第111話 討ってきた家
坂を上りきった一行は五人だった。
先頭の男が供を連れているのではない。後ろの四人がその男の歩幅に合わせていた。歩調がそろって聞こえたのはそのせいだ。
中背の男だった。髪は灰色に近い。外套には家の紋があるが飾りは少なく、旅の埃も落としていない。年は五十を越えているだろう。右手の甲に古い傷が走っていて、それを隠す仕草もなかった。腰の剣は提げているというより身に付いていた。
「オルグレン」
ザグレスが横で声を落とした。
「この辺の迷宮を落として名を上げた家だ。じいさんの代からずっとやってる。いくつ落としたかなんざ数えたやつはいねえよ」
「当主か」
「当主だ。……代理をよこさずに自分で坂を上ってくるような家じゃねえんだがな」
ユークは受付台の前へ出た。
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男は台の前で足を止めて名乗った。名乗ったのは家名と当主であることだけだった。
声は大きくなかった。地所の主として領内を見て回っている途中でここへ寄った——用向きはそれだけだと飾らない言い方で告げた。脅す響きも値踏みする響きもない。
「見せていただけますか」
「どうぞ」
断る理由を探すより先に、断ればこの男は次に別の顔で来ると分かった。
ミレアは卓の帳面を閉じずに置いたままにした。閉じれば隠したことになる。開いていれば、開いているものしか見られていないという記録が残る。
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卿は砦の中を静かに歩いた。
井戸台の水を見た。樋の継ぎ目を見た。古布と桶の貸し出し棚の前では、返却の控えを一枚だけ手に取って戻した。手は組んだままほとんど動かさない。
フェンウィックは数字の頁を素通りした。この男も素通りした。だが素通りの仕方が違っていた。あの男は頁を見もしなかった。卿は頁を見て、見終えてから顔を上げた。
顔を上げた先が、中枢のある方角だった。
ユークはその向きを覚えた。前の朝と同じ方角だ。
値のつくものならこの砦にはいくらでもある。水も器具も記録もだ。男はそのどれの前でも足を止めなかった。
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外では水を受け取りに来ていたクルン村の者たちが荷を止めていた。オドルと桶を担いだ若い衆が二人。
卿の供の一人が通りがかりに短く言った。悪気のない事務の口調だった。
「この野良迷宮の水を、村へ引いているのですか」
若い衆の一人が顔を上げた。桶の縁を握る指に力が入るのが離れていても見えた。
ザグレスが動いた。急がずその肩の後ろへ入って、片手を軽く置いただけだった。
「桶が傾いてるぞ」
それだけ言ってザグレスは供のほうへ顎を向けた。
「悪気で言ってねえよ。役所の紙じゃそう書くってだけだ」
オドルが目で若い衆を制した。荷はそのまま砦の中へ運ばれていった。ザグレスは供のほうへも一度だけ目礼を返した。どちらの側も一言ぶんで済んだ。
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卓へ戻ると、卿は座らずに立っていた。
ミレアが控えの紙を広げて筆を執っていた。それを見て卿はわずかに目を細めたが止めはしなかった。
「控えていただいて結構です」
卿は言った。
「私は、後で言い直すつもりのないことしか言いません」
ミレアが頷いて筆を下ろした。
ユークは台のこちら側から相手の目を見ていた。この男は嘘をつくつもりがない。厄介なのはそこだった。嘘をつく相手なら嘘の穴を探せばいい。
「一つだけ伺いたい」
卿の声は変わらなかった。
「あの奥に字がある。長らく読めなかったと聞いています」
ユークは黙っていた。
「その一語を、あなたは読んだか」
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それだけだった。
何と書いてあったのかとは訊かない。何が分かったのかとも訊かない。読んだか読んでいないか——問いはそこで閉じていた。
ユークは答えなかった。
読んだと言えば、そこから先の値踏みが始まる。読んでいないと言えば、まだ間に合うと相手に教えることになる。どちらも答えではない。答えないという選び方だけが手元に残っていた。
卿は待った。
待ち方が奇妙だった。答えを待つ者の目は相手の口へ行く。この男の目はユークの口から離れて、その後ろの方角へ一度そらされた。中枢のある側だ。
そして答えが返らないうちに、卿は次を話しはじめた。
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「私の祖父が、最初の一つを落としました」
卿は帳面のほうを見ずに言った。
「この街道で子どもが二人続けて消えた年です。祖父は兵を集めて口を塞ぎ、中を焼いた。街道は静かになりました。……それは嘘ではありません。翌年から行商が夜も通るようになった」
ユークは口を挟まなかった。
「父も同じことをしました。私もしました。落とせば街道が静かになる。静かになった街道の宿が増える。増えた宿の税で村の橋が架かる。そうやって家の名は立ちました」
卿は一度言葉を切った。
