第115話 灰環しか見ていない
その晩は誰も答えなかった。
ザグレスは問いを置いたきり煙を吸い終えて岩から立った。ミレアは筆を執らなかった。書くことがなかったからだ。ユークも何も言わずに卓へ戻った。答えがなかったのではない。答えを取りに行く手立てが一つもなかった。
夜が明けてからユークは卓の紙を並べ直した。
台帳の写し。前任の査察記録の束。七つの村の数字。ドーランの帳面から書き取った荷の値。順を変えれば何か浮くかもしれないと思って三度並べ替えた。浮かなかった。
棚の端でルーメが明るさを上げた。頼んではいない。手が止まる時間が長くなると勝手にそうする。
ミレアが湯を運んできて卓の端へ置いた。
「昨夜のあれですね」
「ああ」
「答えは出ましたか」
「出るわけがない」
ユークは紙の列へ手を置いた。
「ここにあるのは全部、灰環の紙だ」
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ミレアは湯呑みを持ったまましばらく卓を眺めていた。それから低く言った。
「私たちは灰環の帳面をとても厚くしました」
半年ぶんの水位表。枝ごとの開度。井戸の澄み具合の記録。深いところで見たものの控え。四つの写しと、背表紙の色を分けた綴り。二年かけて厚くしてきたものが卓の上に山になっている。
「ほかの帳面は、一枚も繰っていません」
ユークは答えなかった。答えようがない。
北で落とされたものにも、まだ立っているものにも、この砦の紙には欄がない。台帳の写しにあるのは番号と等級だけだ。数字の後ろに何があるのかを書いた紙は一枚もない。書き落としたのではない。誰も見に行っていないから書けないのだ。
「二枚目を出せない理由も、たぶんこれだ」
ミレアが顔を上げた。
「実物と数字が合っている、というほうですね」
「合ってはいる。……ただし灰環一つぶんだ」
読んだ者はこう言うだろう。よく分かりました。そちらの迷宮はそうなのですね。それで終わる。七つの村を並べたときと同じ形だ。あのときは、たまたまが七つ重なったと返された。生きた現物が一つなら、たまたまが一つにしかならない。
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ザグレスが戸口から入ってきた。外の匂いをまだ服につけている。
「で。行くのか」
「まだ何も決めていない」
「決めてねえのと行けねえのは違うぞ」
ユークは白い紙を一枚引き寄せた。行けない理由を書き出していく。ミレアが横で同じものを写した。
一つ。枝の開度。仮認証で触れるのは自分ひとりで、離れれば配分は固定のまま回る。晴れが続けば余りは細る。細っても戻す手がない。
二つ。名義。無資格の男が他管理の迷宮を歩けば記録に一行残る。無資格者が他所の穴に立ち入ったという一行だ。それが一行あるだけで、灰環の話は全部その一行の側から読まれるようになる。
三つ。契約個体。二年のあいだ一度も灰環の外へ出していない。パスがどこまで届くのか誰も試していない。届かなくなったとき何が起きるのかも知らない。
ユークは四行目の頭で筆を止めた。
「四つ目は」
ミレアが訊いた。
「どこを見に行くのかが決まってない」
筆を置く。
「台帳には番号が並んでるだけだ。落とされたやつが何十もある。生きてるやつはもっと多い。片端から回れる体じゃない」
ザグレスが鼻を鳴らした。
「四つ目がいちばん重いな」
「重いな」
「ほかの三つは払う相手がいる。四つ目は払っても当たらねえ」
ミレアが写しの四行目に線を引いて空けたままにした。埋まっていない欄を埋まっていない形で残すのは、この砦の書き方だった。
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昼を過ぎてシルクスの糸が坂の下で震えた。
人がふたつと荷車がひとつ。急いでも忍んでもいない足だ。ドーランだった。月に一度の荷にしては日が早い。
ドーランは荷を下ろす前に卓へ来て腰を下ろした。帳面を膝へ乗せる。値の頁は伏せて荷の頁だけを開く。もう慣れた手つきだった。
「北の道はまだ荒れてる。ふた月は直らねえだろうな」
「東は」
「東は良い」
指で頁を叩く。
「炉底が回ってるからな。あそこへ入る荷はこの一年で倍だ」
ユークは顔を上げた。
「炉底」
「知らねえか。鉱脈の穴だ。街道を東へ二日。シェルドの商会が採集権を持ってる」
ドーランは頁を繰った。数字が細かく並んでいる。
「三年前の等級改定で上がってな。それからずっと良い。事故も減った。採れる量も増えた。俺の仕入れも去年から増えてる。……あそこは真面目にやってるよ」
