
「困ります」
ユークは首を振った。
「開き方が動かせないというのは、細ったときに戻す手がないということです」
晴れが続けば余りが減る。減れば槽の流れが緩む。緩めば底の泥が舞う。舞えば井戸が濁る。いつもなら枝の締まりを少し戻して流れを持たせる。その手が留守のあいだだけ砦から消える。
「モルトが先に底を浚っておけます。三日までです。四日目から追いつかない日が出ます」
「四日目か」
「四日目です」
オドルは井戸の底のほうを見た。
「何日で戻る」
「分かりません」
「……またそれか」
「またそれです」
北へ三日。そこから東へ二日。帰りも同じだけかかる。向こうで何日かかるのかは行ってみなければ分からない。数えられるところまでは数えて、数えられないところで止まる。それがいちばん正直な答え方だった。
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ユークはそこで一度黙った。
言い方を選ぶための間ではない。言わないと決めた言葉を通り過ぎるための間だった。
昨夜のうちに答えは出ていた。まとめて承知を取れば片はつく。つくが、取った瞬間にこの砦の紙は一晩で役所の紙と同じ顔になる。
「まとめて承知してくれとは言いません」
ユークは言った。
「そのかわり、決めるほうを置いていきます」
オドルの眉が動いた。
「井戸が濁りはじめたら、村へ来る枝の栓を落としてください。砦の側にあります。板を一枚落とすだけです。俺の手は要りません」
「落としたら」
「灰環の水は村へ来なくなります。そのあいだは沢まで汲みに上がってもらうことになります」
リクが顔を上げた。上げたきり何も言わなかった。上の沢まで登って汲んだ二年のことは、この井戸端の誰もが知っている。
「そのかわり井戸の底は汚れません。一度濁らせると底に泥が溜まります。溜まった泥は抜けるまで長い。……水が悪くなってから止めるのと、悪くなる前に止めるのとでは、あとがまるで違います」
オドルは桶の把手を握った。
「落とした水はどうなる」
「谷へ落とします。無駄になります」
「もったいねえ話だな」
「もったいない話です。……ですが底には触りません。余りを溜め込もうとして本体をいじれば、いじったぶんだけ厄介なことになる」
オドルはそれ以上訊かなかった。訊かなかったが、この男は無駄になる水の量を頭の中で桶に直しているのだろうとユークは思った。
「戻すのも板を上げるだけです。ただ、元の開き方にきちんと合わせ直すのは俺の手が要ります。俺が帰るまで配る量は少し狂ったままになります」
「狂ったままか」
「狂ったままです。そこは謝るしかありません」
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「沢まで登るのと、濁った井戸で暮らすのと、どっちが重いか」
オドルは井戸のほうを向いたまま言った。
「そりゃあ、汲む者にしか量れんな」
「量れません。だから決めるのはこちらではありません」
ユークは懐から紙を出して井戸の縁へ置いた。
「止めろと言われたら、その日から止めます。俺が戻ってからではありません。言われた日からです」
オドルは長いこと黙っていた。桶の縁の木目を親指でこすっていた。
「訊かねえのか」
「訊きません」
「濁ったから止めろと言えば、それで止まるのか。理由も聞かずに」
「理由を訊けば、言い訳の立つ者だけが止められることになります」
ユークはオドルの後ろに立っている水汲みの手のほうへ目をやった。
「うまく言えない年寄りは、止められなくなります。……そういう形にはしたくありません」
石の上でザグレスが煙草を指から離した。
「一つ足せ」
振り返る前に続きが来た。
「俺が訊かねえ自信はねえぞ。留守を預かる側ってのは必ず訊きたくなる。理由を聞いてから落としたくなる。……だから、俺が訊く前に落とせる形にしとけ」
ミレアが筆を出した。
「では紙の形にします」
彼女は板を膝に載せて書きはじめた。
「日付と、村の名と、止める、の二文字だけの紙にします。理由の欄は作りません」
「作らねえのか」