「私は、それを間違いだと言われたことが一度もありません」
言い方に自慢はなかった。ただ順序を並べただけの声だった。ユークはその順序に嘘がないことを認めた。討伐は本当に人を救ってきた。救ってきた事実と、その先で土地が痩せた事実は、どちらも本当で、どこにも一緒には書かれていない。
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「忠告を一つ置いていきます」
卿は言った。
「その話は、まだ誰にも聞かせないほうがいい」
ユークは相手の顔を見た。
「あなたのためではありません。あなたが水を配っている、あの村のためです」
卿は外の方角へ短く目をやった。荷を担いだ村の者が坂を下りていくところだった。
「この辺りで迷宮の側に立った村は、一度も得をしたことがない。水がどこから来ているかを村が知って、その水の元が何なのかまで村が言いはじめれば、村は迷宮と一緒に数えられます。一緒に数えられた側がどうなるかは、私の家のほうがよく知っている」
脅しの響きはどこにもなかった。ユークは聞きながら、この忠告の半分が本気の親切でできていることに気づいた。だから重かった。脅しなら押し返せる。親切の形をした圧は、押し返す手のかけどころがない。
「聞かせないほうがいい、というのは」
ミレアが筆を止めずに訊いた。
「どなたにとってですか」
卿は少し黙った。
「……全員にとってです」
その答えを、ミレアは一字も削らずに控えた。
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卿は一日いて、翌朝に発った。
泊まりは砦の外の天幕で取り、水も自分たちの荷から使った。灰環の水には手をつけなかった。去り際にもう一言あるかとユークは身構えたが、卿は頭を下げただけだった。
坂を下りていく背を見送ってザグレスが息を吐いた。
「……妙な客だ。剣も抜かねえ、金も出さねえ、脅しもしねえ」
「怖がってた」
「何をだよ」
「答えを」
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卓へ戻ってからユークは順に並べ直した。
「あの人は、字に何が書いてあったかを訊かなかった。読んだかどうかだけを訊いた」
ミレアが控えを繰った。
「訊かれたのは、その一つだけです」
「中身を知ってる人間なら、こっちがどこまで掴んだかを測りに来る。知らなくて知りたい人間なら、中身を訊く。あの人はどっちもしなかった。……中身を聞きたくないんだ。聞けば知ってしまうから」
ザグレスが眉を寄せた。
「知ってると思ってたぜ、俺は」
「知ってたら潰しに来ない」
ユークは脈の記録の端に指を置いた。
「灰環が本当に下を押さえてるなら、灰環が終わった先で沈むのはあの人の領地だ。知ってて終わらせるのは自分の足元を自分で掘るのと同じになる」
「じゃあ何も知らねえのか」
「知らないんじゃない。疑ってる。疑ってて、確かめてない」
ミレアが筆を止めた。
「確かめれば済む話ではありませんか。……あの方の立場なら、調べる手はいくらでもあります」
「確かめたら、その日から当主でいられない」
ユークは言った。
「三代ぶんの手柄が、三代ぶんの間違いになる。確かめた本人がそれを知ったまま家の卓に座るのは無理だ。……逆に、確かめなければどうなる」
ミレアが控えの紙から顔を上げた。
「……沈むのは、ずっと先です」
「ずっと先で、しかも」
「〈人口減〉の一行になります」
ミレアの声が少し低くなった。
「井戸が濁った理由は、領の帳面には書けません。迷宮を落とした記録は、監督院の帳面にしか残りません。繋ぐ欄がないので、繋がれません」
卓の上が静かになった。
あの様式に守られているのは灰環ではなかった。いちばん深く守られているのは、確かめないと決めた側だ。確かめれば今日にも失う。確かめなければ、失うのは何十年も先の、誰にも繋がれない一行きり。天秤の両側に載っているものの重さが違いすぎた。
「……釣り合ってねえな」
ザグレスが低く言った。
「釣り合ってない。だからあの人は確かめない」
証拠を積んでも、確かめないと決めた相手には届かない。届かせたいなら、確かめずに済まない形にするしかない。ユークはそこまで考えて、まだその形を持っていないことに気づいた。
ミレアが控えの束を軽く揃えた。
「あの方は、退かれたのでしょうか」
「退いてない。……手を出さずに済む理由を、確かめないまま持って帰っただけだ」
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その夜だった。
ユークは砦の卓についたまま、パスの奥から短い震えを拾った。
シルクスの糸だ。中枢へ向かう分岐の、人の膝より低いところに張ってある古い網。それがごく短く二度震えてから静かになった。獣の踏み方ではない。風でもない。床すれすれを、何か小さなものが這っていく震え方だった。
ユークはその感触を知っていた。
春先の夜だ。配分の枝を狂わせたものが、同じ震え方をした。
二度目だった。
一度目は事故の形をしていた。だが同じ形が二度来れば、それはもう形ではなく手だ。ユークは残しておいた一度目の控えを頭の中で開いて、今夜の震えをその隣へ置いた。
点が、繋がった。




