第114話 配るより前にしていたこと
書き出しの一行は短かった。確かめはしない、とだけあった。
ユークは灯へ紙をもう少し寄せた。二行目にその理由が続いていた。確かめれば自分は当主でいられなくなる。オルグレン卿はそう書いていた。三代のあいだ家が落としてきた迷宮の数を今さら数え直すことになるからだと。数え直した男に家を継がせておく者はいない。
脅しの文はどこにもなかった。灰環をどうしろとも口を閉じていろとも書いていない。ただ自分は確かめない、とだけ書いてある。それきりの紙だった。
ミレアが横から覗いた。
「否定は」
「していない」
ユークは紙を卓へ置いた。
「読んだとも読んでいないとも、あの人は俺に訊かなかった。……訊けば答えを聞いてしまう」
聞いてしまえば確かめたことになる。確かめれば当主でいられない。だから訊かずに退く。退くことがあの家にとっては一番安い始末なのだった。
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最後の一行だけ筆の運びが少し変わっていた。
次に来るのは、私のような者ではありません。
ユークはその一行をしばらく見ていた。オルグレン卿は討伐で家名を立てた家の当主だ。落とせば土地が痩せると薄々知りながら、確かめずに済ませる理由を三代ぶん持っている男だった。その男が自分より後に来る者を、自分とは別の種類だと言い切っていた。
ミレアが筆を執った。
「これは控えます」
「ああ」
「脅しではありませんが、脅しより長く効きます。……あの方は自分の退き際に、次を予告していきました」
討伐の家が退いた先に何がいるのか、卿は名を書かなかった。書かなくても分かる。討たれた歴史そのものを土台にしている側だ。家一つの面子では済まない側だった。
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卓の綴りはまた一段厚くなっていた。
だが厚くなったのは砦の卓だけではない。同じ形の写しが、今はクルン村の集会小屋にある。ラスティアのドーランの帳場にある。ハウル坑区のグニェルの手元にある。冒険者の受けの束のあいだにも一つ紛れている。
置かれ方はどれも違った。村のものは集会小屋の柱に紐で吊るされている。誰でも手に取れるが持ち出せば紐が余る。ドーランは帳場の錠のかかる引き出しへ入れた。商いの紙と同じ扱いだ。グニェルのものは坑区の詰所の壁へ釘で留められていた。字の読める者が三人しかいないから読み上げる者が要る。冒険者のものは束のいちばん下だ。誰も探さないが受けを繰れば必ず出てくる。
一冊を焼いても同じ紙が四つの場所で息をしていた。灰環の記録はもう灰環だけのものではなくなっていた。
昼を過ぎてシルクスの糸が坂の下で震えた。二つ。人の足だ。急いでもいないし忍んでもいない。ユークが筆を置いて外へ出ると、坂を上ってきたのはそのクルン村のオドルとリクだった。
オドルは写しの束を布に包んで抱えていた。預かった紙をわざわざ持って上がってくる必要はない。それでも二人は上ってきた。
「預かったものだが」
オドルは布をほどかず卓の端へ置いた。
「読んだ。字の読める者に、全部読ませた」
オドルの声はいつもより低かった。
「うちのすぐ横にも迷宮がある。ハズレだと呼んで、誰も寄りつかなかったやつだ。……あれが、うちの井戸を涸らさずにいたのか」
ユークは頷いた。
「頼まれたわけじゃない。数えられてもいない。ただ抑え続けていた」
リクが顔を上げた。うつむいてはいなかった。
「北の村は濁ったんだろ。落とされた迷宮の隣は、みんな濁った。……うちだけ濁らなかった。なんでだろうって、誰も訊かなかった」
「濁れば訊く。濁らなければ訊かない」
オドルがそのあとを継いだ。
「訊かなかったから、俺たちはずっとハズレと呼んでた。……礼を言う相手を、ハズレと呼んでたわけだ」
リクが提げていた桶を足元へ置いた。上ってくるあいだ空のまま持っていたらしい。
「うちの井戸さ。朝いちばんに覗くと底の石が見えるんだ。北の村から流れてきた人が去年それを見て黙っちまってさ。……あんとき何も言えなかったけど、今なら言える。あれは運じゃなかったんだって」