「欄がなければ書けません。書けなければ、受け取る側も訊けません」
オドルが短く笑った。笑ってから真顔に戻った。
「欄を作らねえために、わざわざ紙を作るのか」
「はい」
「……役所と逆だな」
「逆です」
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手順はそこで決まった。
止めると決めるのはオドル。書くのは村の書役。持って上がる先は砦のザグレス。紙は村が持つ。ミレアはそこまで書いて筆を止めた。得のことは一行も書かなかった。書けることがなかったからだ。
オドルは紙を少し遠くへやって読んでから、四つに畳んで自分の懐へ入れた。突き返しはしなかった。前にも同じ仕草を見た。
「……あんた、前より面倒くさくなったな」
「なりました」
「褒めてねえぞ」
「分かってます」
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昼に砦へ戻ると、ドーランが卓に帳面を広げて荷の頁を繰っていた。
「三人だな」
「五人ぶんだ」
ドーランの手が止まった。
「……五人」
「二体連れていく」
ドーランは頁から顔を上げなかった。上げないまま指で頁の端を押さえた。
「街道で一度でも見られりゃ、あんたは魔物を連れ歩いてる男だ。それ以外の何にもならねえ。……しかも俺の荷から出てきたとなりゃ、その一行に俺の名も並ぶ」
「並ぶ」
「分かってて言ってんのか」
「分かってて言ってる」
連れて行けるかどうかも、まだ誰も確かめていなかった。二年のあいだ一度も外へ出したことがない。パスがどこまで届くのか試した者がいない。
昼過ぎ、ユークはグランとルーメを連れて坂を下りた。
グランは道の脇の岩陰を伝って歩いた。ルーメは籠へ入れて布をかけ、背負って下りた。坂の半ばで一度止まって感触を確かめる。変わらない。重い手応えがそのまま返る。灰環の中にいるときと同じだった。
坂を下りきったところで、もう一度止めた。
返った。坂の上と変わらない。
変わらないことが、かえって何も分かっていないことを示していた。半日でこれなら三日先はどうなのか。試した者がいない。
もう一つ分かったことがあった。グランの蓄えが、坂の上にいたときより薄い。
灰環の中では契約個体は流れから絶えず補っている。誰も数えていないし帳面のどこにも欄がないが、それは毎日起きている。外へ出れば補いは止まる。持って出たぶんを減らしながら歩くことになる。
滞在に締切がつく、ということだった。
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砦へ戻ってから連れて行く数を決めた。決めたという言い方は正しくない。残せない三体が先に決まった。
シルクスは警報網そのものだ。抜けば砦は坂の下を見る目を失う。モルトは井戸の濁りを抑える。三日ぶんの猶予はこの一体が作っている。フェズは釣って逃げ道へ流す役で、防ぎ方の型がこの一体を前提に組んである。
残ったのがグランとルーメだった。
岩の手触りと、脈の写し取り。行った先で要るのがちょうどその二つだったのは都合よく噛み合ったからではない。抜けない三体を除いた先に、たまたまその二つが残っていただけだ。
夕方、ザグレスは門の外で煙を捨てて立った。
「留守のあいだ、誰が座ってる」
自分で訊いて、自分で答えた。
「……分かってる。俺だ」
ユークは何も言わなかった。
「前に俺は言ったな。中に座り込んだら風向きが読めなくなる、と」
「言った」
「曲げる。一度だけだ」
ザグレスは門の柱に背を預けた。
「そのかわり覚えとけ。座ってるあいだの俺は外を読めてねえ。読めてねえ男が読めてるつもりで物を言うのが、いちばん危ねえんだ」
その晩ミレアは書面を一枚作ってザグレスへ渡した。
「紙を受け取らない権限です」
「なんだそりゃ」
「留守のあいだ、誰かが紙を持って坂を上ってくることがあります。……受け取れば、受け取ったという記録が先に立ちます」
責任者は二人とも留守になる。資格のない者が受け取れば、資格のない者が受け取ったという一行が残る。だから受け取らない側に資格を置いておく。