自分の荷でもないのに自分のことのように言った。
ザグレスが横から覗いた。
「良い話だな」
「良い話だ」
ミレアも頷いた。
「よく回っている迷宮の話は、久しぶりに聞きました」
誰も疑っていない。疑う理由がどこにもない。
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ユークだけが黙っていた。
採れる量が増えた。事故が減った。等級が上がった。どれも良い知らせの形をしている。灰環でも同じ種類の言葉を使ってきた。井戸が澄んだ。畝が回った。文句の出ようがない言葉だ。
だが灰環では余りしか触っていない。増やそうとして本体へ手をかければ押さえが緩む。余りを太らせるということは押さえの指を緩めるということだった。それを知っている目で聞くと、よく採れるようになったという一行の意味が裏返って見える。
根拠は灰環一つぶんの理屈しかない。灰環は水の穴で、炉底は岩の穴だ。同じ形をしている保証はどこにもない。ここで口にすれば、二百人が食っている坑の話に、確かめてもいない理屈で触ることになる。
ユークは口を開かなかった。今この場では言わないことのほうが正しい。
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代わりに彼は台帳の写しを引き寄せた。
「ドーラン。街道の北で落とされたやつがあっただろう」
「あったな。三代前だ」
ドーランの手が止まった。
「……俺が荷を入れてた村の、すぐ隣だ」
卓が少し静かになった。ミレアは筆を止めて何も書かなかった。
「あの村はもう半分だ。減ったのは荷じゃない。注文する者がいなくなったんだ」
ユークは台帳の二つの番号に指を置いた。落とされたものと、立っているもの。
「片方だけじゃ足りない」
二人がこちらを見た。
「抜けたあとがどうなるかは、跡を見ないと分からない。今どうなってるかは、生きてるやつを見ないと分からない。片方だけ見ても比べるものがない」
ザグレスが眉を上げた。
「四つ目が潰れたな」
「潰れた」
ユークは紙の四行目を書き直した。跡になった穴が一つ。まだ立っている穴が一つ。それだけでいい。全部を回る必要はない。二つあれば、たまたまが一つではなくなる。
「灰環が何をしてるかは分かった」
顔を上げて、そこで少し黙った。
「だが灰環しか見ていない」
誰も口を挟まなかった。
「行く」
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言った途端に卓が動きはじめた。
ドーランが帳面を繰り直した。炉底行きの荷は次が十日後だが、六日に繰り上げれば道連れにできるという。ミレアが白紙を広げて行程を引く。北へ三日。そこから東へ二日。ザグレスは指を紙の上で滑らせて危ないところを押さえていった。沢の渡り。夜に人の出る林。役人の詰所がある宿場。
紙の上に地名が並んでいく。ユークはその列を見ていた。
二年、この坂の上から先へ行ったことがなかった。街道は下るだけで、下った先はラスティアまでだった。灰環の紙に灰環の外の地名が並ぶのは初めてだ。
行けると思った瞬間に体が軽くなるのが自分でも分かった。分かったから嫌な感じもした。軽くなったぶんは、どこかで誰かが重く持つことになる。
ミレアが筆を止めた。それから行程の紙の頭へ戻って一行だけ書き足した。
〈留守のあいだ、井戸はどうなりますか〉
卓の音が止まった。
ドーランの手が頁の途中で浮いたまま止まり、ザグレスの指が紙の上から動かなくなった。ミレアはその一行を消さなかった。消さずにこちらを見ていた。
ユークは答えられなかった。
留守のあいだ、枝は固定で回る。回るが動かせない。晴れが続けば余りは細り、槽の流れが緩んで底の泥が舞う。モルトが先に浚っておけるのは三日までだ。四日目から追いつかない日が出る。
しかも今度は何日で戻るかを誰も計算できない。北へ三日。東へ二日。帰りも同じだけかかる。向こうで何日かかるのかは行ってみなければ分からない。
一日ぶんだけ細らせろ、そのあとまた井戸端で決める。あの型は一日ずつだったから通った。戻るまでのぶんをまとめて承知してくれと言った瞬間に、この砦の紙は役所の紙と同じ顔になる。
ユークは行程の紙をもう一度見た。出発は六日後。ドーランの荷に合わせるならそこは動かせない。
だが彼が決めたのは出発の日ではなかった。
「明日の朝いちばんに坂を下りる」
ミレアが顔を上げた。
「村へですか」
「井戸端だ」
ユークは湯呑みを取って中身を飲み干した。とうに冷めていた。
「行き先を告げに行くんじゃない。……減るぶんを先に言いに行く」