オドルがリクの肩を軽く押した。余計を言うなという押し方ではなかった。
ハズレと呼ばれていた年月のあいだも、迷宮は土地を抑えていた。誰にも数えられず、帳面のどこにも欄がないまま。それを村の側が初めて知った顔で言っていた。
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二人が坂を下りたあと、ユークは中枢の記録の頁を手元へ引き寄せた。日が傾いて卓の上が暗い。棚の端でルーメがゆっくり明るさを上げた。頼んではいない。頁を繰る手が止まる時間が長くなると勝手にそうする。
接続。循環。配分。彼はずっとその配分を守るために動いてきた。村の井戸を涸らさないよう枝を組み、配る順番を書面に取り、奪いに来る手を通さなかった。その配分が灰環の本体ですらなかった。抑えて溢れた余りが外へ漏れていただけだ。彼が価値だと思って守ってきたものは、余りのほうだった。
落ち着かない気はした。だが手が止まるほどではなかった。
運用は間違っていなかった。余りを丁寧に扱ってきたから本体には一度も手をかけずに済んだ。増やそうとして底をいじれば抑えが緩む。彼はそれを知らないまま、一度も底へ手を伸ばさなかった。知らずに正しい側にいた。誇れることではない。だが続ける理由にはなった。
坑の奥からグランが戻ってくる気配がした。今日は下の補修に入っていた。重い感触がひとつ返ってくる。異常なし。それだけだ。この竜も底のことは何も知らない。知らないまま毎日おなじ場所を突いて固さを確かめている。ユークもそうだった。
ミレアが綴りの背へ新しい一行を足していた。綴じ紐を一度ほどいて背を平らにし、細い筆を寝かせて字を置いていく。書き終えてから紐を締め直した。ユークはその手元を見た。
「なんと書いた」
「配るより前にしていたこと、と」
ミレアは筆を置いた。
「配分の記録は、これまでどおり配分の綴りに残します。……ですが背には、こう書いておくべきだと思いました」
配ることが表に立ちすぎていた。表に立っていたぶん、その前にしていたことを誰も数えなかった。背の一行はそれを裏返す一行だった。
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夕方にザグレスが坂の下から戻ってきた。外の風を確かめてきた顔だった。
「一枚目は坂を下りきった」
ザグレスは岩へ腰かけた。
「土地がなんで痩せるのか、って紙だ。灰環の名はどこにもねえ。だから誰も値をつけねえ。値のつかねえ紙は握り潰す理由もねえ。……ゆっくり広がってる」
ユークは頷いた。急いてはいけない紙だった。名が出れば問いは値踏みに化ける。名を伏せたぶんだけその紙は長く残る。
ザグレスは煙草をくわえたまま卓の綴りを見た。
「なあ。結局この迷宮は、なんだったんだ」
ユークは少し考えてから答えた。
「世界は迷宮を、討つべき危険か持つべき資産か、どっちかでしか見ていない。……こいつはそのどっちでもなかった。ただ土地を抑えていた」
誰にも数えられずに。帳面のどこにも欄がないまま。討たれた迷宮のぶんだけどこかの土地が沈んできた。誰も嘘をつかずに。片方の帳面には落としたとだけ書かれ、もう片方の帳面には人が減ったとだけ書かれて、そのあいだを繋ぐ欄がどこにもなかったからだ。
ザグレスはしばらく煙を見ていた。
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それからザグレスは低く言った。
「じゃあ、ほかのは」
ユークが顔を上げても、ザグレスは煙を見たままだった。
「灰環がこれなら、街道の北で落とされたやつは何を抑えてた。……まだ立ってるやつは、今も何を抑えてる」
答えは卓の上になかった。写しにも前任の一行にもなかった。灰環一つ分の紙が四つの場所に散っただけで、ほかの迷宮のことは何も書かれていない。誰も見に行っていない。台帳に数字が一つと、記録に一行あるきりだ。
ユークは中枢の方角を見上げた。
接続。循環。配分。鎮。読めた並びの、そのさらに先はまだ暗いままだった。灰環が何なのかはこちらが先に知った。だが知った拍子に別のものが分からなくなっていた。
灰環一つの正体が分かって、代わりに世界のほうが分からなくなっていた。