「使う日は来ねえだろ」
「来ないと思います。ですから書いておきます」
ザグレスは書面を四つに畳んで胸へ入れた。
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夜になってドーランがもう一度荷の頁を開いた。
「積む」
ユークは顔を上げた。
「いいのか」
「良かねえ。……だが積む」
ドーランは値の頁を伏せたまま指で叩いた。
「前にあんたの写しを預かっただろう。あれを引き受けたのは、俺が立派だからじゃねえ。預かるだけならただだからだ。ただで持てるものは商人にとっちゃ持ち物だ。値が付くかもしれねえ紙をただで持てるなら持つ」
「持ったな」
「持った。……で、今度のはただじゃねえ。だから理屈が要る」
彼は頁を繰った。細かい数字が並んでいる。
「炉底の鉱材は俺の仕入れでも去年から増えてる。あそこが止まりゃ、最初に損をするのは俺だ。俺は商人だぞ。損が来るのが先に分かるなら、それは値の付く話だ」
そこで手が止まった。繰る必要のないところで止まっていた。
「北の村な」
「ああ」
「十年、荷を入れてた。……減ったのは荷じゃねえ。注文する者がいなくなったんだ」
それきり彼はその話をしなかった。
「条件がある」
ドーランは帳面を閉じた。
「見つかったら、俺は知らねえことにする。荷に何が乗ってたかも知らねえ。……あんたもそう言え」
「言う」
「即答すんな。少しは考えろ」
「考えた。あんたが被る話じゃない」
ドーランは鼻を鳴らして荷駄の値を口にしようとした。ユークが先に止めた。
「値は付けん」
「なんでだ」
「付けたら、あんたのとこの記録に値が付く。荷の値じゃない。俺を運んだ値がだ」
ドーランはしばらくユークを見てから、頁を一枚戻した。
「……こういうところが面倒くせえんだよ、あんたは」
今日二度目だった。
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最後に残ったのが名義だった。
無資格の男が他管理の迷宮へ入る。それだけで一行になる。
ユークは荷の同行者として行くと決めた。灰環の管理者としては行かない。名が出れば問いは値踏みに化ける。値の付かない男には誰も構わない。構われないぶんだけ、行った先で長く話が聞ける。
「ですが、紙は一枚要ります」
ミレアは筆を執ったまま言った。
「名を伏せて街道を歩くのと、名のないまま人の迷宮の坑口をくぐるのは別です。……訊ける相手が一人だけいます」
ユークは黙った。頼めばその人物が背負う。頼まなくても、こちらが困っていることは向こうにも読める。
「返事は期待しません」
ミレアは短い文を書いた。用件だけの文だった。
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六日後の朝、荷が出る前に封が一つ届いた。
院の様式の紙が一枚。〈監督院の照会に関する同行、三名〉とだけある。名は書かれていない。日付と、差出の名。
ミレアが一目で気づいた。
「これは、院の承認を取っていない書き方です」
「分かるのか」
「承認があれば上の欄に決裁の名が入ります。……空いています」
紙の隅に添え書きが一行あった。
〈前の束を出したのと同じ理屈です〉
ユークはその一行をしばらく見てから、紙を畳んで懐へ入れた。礼の文は書かなかった。書けば向こうの手元に、こちらから頼んだ証が残る。
荷車が動きはじめたのは日が坂の上へ出る前だった。
グランは荷の底に伏せている。上へ空の樽を並べ、その上から古布をかけた。ルーメは籠に入れて布をかぶせた。
坂の下でユークは一度だけ振り返った。
二年、この坂の上から先へ行ったことがなかった。上には砦の屋根があり、その向こうに灰環の口がある。シルクスの糸は見えない。見えないが張ってある。
置いてきたものを数えた。
止めるという決定を一つ。三体。それから自分の名。
籠の布の下でルーメの光がかすかに透けていた。透けていた光が、見ているあいだにほんの少し細くなった。
置いてきたものの数だけ、灰環が遠かった。




